一万田尚登

概要

 一萬田尚登(いちまだひさと)明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)八月十二日生誕 -昭和五十九(1984)年一月二十二日逝去(九十歳)は、銀行家、政治家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)八月十二日 に一万田尚登は 大分県大分郡野津原村(現在の大分県大分市)で誕生する。大正七年(1918年)に東京帝国大学法科大学を卒業する。同年に日本銀行へ入行する。

 昭和十九年(1944年)に日本銀行理事に就任する。昭和二十一年(1946年)に 日本銀行総裁に就任する。 昭和二十九年(1954年)に日本銀行総裁を辞職する。同年に第一次鳩山一郎内閣の大蔵大臣に就任する。

昭和五十九(1984)年一月二十二日に一万田尚登は逝去。九十年の生涯を終えた。

矢内原忠雄

概要

 矢内原忠雄(やないはらただお)明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)一月二十七日生誕 -昭和三十六(1961)年十二月二十五日薨去(六十八歳)は、経済学者、植民政策学者。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)一月二十七日に矢内原忠雄は愛媛県今治市で医者の父の子として誕生する。

 兵庫県立神戸中学校(現、兵庫県立神戸高等学校)を卒業する。明治四十三年(1910年)に第一高等学校に入学する。第一高等学校在学中に無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていく。

 大正六年(1917年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する。住友総本店に入社して別子銅山に配属される。大正九年(1920年)に新渡戸稲造が国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として東京帝国大学経済学部に呼び戻され助教授に就任する。。同年秋にフランス・アメリカなどへの留学を経て、大正十二年(1923年)に帰朝する。

 昭和十二(1937)年十一月二十四日に土方成美は教授会で、矢内原の言論活動を非難する。同年十二月一日に、事実上追放される形で、東大教授辞任を余儀なくされ、辞表を提出して退官する。

 辞職後は、『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行する。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行う。キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続ける。

 昭和二十(1945)年十一月に経済学部からの要請で東京帝国大学経済学部に復帰する。昭和二十一年(1946年)に社会科学研究所長に就任する。昭和二十三年(1948年)に経済学部長に就任する。昭和二十六年(1951年)に、南原繁の後任として東京大学総長に選出される。昭和三十二年(1957年まで2期6年務める。

 東京大学総長退任後は精力的に講演活動を行う。昭和三十六(1961)年七月に北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演して、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」と話し、「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結ぶ。昭和三十六(1961)年十二月二十五日に矢内原忠雄は薨去。六十八年の生涯を終えた。

草鹿龍之介

概要

 草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)九月二十五日生誕 – 昭和四十六(1971)年十一月二十三日逝去(七十九歳)は、海軍軍人。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)九月二十五日に草鹿龍之介は東京で住友本社理事の父・草鹿丁卯次郎の長男として誕生する。

 明治四十三(1910)年九月十二日に海軍兵学校に入校する。大正三(1914)年十二月一日に海軍少尉に任官する。大正五(1916)年十二月一日に海軍中尉に進級する。大正六(1917)年十二月一日に砲術学校普通科学生となる。

 大正八(1919)年十二月一日に海軍大尉に進級する。砲術学校高等科学生となる。大正十一(1922)年十一月二十日に横須賀鎮守府副官兼参謀に就任する。大正十三(1924)年十二月一日に海軍大学校甲種学生となる。

 大正十四(1925)年十二月一日に海軍少佐に進級する。昭和二(1927)年六月一日に霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官に就任する。昭和五(1930)年十二月一日に海軍中佐に進級する。第1航空戦隊参謀に就任する。昭和六(1931)年十一月二日に軍令部出仕兼海軍省出仕となる。同年十二月一日に兼海軍大学校教官に就任する。

 昭和九(1934)年十一月十五日に海軍大佐に進級する。航空本部総務部第1課長兼海軍技術会議議員に就任する。昭和十一(1936)年十一月十六日に空母「鳳翔」の艦長に就任する。昭和十四(1939)年十一月十五日に空母「赤城」の艦長に就任する。

昭和十五(1940)年十一月十五日に海軍少将に進級する。第4連合航空隊司令官に就任する。昭和十六(1941)年四月十五日に第1航空艦隊参謀長に就任する。同年十一月十八日から十二月二十四日まで真珠湾攻撃作戦に従事する。

 昭和十七(1942)年五月二十七日から六月十四日まで東太平洋方面作戦に従事(ミッドウェイ海戦)する。同年七月十四日に第3艦隊参謀長に就任する。同年十一月二十三日に横須賀海軍航空隊司令に就任する。

 昭和十九(1944)年四月五日に連合艦隊参謀長に就任する。同年五月一日に海軍中将に進級する。同年六月にマリアナ沖海戦に従事する。同年十月にレイテ沖海戦に従事する。

 昭和二十(1945)年五月一日に海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長に就任する。同年八月十七日に第5航空艦隊司令長官に就任する。同年十月十五日に予備役編入となる。昭和四十六(1971)年十一月二十三日に草鹿龍之介は逝去。七十九年の生涯を終えた。


山口多聞

概要

 山口多聞(やまぐちたもん)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十七日生誕 -昭和十七(1942)年六月五日逝去(四十九歳)は、海軍軍人。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十七日に東京市小石川区で旧松江藩士の父・山口宗義の三男として誕生する。

 明治四十五(1912)年七月十七日に海軍兵学校を卒業する。少尉候補生となる。大正二(1913)年十二月一日に少尉に任官する。大正四(1915)年十二月十三日に中尉に進級する。大正七(1918)年十二月一日に大尉に進級する。

 大正十年(1921)年にアメリカ合衆国のプリンストン大学に留学する。大正十三(1924)年十二月一日に少佐に進級する。大正十五年(1926年)に海軍大学校24期甲種学生を次席で卒業する。同年十二月一日に第一潜水艦戦隊参謀に就任する。

 昭和三(1928)年二月二十日に軍令部参謀に就任する。 同年十二月一日に中佐に進級する。昭和四年(1929年)にロンドン海軍軍縮会議全権委員随員となる。昭和五(1930)年十一月十五日に連合艦隊兼第一艦隊参謀に就任する。

 昭和七(1932)年十一月十五日に海軍大学校教官に就任する。同年十二月一日に大佐に進級する。昭和九年(1934年)に在米大使館付武官に就任する。昭和十一(1936)年十二月一日に軽巡洋艦「五十鈴」艦長に就任する。

 昭和十二(1937)年十二月一日に戦艦「伊勢」艦長に就任する。昭和十三(1938)年十一月十五日に少将に進級する。同年十二月十五日に第五艦隊参謀長に就任する。

 昭和十五(1940)年一月十五日に第一連合航空隊司令官に就任する。同年十一月一日に第二航空戦隊司令官に就任する。昭和十七(1942)年六月五日にミッドウェー海戦で「飛龍」に乗艦して戦死する。昭和十七(1942)年六月五日付で海軍中将に進級する。山口多聞は四十九年の生涯を終えた。

吉川英治

概要

 吉川英治(よしかわえいじ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十一日生誕 -昭和三十七(1962)年九月七日逝去(七十歳)は、小説家。本名は吉川英次(よしかわひでつぐ)。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十一日に吉川英治は、神奈川県久良岐郡中村根岸(現、神奈川県横浜市中区山元町2丁目18番地付近)で旧小田原藩士の父・吉川直広と母・イクの次男として誕生する。

 明治三十一年(1898年)に横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学する。明治三十三年(1900年)に横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校する。明治三十六年(1903年)に家運が傾き小学校を中退する。

 明治四十二年(1909年)に年齢を偽って横浜ドック船具工となる。明治四十三年(1910年)に上京して、菊川町のラセン釘工場の工員となる。明治四十四年(1911年)に蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表する。

 大正十年(1921年)に旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇が入選する。同年暮れに東京毎夕新聞社に入社する。大正十二年(1923年)に 人気芸妓だった赤沢やすと結婚する。関東大震災を機に文学で生計を立てることを決意する。

 大正十四年(1925年)に『キング』誌が創刊され「剣難女難」を連載して人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。大正十五年(1926年)に 「鳴門秘帖」を連載して大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。昭和十年(1935年)に「宮本武蔵」の連載を開始する。

 昭和十二年(1937年)に日中戦争が勃発する。『毎日新聞』の特派員として現地を視察する。旅行中やすとの離婚が成立する。料理屋で働いていた池戸文子と結婚する。昭和十三年(1938年)にペン部隊として南京、漢口作戦に従軍する。「三国志」の執筆を開始する。

 昭和十九年(1944年)に西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開する。疎開地が後に記念館になる。昭和二十(1945)年八月十五日に終戦となり、一時執筆活動を休止する。昭和二十二年(1947年)に執筆を再開する。

 昭和二十三年(1948年)-「高山右近」を『読売新聞』に連載する。昭和二十五年(1950年)に「新・平家物語」を『週刊朝日』に連載する。昭和二十八年(1953年)に「新・平家物語」で第1回菊池寛賞を受賞する。昭和三十一年(1956年)に「新・平家物語」で朝日文化賞を受賞する。

 昭和三十五年(1960年)に文化勲章を受章する。昭和三十七(1962)年に毎日芸術賞を受賞する。同年九月七日に吉川英治は逝去。七十年の生涯を終えた。

佐藤春夫

概要

 佐藤春夫(さとうはるお)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)四月九日生誕 -昭和三十九(1964)五月六日薨去(七十二歳)は、詩人、作家。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)四月九日に佐藤春夫は和歌山県東牟婁郡新宮町(現、和歌山県新宮市)で医師の父・佐藤豊太郎と母・政代の長男として誕生する。

 明治三十一(1898)年四月に新宮第一尋常小学校(丹鶴小学校)に入学する。明治四十三年(1910年)に和歌山県立新宮中学校(現、和歌山県立新宮高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学文学部予科に入学する。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学ぶ。

 大正二(1913)年九月に慶應義塾大学文学部を中退する。高村光太郎のアトリエに通い、肖像画を描いてもらう。絵筆を執るようになり、第2回「二科展」に『自画像』と『静物』の2点が入選する。

 大正六年(1917年)に神奈川県都筑郡中里村(現、神奈川県横浜市)に移り、田園生活を始める。同年に芥川龍之介と谷崎潤一郎を知る。芥川の出版記念会「羅生門の会」に出席して開会の辞を述べる。

 大正九年(1920年)に極度の神経衰弱に陥り、帰郷する。同年六月から十月にかけて中国の福健や台湾に旅行する。大正十年(1921年)に谷崎潤一郎が妻千代に冷淡なのを見て同情から恋に変わり、谷崎はいったん佐藤に妻を譲ると言うが、妻が惜しくなって前言を翻したため、谷崎と交友を断つ。

 昭和二年(1927年)に小石川区関口町(現、文京区)の新居に移り、中旬から改造社の講演旅行に加わる。旅行中に芥川龍之介の訃を聞く。帰朝後に『芥川龍之介全集』の編纂にたずさわる。王秀楚(おうしゅうそ)の「揚州十日記」を翻訳発表する。『平凡』、『文學』の創刊に携わり、昭和四年(1929年)に法政大学予科講師となり作文を担当する。

 昭和五年(1930年)に谷崎潤一郎の妻・千代を譲り受ける。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こす。昭和八年(1933年)に法政大学を辞職する。昭和十年(1935年)に芥川賞の選考委員となる。

 昭和二十一年(1946年)から文芸誌『方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊に助力し、昭和二十二年(1947年)から毎年全国各地に旅行に出る。昭和二十三年(1948年)に日本芸術院会員となる。昭和三十九(1964)五月六日に佐藤春夫は薨去。七十二年の生涯を終えた。

芥川龍之介

概要

芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)三月一日生誕  -昭和二(1927)年七月二十四日逝去(三十五歳)は、小説家。号は澄江堂主人(ちょうこうどうしゅじん)、俳号は我鬼。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)三月一日に芥川龍之介は東京市京橋区入船町8丁目(現、東京都中央区明石町)で牛乳製造販売業を営む父・新原敏三と母・フクの長男として誕生する。

 東京市本所区小泉町(現、東京都墨田区両国)にある母の実家の芥川家に預けられ、伯母のフキに養育される。11歳のときに母が亡くなる。翌年に叔父・芥川道章(フクの実兄)の養子となり、芥川姓を名乗る。

 明治三十一年(1898年)に江東尋常小学校に入学する。東京府立第三中学校を卒業後、明治四十三(1910)九月に第一高等学校第一部乙類に入学する。大正二年(1913年)に東京帝国大学文科大学英文学科に入学する。

 大正三(1913)年二月に一高同期の菊池寛、久米正雄らとともに同人誌『新思潮』(第3次)を刊行する。大正五年(1916年)に東京帝国大学文科大学英文学科を20人中2番の成績で卒業する。同年十二月に海軍機関学校の嘱託教官(担当は英語)となる。

 大正八(1919)年三月に海軍機関学校の教職を辞して大阪毎日新聞社に入社する。同年三月十二日に塚本文と結婚する。大正十(1921)年三月に海外視察員として中国を訪れる。帰国後から次第に心身が衰え始め、神経衰弱、腸カタルなどを患う。

 大正十四(1925年)に文化学院文学部講師に就任する。大正十五年(1926年)に胃潰瘍、神経衰弱、不眠症が高じ、ふたたび湯河原で療養する。昭和二(1927)年七月二十四日に芥川龍之介は逝去。三十五年の生涯を終えた。

西条八十

概要

 西條八十(さいじょうやそ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)一月十五日生誕 -昭和四十五(1970)年八月十二日逝去(七十八歳)は、詩人、作詞家、仏文学者。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)一月十五日に西条八十は東京府東京市牛込区牛込払方町(現、東京都新宿区払方町)で大地主の子として誕生する。

 桜井尋常小学校、旧制早稲田中学校を経て早稲田大学文学部英文科を卒業する。大正八年(1919年)に自費出版した第一詩集『砂金』で象徴詩人としての地位を確立する。

 フランスのソルボンヌ大学に留学して、帰国後早稲田大学文学部文学科教授に就任する。戦時中は日本文学報国会詩部会幹事長として戦争協力を行い、軍人援護強化運動として「起て一億」の作詞を担当した。

 戦後は日本音楽著作権協会会長を務める。昭和三十七年(1962年)に日本芸術院会員となる。昭和四十五(1970)年八月十二日に西条八十は逝去。七十八年の生涯を終えた。

近衛文麿

概要

 近衞文麿(このえふみまろ)明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)十月十二日生誕 -昭和二十(1945)十二月十六日薨去(五十四歳)は、政治家。

経歴

 明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)十月十二日に近衛文麿は東京市麹町区(現、東京都千代田区)で公爵の父・近衛篤麿と旧加賀藩主で侯爵の前田慶寧の五女の母・衍子の間の長男として誕生する。

 学習院中等科をへて第一高等学校へ入学する。明治四十五年(1921年)に第一高等学校を卒業する。同年、東京帝国大学哲学科に入学する。その後、京都帝国大学法科大学に転学する。

 大正五(1916)年十月十一日に公爵として世襲である貴族院議員に就任する。大正八年(1919年)のパリ講和会議で全権・西園寺公望に随行する。昭和八年(1933年)に貴族院議長に就任する。同年に近衞を中心とした政策研究団体として昭和研究会が創設される。

 昭和十二(1937)年六月四日に第一次近衛内閣を組閣する。昭和十五(1940)年七月二十二日に第二次近衛内閣を組閣する。昭和十六(1941)年七月十八日に第三次近衛内閣を組閣する。同年十月十八日に近衛内閣は総辞職する。

 昭和二十(1945)年八月十五日に日本軍は無条件降伏をする。同年八月十七日に東久邇宮内閣が組閣され、近衛は副総理格の無任所国務大臣として入閣する。同年十月五日に東久邇宮内閣が総辞職したことにより近衞は私人となる。同年十二月六日に、GHQからの逮捕命令が伝えられ、A級戦犯として極東国際軍事裁判で裁かれることが決定する。同年十二月十六日に近衛文麿は青酸カリによる服毒自殺で薨去。五十四年の生涯を終えた。 

栗林忠道

概要

 栗林忠道(くりばやしただみち)明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)七月七日生誕 ‐昭和二十(1945)三月二十六日薨去(五十三歳)は、陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。

経歴

 明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)七月七日に栗林忠道は長野県埴科郡西条村(現、長野県長野市松代町)で松代藩郷士の家に誕生する。

 明治四十四(1911)年三月に長野県立長野中学校を卒業する。大正三年(1914年)に陸軍士官学校を卒業する(第26期)。同年十二月に陸軍騎兵少尉に任官する。大正七(1918)年七月に陸軍騎兵学校乙種学生を卒業する。陸軍騎兵中尉に進級する。

 大正十二(1923)年八月に陸軍騎兵大尉に進級する。同年十一月に陸軍大学校第35期を次席で卒業する。恩賜の軍刀を拝受する。同年十二月に騎兵第15連隊中隊長に就任する。

 昭和二年(1927年)に在米大使館駐在武官補佐官に就任する。軍事研究のためハーバード大学に留学する。昭和五(1930)年三月に陸軍騎兵少佐に進級する。昭和六(1931)年八月に在カナダ公使館付武官に就任する。

 昭和八(1933)年八月に陸軍騎兵中佐に進級する。昭和十一(1936)年八月に騎兵第7連隊長に就任する。昭和十二(1937)年八月に陸軍騎兵大佐に進級する。陸軍省兵務局馬政課長に就任する。

 昭和十五(1940)年三月に陸軍少将に進級する。騎兵第2旅団長に就任する。同年十二月に騎兵第1旅団長に就任する。昭和十八(1943)年六月に陸軍中将に進級する。留守近衛第2師団長に就任する。

 昭和十九(1944)年五月二十七日に第109師団長に親補される。同年七月一日に小笠原兵団長を兼任する。昭和二十(1945)年二月十六日に硫黄島の戦いが開戦する。同年二月十九日にアメリカ軍が上陸開始する。同年三月十六日に大本営に訣別電報を打電する。同年三月十七日に戦死と認定される。特旨をもって陸軍大将に親任される。同年三月二十六日に日本軍守備隊最後の組織的総攻撃を指揮して栗林忠道は戦死したとされる。五十三年の生涯を終えた。