都留重人

概要

 都留 重人(つる しげと)明治四十五(1912)年壬子(みずのえね49)三月六日生誕-平成十八(2006)年丙戌(ひのえいぬ23)二月五日逝去(93歳)は日本の経済学者、一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)を創刊しました。

 初代一橋大学経済研究所長、第六代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)、日本学士院会員等を歴任しました。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者です。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこないました。

一橋大学
ハーバード大学
イェール大学

経歴

 明治四十五(1912)年壬子(みずのえね49)三月六日に東京都で誕生。名古屋市育ち。熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校第四学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍されました。

 アメリカ合衆国ウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学しました。その後ハーバード大学の学部に入学し、昭和十年(1935年)に優等賞を取得し卒業、大学院に進学しました。大学院ではポール・サミュエルソンが同窓生でした。昭和十一年(1936年)、同大大学院で修士号取得。結婚後、昭和十五年(1940年)、同大大学院で博士号 (Ph.D) を取得して、ハーバード大学講師となりました。

 昭和十七年(1942年)に第二次世界大戦勃発(日米開戦)によりハーバード大学を辞職して帰国しました。妻の伯父である木戸幸一に頼み、外務省嘱託として就職しました。

 昭和十八年(1943年)に旧制東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)嘱託研究員となりました。二等兵として兵役後、外務省勤務となりました。

 終戦後、昭和二十二年(1947年)に片山内閣の下で経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任、第1回経済白書『経済実相報告書』を執筆しました。

 昭和二十三年(1948年)に東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任しました。その後、アメリカ留学当時、共産主義者であったことを告白しました。

客員教授昭和24)年、中山伊知郎の後任として、新制一橋大学経済研究所の初代所長に就任しました。昭和二十五年(1950年)に第二期日本学術会議会員。昭和三十一年(1956年)に一橋大学経済研究所長を退任。同年、ハーバード大学客員教授。昭和三十五年(1960年)にイェール大学客員教授に就任しました。

 一橋出身者以外からは初となる一橋大学学長を昭和四十七年(1972年)から昭和五十年(1975年)まで務めました。昭和五十年(1975年)から昭和六十年(1985年)まで朝日新聞社論説顧問。昭和六十一年(1986年)から平成二年(1990年)まで明治学院大学教授を務めました。

 平成十八(2006)年二月五日に都留重人は前立腺がんの為逝去。国際的な経済学者の九十三年の生涯でした。

著作

現代経済学の群像 (岩波現代文庫) (日本語) 文庫 – 2006/9/15

都留 重人  (著)

 

近代経済学の群像 (岩波現代文庫)

経済学はむずかしくない(第2版) (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 1974/1/1

都留 重人 (著)

経済学はむずかしくない(第2版) (講談社現代新書)

サムエルソン 経済学〈上〉 (日本語) 単行本 – 1992/5/15

サムエルソン 経済学〈上〉

P.A. サムエルソン (著), W.D. ノードハウス (著), Paul A. Samuelson (原著), & 2 その他

いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝 (日本語) 単行本 – 2001/11/22

都留 重人  (著)

いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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下村治

概要

 下村 治(しもむら おさむ、明治四十三(1910)年庚戌(かのえいぬ47)十一月二十七日生誕-平成元(1989)年己巳(つちのとみ6)六月二十九日逝去。(七十八歳)は、日本の経済学者、大蔵官僚。池田勇人内閣で高度経済成長の政策立案を務めました。

経歴

 明治四十三(1910)年庚戌(かのえいぬ47)十一月二十七日に佐賀県佐賀郡北川副村(現・佐賀市)に誕生。旧制佐賀中学校、旧制佐賀高等学校文科甲類を経て、昭和五年(1930年)に東京帝国大学経済学部に進学し、その後コロンビア大学に留学しました。

東京帝国大学
コロンビア大学

 昭和八年(1933年)に高等試験行政科試験に合格、昭和九年(1934年)に東京帝大経済学部を卒業し大蔵省に入省、昭和三十四年(1959年)退官までの間に経済安定本部物価政策課長、日本銀行政策委員などを歴任しました。大蔵省内では非主流派でした。戦後すぐに、日本銀行43条を巡って、松本重雄らと激しい論戦をしました。その後、独創的な理論経済学者として知られたのは戦後のことであります。昭和二十三年(1948年)に結核を発症して闘病生活を送る間に口述筆記などで論文を執筆し、昭和三十一年(1956年)『経済変動の乗数分析』により東北大学から経済博士号を授与されました。

 退官後は国民金融公庫理事、日本開発銀行理事、日本経済研究所会長を務めました。昭和三十五年(1960年)前半の池田内閣の国民所得倍増計画立案に中心的役割を果たし、日本の高度経済成長に貢献しました。第一次石油ショック以降はゼロ成長を提言しました。最後の著書ではアメリカの経済政策に対する日本経済の過剰対応を警告しました。昭和五十六年(1981年)に勲二等旭日重光章を受章しました。平成元(1989)年六月二十九日逝去。戦後の日本の高度経済成長に貢献した七十八年の生涯でした。

著作

悪いのはアメリカだ 日本は悪くない (文春文庫) (日本語) 文庫 – 2009/1/9

下村 治  (著)

日本経済学新論 (ちくま新書) (日本語) 新書 – 2020/5/8

中野 剛志  (著)

日本経済成長論 (中公クラシックス) (日本語) 単行本 – 2009/3/1

下村 治  (著)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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高橋亀吉

概要

高橋 亀吉(たかはし かめきち、古い文書では「髙橋龜吉」)明治二十四(1891)年 辛卯(かのとう28)一月二十七日生誕ー昭和五十二(1977)年 丁巳(ひのとみ54)二月十日逝去。(八十六歳)は、経済評論家・経済史研究者。日本の民間エコノミストの草分け的存在です。新平価解禁派。文化功労者。

経歴

 明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)一月二十七日に山口県徳山村(現・周南市)に、船大工の長男として誕生。稼業の衰退から高等小学校卒業後に大阪の袋物問屋に丁稚奉公へ出ましたが、1年で辞めて朝鮮へ渡航します。日本人居留民相手の営業や販売、貿易実務・電信局の請負などに従事しました。

山口県周南市

 高橋亀吉は本格的に商売の勉強を志し、早稲田大学の講義録で旧制中学の内容をマスターしました。講義録を履修した校外生として優秀な成績を修めた後に、高等予科から早稲田大学商科に進学、大正五年(1916)年に卒業しました。恩師の伊藤重次郎から大学に残り商科の研究生を薦められたが、商科長の同意を得られず断念しました。

早稲田大学

 高橋亀吉は久原鉱業(現在のJXTGエネルギー)に入社して調査業務に従事しましたが、サラリーマンの生活には馴染めず、伊藤に再び相談してみたところ先輩の石橋湛山が主幹を務めていた東洋経済新報社を紹介され大正七(1918)年二月十九日に入社しました。当初、旧平価解禁説だった湛山を購買力平価説で説得した理由は、ニコライ・ブハーリンの『過渡的経済論』とグスタフ・カッセルの『世界の貨幣問題』に影響を受けていたからです。

東洋経済新報社

 高橋亀吉は東洋経済新報社入社直後に記者として欧米視察を経て『前衛』『マルクス主義』『社会主義研究』で資本主義研究を執筆しました。『東洋経済新報』編集長、取締役を経て、大正十五年(1926年)に退社。フリーとして活動を始めて、昭和七(1932)年十月に高橋経済研究所を創立しました。『高橋財界月報』を刊行して経済評論において先鞭をつけました。

高橋財界月報

 高橋亀吉は「新平価解禁四人組」の一人として、リフレーション政策を積極的に唱導しました。昭和研究会、企画院参与としてアジア・太平洋戦争下の政府の経済政策にも参画しました。

 高橋亀吉は終戦後に公職追放を受けましたが、資本・人員不足を理由に高橋経済研究所を解体して、新たに日本経済研究所創設に関わり、通称産業省顧問、産業計画会議委員(議長・松永安佐ヱ門)等を歴任しました。拓殖大学教授を昭和三十一年(1956年)から昭和四十八年(1973年)まで勤めました。昭和三十三年(1958年)に、拓殖大から経済博士号を授与されました。博士論文は「大正・昭和財界変動史」。

 高橋亀吉は昭和四十九年(1974年)に、文化功労者に選ばれました。主著には、『日本近代経済形成史』『私の実践経済学』等があります。昭和五十二(1977)年二月十日に高橋亀吉は逝去。戦後の日本の高度経済成長にエコノミストとして貢献した八十六年の生涯でした。

著作

日本近代経済形成史 第1巻 (日本語) 単行本 – 1968/1/1

高橋 亀吉 (著)

私の実践経済学 (日本語) 単行本 – 1976/1/1

高橋 亀吉 (著)

私の実践経済学はいかにして生まれたか (日本語) 単行本 – 2011/7/8

高橋 亀吉  (著)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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高橋是清

概要

 高橋 是清(たかはし これきよ)嘉永七年甲寅(きのえとら51)閏七月二十七日(1854年9月19日)生誕-昭和十一(1936)年丙子(ひのえね13)二月二十六日薨去。(八十一歳)は、日本の幕末の武士(仙台藩士)、官僚、政治家です。近代日本を代表する財政家として知られ、総理大臣としてよりも大蔵大臣としての評価が高い。愛称は「ダルマさん」。

経歴

 嘉永七年甲寅(きのえとら51)閏七月二十七日(1854年9月19日)に父の幕府御用絵師・川村庄右衛門(四十七歳)と母きん(十六歳)の子として、江戸芝中門前町(現在の東京都港区芝大門)に誕生。是清は生後まもなく仙台藩の足軽高橋覚治の養子になりました。

 横浜のアメリカ人医師ヘボンの私塾であるヘボン塾(現・明治学院大学)で学び、慶応三年(1867年)に藩命により、勝海舟の息子・小鹿とアメリカ合衆国へ留学しました。

 しかし、横浜に滞在していたアメリカ人の貿易商、にによって学費や渡航費を着服され、さらにホームステイ先の両親に騙され年季奉公の契約書にサインし、オークランドのブラウン家に売られました。牧童や葡萄園で奴隷として扱われますが、本人は奴隷になっているとは気づかずに、キツイ勉強だと思っていました。いくつかの家を転々とわたり、苦労を重ねました。この間、英語の会話と読み書き能力を習得しました。

 明治元年(1868年)に帰国しました。帰国後の明治六年(1873年)にサンフランシスコで知遇を得た森有礼の推薦で文部省に入省しました。英語の教師も兼務し、大学予備門(東京大学の前身)で教える傍ら当時の進学予備校の数校で教壇に立ちました。教え子には俳人の正岡子規やバルチック艦隊を撃滅した海軍中将・秋山真之らがおります。

 官僚を辞職してペルーで銀鉱事業を行うが、すでに廃坑のため失敗。明治二十五年(1892年)に帰国後、川田小一郎の推薦で、日本銀行に入行しました。

 日露戦争 (1904 – 1905) が発生した際には日銀副総裁として、同行秘書役深井英吾を伴い、戦費調達のために戦時外債の公募で同盟国のイギリスに交渉に向かいました。投資家には兵力差による日本敗北予想があり、交渉は困難をきたしましたが、交渉の結果、公債募集は成功し、戦費調達が出来きました。

 大正二年(1913年)に第一次山本内閣の大蔵大臣に就任、この時立憲政友会に入党しました。政友会の原敬が組閣した際にも大蔵大臣となり、原が暗殺された直後、財政政策の手腕を評価され第二十代内閣総理大臣に就任しました。しかし、大黒柱の原を失い混乱する政友会を立て直すことはできず、閣内不統一の結果内閣は半年で瓦解しました。

 高橋は政友会総裁を田中義一に譲り政界を引退しましたが、昭和二年(1927年)に昭和金融恐慌が発生し、瓦解した第一次若槻内閣に代わって組閣した田中義一に請われ自身3度目の蔵相に就任しました。高橋は日銀総裁となった井上準之助と協力し、支払猶予措置(モラトリアム)を行うと共に、片面だけ印刷した急造の200円札を大量に発行して銀行の店頭に積み上げて見せて、預金者を安心させて金融恐慌を沈静化させました。

 昭和六年(1931年)に政友会総裁・犬養毅が組閣した際も、犬養に請われ4度目の蔵相に就任し、金輸出再禁止(12月13日)・日銀引き受けによる政府支出(軍事予算)の増額、公共事業で、世界恐慌で混乱する日本経済をケインズ政策により、世界最速で回復させました。

 ケインズ政策はほぼ所期の目的を達しておりましたが、これに伴い高率のインフレーションの発生が予見されたため、これを抑えるべく軍事予算の縮小を図ったところ軍部の恨みを買いました。昭和十一(1936)年二月二十六日の二・二六事件で、赤坂の自宅二階で反乱軍の青年将校らに胸を6発撃たれ、暗殺されました。日本経済を大蔵大臣として恐慌から救った八十一年の生涯でした。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
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三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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ポール・アンソニー・サミュエルソン(Paul Anthony Samuelson)

概要

ポール・アンソニー・サミュエルソン(Paul Anthony Samuelson、1915(大正4)年 乙卯(きのとう52)5月15日生-2009(平成21)年 己丑(つちのとうし26)12月13日逝去。(94歳)は、アメリカ合衆国の経済学者です。顕示選好の弱公理、ストルパー=サミュエルソンの定理、サミュエルソン=ヒックスの乗数・加速度モデル、バーグソン=サミュエルソン型社会厚生関数、新古典派総合などで知られてます。第1回ジョン・ベイツ・クラーク賞受賞(1947年)、第2回ノーベル経済学賞受賞(1970年)を受賞しました。

経歴

 1915年にインディアナ州ゲーリーのユダヤ人家庭に生まれました。大恐慌の最中であった1932年に16歳でシカゴ大学入学、1935年に卒業しました。その後、1936年にハーバード大学大学院に進学し、1941年に博士号を取得しました。シカゴ大学でシカゴ学派から価格理論を学び、ハーバード大学で数学と物理学を学びました。この学問がサミュエルソンの理論的性格を方向付けたと言われます。学位取得に先立ち、マサチューセッツ工科大学(Massachusetts Institute of Technology:MIT)で教鞭を執り、1944年に准教授、1947年に教授となりました。

ハーバード大学
シカゴ大学
マサチューセッツ工科大学

 23歳の時に書かれた処女論文「消費者行動の純粋理論ノート」(『エコノミカ』所収)において、需要曲線が限界効用理論の助けを借りなくても、市場で観察可能な購入のみに「顕示された」選好から引き出せることを示しました(顕示選好理論)。

 著書『経済学(Economics: An Introductory Analysis)』(初版は1948年出版)において、「不完全雇用時にはケインズ的介入を行うべきであるが、ひとたび完全雇用に達すれば新古典派理論がその真価を発揮する」という新古典派総合を主張し、新古典派ミクロ経済学とケインズ主義マクロ経済学の関係性についての見解を示しました。なお、本書は経済学の教科書として全世界で一千万部を超えるベストセラーとなっております。2009年逝去されました。経済学において新古典派総合の創出をした94年の生涯でした。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

サムエルソン 経済学 上下巻セット 単行本

都留重人 (翻訳)

出典 https://www.amazon.co.jp

サムエルソン 経済学〈上〉 (日本語) 単行本 – 1992/5/15
P.A. サムエルソン (著), W.D. ノードハウス (著), Paul A. Samuelson (原著), & 2 その他

サムエルソン 経済学〈下〉 (日本語) 単行本 – 1993/6/29
P.A. サムエルソン (著), W.D. ノードハウス (著), Paul A. Samuelson (原著), & 2 その他


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
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三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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ミルトン・フリードマン(Milton Friedman)

概要

ミルトン・フリードマン( Milton Friedman、1912(大正元)年 壬子(みずのえね49)7月31日生-2006(平成18)年 丙戌(ひのえいぬ23)11月16日逝去。(94歳)は、アメリカ合衆国の経済学者です。ケインズ経済学から転向して、古典派経済学とマネタリズム、市場原理主義・金融資本主義を主張し、ケインズの総需要管理政策を批判しました。共和党支持者。1976年、ノーベル経済学賞を受賞しました。リーマンショックと今回の新型コロナウイルス感染拡大の影響での経済不況において、フリードマンの説の限界を指摘されております。

経歴

 ハンガリー東部(現在はウクライナの一部となっているザカルバッチャ州)からのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれました。父親は工場経営者でした。

 奨学金を得て、15歳で高校を卒業しました。ラトガーズ大学で学士を取得後、世界恐慌の中で、シカゴ大学で経済学を専攻し、修士を取得しました。コロンビア大学でサイモン・クズネッツ(1971年ノーベル経済学賞受賞)の指導を受け博士号を取得しました。

 第二次世界大戦が終わり、連邦政府の職を離れるまでは、フリードマンの経済学上の立場は、一貫してケインジアンでした。

 シカゴ学派のリーダーとして、ノーベル経済学賞受賞者を含め多くの経済学者を育てました。マネタリストの代表者として、政府の裁量的な財政政策を批判しました。政府の財政政策によってではなく、貨幣供給量と利子率により、景気循環が決定されると考えました。教育の民営化を最終目的とした、教育バウチャー(利用券)制度を提唱しました。これは、教育の競争によって、学力と貧富の格差を最大化する制度でした。主著は、『資本主義と自由』です。2006年逝去されました。市場原理主義者の94年の生涯でした。

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

資本主義と自由 (日経BPクラシックス) (日本語) 単行本 – 2008/4/17

ミルトン・フリードマン (著), 村井 章子 (翻訳)

ジョン・スチュアート・ミル『自由論』、フリードリッヒ・ハイエク『隷従への道』と並ぶ自由主義(リバタリアニズム)の三大古典の1冊。出典 https://www.amazon.co.jp


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
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三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク(Friedrich August von Hayek)

概要

フリードリヒ・アウグスト・フォン・ハイエク( Friedrich August von Hayek 。1899(明治32)年 己亥(つちのとゐ36)5月8日生-1992(平成4)年 壬申(みずのえさる9)3月23日逝去。(92歳)は、オーストリア・ウィーン生まれの経済学者、哲学者です。オーストリア学派の代表的学者の一人であり、経済学、政治哲学、法哲学、心理学に業績を残しました。20世紀を代表する自由主義の思想家です。ノーベル経済学賞の受賞者です。

経歴

 1899年 オーストリア=ハンガリー帝国の首都ウィーンの学者の家庭に生まれました。父方はボヘミヤ貴族の家系です。1918年ウイーン大学に入学しました。1921年 法学博士号取得。1923年政治学で2つ目の博士号を取得しました。渡米し、ニューヨーク大学で研究助手として働きました。

 1924年 ウィーンに戻りました。1927年 オーストリア景気循環研究所の所長となりました。1929年 ウィーン大学の講師となりました。

 1931年 ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE) での講演に呼ばれ、これ以降、LSEの教授職になりました。(以後18年間)。

 1933年 「貨幣理論と景気循環」を発表しました。1938年 英国の市民権を取得しました。1941年「資本の純粋理論」を発表しました。1944年 発表した「隷属への道」(The Road to Serfdom)は社会主義、共産主義、ファシズム、ナチズムが同根の集産主義(生産手段などの集約化・計画化・統制化などを進める思想や傾向)であると批判し、当時のベストセラーとなりました。

「隷属への道」(The Road to Serfdom)。ハイエクの主著。新自由主義の古典。第二次戦時下のイギリスでケインズ政策がナチズム、スターリニズム、社会主義と同様なべてファシズム(全体主義)にいたる道だと喝破し、大論争を巻きおこした問題作。自由を、市場を、擁護するその思想は、時代を超えて読み継がれ、サッチャー、レーガン、そして小泉構造改革にまで影響を与えていると言われています。

 1948年 「個人主義と経済秩序」を発表しました。1950年シカゴ大学の社会科学ならびに道徳科学の教授となりました。1974年 ノーベル経済学賞を。授賞しました。

 1991年ブッシュ大統領により、アメリカの民間人へ与えられる最高の栄誉賞である大統領自由勲章を受章しました。1992年 逝去の報に際して、ブッシュ大統領は直ちに追悼声明を発表し、「現代の最も偉大な思想家の一人」と称しました。

 1930年にジョン・メイナード・ケインズは、Treayise of Money(『貨幣論』)を刊行しており、この後ハイエクとケインズは景気循環を巡る論争へと突入することになりました。この論争はハイエクの当時所属していたLSEとケインズを擁するケンブリッジ大学とのより大規模な論争の一局面でありました。

 ケインズが亡くなった後、ハイエクはケインズの妻であるリディア夫人に「私が知っている中で唯一、真の偉大な人物であり、限りない尊敬の対象だった。彼のいない世界中は、はるかに色褪せたものになってしまうだろう」と手紙を送っています。その後「うぬぼれた考えと思われるだろうが、私は自分を論争している二大経済学者のうちの一人だと知られていたと思う。しかし、彼は亡くなって聖人となり、私は『隷従への道』を出版し評価を落とした。この本によって状況は変わってしまった」と述べています。

 晩年のハイエクは「私が一番後悔しているのは、ケインズの貨幣論への批判を再開できなかったことではなく、ミルトン・フリードマンの危険な方法論(理論による予測)を攻撃する機会が得られなかったことである」と述べていました。1992年逝去されました。ケインズをライバルとした92年の生涯でした。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
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ジョン・リチャード・ヒックス(John Richard Hicks)

概要

 ジョン・リチャード・ヒックス(John Richard Hicks 1904(明治37)年甲辰(きのえたつ41)4月8日生-1989(平成元)年 己巳(つちのとみ6)5月20日逝去。(84歳)。英国の経済学者。

 ミクロ経済学・マクロ経済学に貢献しました。爵位を賜ったことと学問的業績に敬意を表して「ヒックス卿」と呼ばれました。ヒックス以降は経済学の中心が英国からアメリカに移ったことから「英国最後の大経済学者」などとも呼ばれております。1972年にケネス・アローとともにアルフレッド・ノーベル記念経済学スウェーデン国立銀行賞を受賞しました。

経歴

 1917年にブリストルのクリフトン・カレッジで学びました。1922年にオックスフォード大学のベイリオル・カレッジで学びました。1923年に専攻を「数学」から「哲学・政治学および経済学」に変えました。1926年 から1935年まで、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE) に在職しました。1935年に財政学者アーシュラ・K・ウェッブ(Ursula Webb)と結婚しました。同年、ケンブリッジ大学ゴンブィル・アンド・キーズ・カレッジフェローに移りました。『価値と資本』を執筆して1939年に出版しました。

価値と資本〈上〉―経済理論の若干の基本原理に関する研究 (岩波文庫)

J.R. ヒックス, John Richard Hicks

 1938年にマンチェスター大学の教授に就任しました。1946年にオックスフォード大学のナフィールド・カレッジに移り、リサーチ・フェローとして研究を行いました。1952年にドルモンド政治経済学教授(Drummond Professor of Political Economy)に就任して、オックスフォード大学と兼務しました。

 1964年にSirの称号を受けて、サー・ジョン・ヒックスと呼ばれるようになりました。1965年から1971年までオール・ソウルズ・カレッジのリサーチ・フェローとして活動し、オックスフォード大学Linacre Collegeの名誉リサーチでもありました。

ヒックスの最も広く知られた業績に、ジョン・メイナード・ケインズ(John Maynard Keynes)の『雇用・利子および貨幣の一般理論(The General Theory of Employment,Interest,and Money 1936)』を体系化した「IS-LM理論」があります。これは、利子率の関数である投資 I と国民所得の関数である貯蓄 S の均衡によって描かれるIS曲線と、貨幣の需要量 L と貨幣の供給量 M の均衡によって描かれるLM曲線から、その交点として利子率と国民所得の値を導出できることを示した理論です。だが実際にはケインズは、投資は利子率だけの関数ではな不確実性の中にある予想利潤率の関数であり、貨幣の供給量 M は外生的に与えられるだけはなく人々の債券の価格変動の予想によって変動するものであることから、予想による債券価格から利回りで示される利子率が決定されると考えていました。ヒックスはケインズの考えを軽視していたとして「IS-LM理論」と「一般理論」との乖離を認めております。1989年に逝去されました。「IS-LM理論」を創出した84年の生涯でした。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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アダム・スミス(Adam Smith)

概要

 アダム・スミス(Adam Smith)1723(享保八)年癸卯(みずのとう40)6月5日生誕-1790(寛政七)年7月17日逝去(67歳)は、イギリスの哲学者、倫理学者、経済学者。主著に倫理学書『道徳感情論1759』・経済学書『国富論1776』がある。経済学の祖と言われている。

経歴

  アダム・スミスはスコットランドの海沿いの町カコーディで誕生する。

 グラスゴー大学でスコットランド啓蒙の中心人物であった哲学者フランシス・ハッチソン(1694 – 1746)の下で道徳哲学を学ぶ。

 1750年頃に哲学者ヒュームと出会い、彼が他界する1776年まで親交を続ける。1751年にグラスゴー大学の論理学教授に就任する。1752年に道徳哲学教授に就任する。

 1763年にグラスゴー大学を辞職する。辞職後、スコットランド貴族ヘンリー・スコットの家庭教師としておよそ3年間フランスやスイスを旅行する。

 1776年に主著『国富論(An Inquiry into the Nature and Causes of the Wealth of Nations 1776』を出版する。1778年にスコットランド関税委員に任命され、1787年にはグラスゴー大学名誉総長に就任する。1790年にエディンバラで病死する。アダム・スミスは67年の生涯を終えた。

著作


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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カール・マルクス( Karl Marx)

概要

カール・マルクスKarl Marx) 1818(文化15・文政元)年戊寅(つちのえとら15)5月5日-1883(明治16)年3月14日逝去。(64歳)は、ドイツ・プロイセン王国出身の哲学者・思想家・経済学者・革命家。社会主義および労働運動に強い影響を与えた。フリードリヒ・エンゲルの協力を得て、マルクス主義(科学的社会主義)を提唱した。

カール・マルクス( Karl Marx)の経歴

 マルクスはユダヤ教のラビ職(ユダヤ教の宗教的指導者)であり弁護士の父とオランダ出身のユダヤ教徒の母との間に次男として誕生する。兄が夭折したため、マルクスが事実上の長男として育つ。

 1835年10月、ボン大学に入学。法学・文学・歴史を学ぶ。1836年10月にベルリン大学に転校。哲学に強い関心を示す。ヘーゲル左派の思想に傾倒していく。

 1841年4月15日、マルクスが23歳の時にイェーナ大学から哲学博士号を授与される。大学教授になる夢を抱く。プロセイン政府による思想弾圧により、大学教授職と官職も絶望的となる。

 マルクスは1842年5月に、ボン(後にケルン)へ移住し、ヘスやバウアーの推薦で『ライン新聞』に参加して論文を寄稿するようになる。同年10月にライン新聞対して当局は反政府・無神論的傾向を大幅に減少させなければ翌年以降の認可は出せない旨を通達した。編集長は解任され、マルクスが編集長となる。しかし1943年3月に『ライン新聞』は廃刊となった。

 『ライン新聞』を潰されてマルクスはむしろすっきりしたようだ。ルーゲへの手紙の中で「結局のところ政府が私に自由を返してくれたのだ」と政府に感謝さえしていた。『ライン新聞』編集長として様々な時事問題に携わったことで自分の知識(特に経済)の欠如を痛感し、再度勉強に集中する必要性を感じていた。

 マルクスは『独仏年誌』に寄稿された論文のうち、エンゲルスの『国民経済学批判大綱(Umrisse zu einer Kritik der Nationalökonomie)』に強い感銘を受ける。エンゲルスは、アダム・スミス、リカード、セイなどの、「古典派経済学」を批判する。

 エンゲルスに感化されたマルクスは、経済学や社会主義、フランス革命についての研究を本格的に行うようになる。

 マルクスは1848年の2月革命直前までに小冊子『共産党宣言』を刊行した。カール・マルクスは1883年3月14日に逝去。64年の生涯を終えた。

 マルクスは、1849年8月27日に船に乗り、イギリスに入国しました。ロンドンの大英博物館に行き、そこで朝9時から夜7時までひたすら勉強しました。生計はエンゲルスからの仕送りでした。

 マルクスの最初の本格的な経済学書である『経済学批判』は、1850年9月頃から大英博物館で勉強しながら少しずつ執筆を進め、1857年から1858年にかけて一気に書きあげました。1859年1月に原稿は完成し、ドゥンカー書店からこれを出版しました。

 1866年11月に、ハンブルクのオットー・マイスネル書店から『資本論』第1巻を出版しました。

 マルクスは不健康生活のせいで以前から病気がちでしたが、1873年に肝臓肥大という深刻な診断を受けました。パリからロンドンへ帰国した後の1881年12月2日に妻イェニーに先立たれました。マルクスの悲しみは深かく、「私は病気から回復したが、精神的には妻の死によって、肉体的には肋膜と気管支の興奮が増したままであるため、ますます弱ってしまった」と語りました。

 1883年1月12日に長女イェニーが病死しました。その翌日にロンドンに帰ったマルクスでしたが、すぐにも娘の後を追うことになりました。3月14日昼頃椅子に座ったまま死去しているのが発見されました。64歳の波乱万丈な生涯でした。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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