大宅壮一

概要

 大宅壮一(おおやそういち) 明治三十三(1900)年庚子(かのえね37)九月十三日生誕 -昭和四十五(1970)年十一月二十二日逝去(七十歳)は、 ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。

経歴

  明治三十三(1900)年庚子(かのえね33)九月十三日に大宅壮一は大阪府三島郡富田村(現、大阪府高槻市)で醤油屋の父・八雄と母・トクの三男として誕生する。

 旧制富田尋常小学校、高等小学校を卒業する。旧制茨木中学(現、大阪府立茨木高等学校)に入学する。大正八年(1919年)に第三高等学校(現、京都大学)に入学する。 大正十一年(1922年)に東京帝国大学(現・東京大学)文学部社会学科に入学する。

 東京帝国大学 を中退して、新潮社で『社会問題講座』シリーズを企画編集して成功する。太平洋戦争中の昭和十六年(1941年)に海軍宣伝班としてジャワ作戦に配属される。

 昭和三十二年(1957年)に「ノンフィクションクラブ」を結成し、一匹狼のノンフィクションライター達を集め、若手ジャーナリストを育成する。昭和四十五(1970)年十一月二十二日に大宅壮一は逝去。七十年の生涯を終えた。

町村金五

概要

 町村金五(まちむらきんご) 明治三十三(1900)年庚子(かのえね37)八月十六日生誕 -平成四(1992)年十二月十四日薨去(九十二歳)は、内務官僚、政治家。

経歴

  明治三十三(1900)年庚子(かのえね33)八月十六日に札幌市で酪農家の父・町村金弥の五男として誕生する。

 東京開成中学、第二高等学校を経て大正十三(1924)年三月に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。同年五月に内務省に入省する。任青森県属 知事官房主事兼内務部庶務課に勤務する。

 昭和五(1930)年四月に 任地方警視・静岡県警察部警務課長に就任する。昭和十六(1941)年一月に富山県知事に就任する。昭和二十(1945)年四月に警視総監に就任する。

 昭和二十七(1952)年十月に改新党公認で旧北海道一区から第25回衆議院議員総選挙に立候補して当選する。昭和三十四(1959)年4月に北海道知事 に立候補して当選する。昭和四十六(1971)年四月まで三期12年、北海道知事を務める。同年六月に第9回参議院議員通常選挙に立候補して当選する。

  昭和四十八(1973)年四月十一月に第二次田中角栄内閣で自治大臣、北海道開発庁長官に就任する。 平成四(1992)年十二月十四日に町村金五は薨去。九十二年の生涯を終えた。

永野重雄

概要

 永野重雄(ながのしげお) 明治三十三(1900)年庚子(かのえね37)七月十五日生誕 – 昭和五十九(1984)年五月四日薨去(八十三歳)は実業家。

経歴

  明治三十三(1900)年庚子(かのえね33)七月十五日に永野重雄は島根県松江市で誕生する。

 第六高等学校を経て大正十三年(1924年)に東京帝国大学法学部政治学科を卒業する。 大正十四年(1925年)に渋澤正雄の依頼を請け、倒産会社、富士製鋼の支配人兼工場長となり、再建を果たす。

 昭和九年(1934年)に製鉄大合同で富士製鋼が日本製鐵に統合されて日鐵富士製鋼所となると、永野は所長に就任する。昭和二十一年(1946年)に日本製鐵の常務取締役に就任する。

 昭和二十五年(1950年)に日本製鐵が八幡製鐵と富士製鐵に二分割され、 富士製鐵社長に就任する。昭和三十四年(1959年)に東京商工会議所会頭と日本商工会議所会頭に就任する。

  昭和四十五年(1970年)に富士製鐵と八幡製鐵の合併が成立して、新日本製鐵会長に就任する。 昭和五十九(1984)年五月四日に永野重雄は薨去。八十三年の生涯を終えた。

中谷宇吉郎

概要

 中谷宇吉郎(なかやうきちろう)明治三十三(1900)年庚子(かのえね37)七月四日生誕 – 昭和三十七(1962)年四月十一日薨去(六十一歳)は物理学者。随筆家。

経歴

  明治三十三(1900)年庚子(かのえね33)七月四日に中谷宇吉郎は石川県江沼郡片山津町(現、石川県加賀市)で誕生する。

 大正十一年(1922年)に第四高等学校を卒業後、東京帝国大学理学部物理学科に入学する。寺田寅彦に教えを受ける。 東京帝国大学卒業後は理化学研究所で寺田研究室の助手となる。

 昭和三年(1928年)にイギリスに留学してキングス・カレッジ・ロンドンで学ぶ。帰国後、昭和五年(1930年)に北海道帝国大学理学部の助教授に就任する。 昭和六年(1931年)に京都帝国大学理学部で理学博士号を授与される。

 昭和七年(1932年)に北海道帝国大学理学部の教授に就任する。雪の結晶の研究を始め、昭和十一(1936)年三月十二日に大学の低温実験室で人工雪の製作に世界で初めて成功する。

 昭和二十年(1945年)にニセコの着氷観測所を基にして農業物理研究所を発足させ、所長に就任する。昭和三十二年(1957年)にグリーンランド氷冠の研究に着手する。毎年グリーンランドに行き研究を続ける。 昭和三十七(1962)年四月十一日に中谷宇吉郎は薨去。六十一年の生涯を終えた。

池田勇人

概要

池田勇人(いけだはやと) 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)十二月三日生誕 -昭和四十(1965)年八月十三日薨去(六十五歳)は、大蔵官僚。政治家。

経歴

  明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)十二月三日に池田勇人は広島県豊田郡吉名村(現、広島県竹原市)で父・池田吾一郎と母・うめの子として誕生する。

 第五高等学校を経て京都帝国大学法学部を卒業する。京都帝国大学法学部卒業後、高等試験に合格して大正十五年(1925年)に大蔵省へ入省する。昭和二十四年(1949年)に第24回衆議院議員総選挙に旧広島2区から出馬して初当選を果たす。

  昭和二十四(1949)年二月十六日に池田は当選1回で第三次吉田内閣の大蔵大臣に抜擢される。 昭和二十五(1950)年 三月一日に「中小企業の一部倒産もやむを得ない」、同年十二月七日に「貧乏人は麦を食え」と発言したとして問題となる。

 安保闘争と差し違えで倒れた岸内閣の後継として、池田は昭和三十五(1960)年7月十九日に内閣総理大臣に就任する。昭和三十九(1964)年九月九日に国立がんセンターへ喉頭癌の治療のため入院する。すでに癌は相当進行していたといわれる。病名は本人に告知されることなく、「前がん症状」と発表される。同年十月十五日に退陣を表名する。 昭和四十(1965)年八月十三日に池田勇人は薨去。六十五年の生涯を終えた。

水野成夫

概要

 水野成夫(みずのしげお) 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)十一月十三日生誕 -昭和四十七(1972)年五月四日逝去(七十二歳)は、実業家。

経歴

 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)十一月十三日に水野成夫は 静岡県小笠郡佐倉村(現、静岡県御前崎市)で父・水野彦次郎と母・いねの三男として誕生する。

 旧制静岡中学(現・静岡県立静岡高等学校)を経て、旧制第一高等学校を卒業する。大正十三年(1924年)に東京帝国大学法学部法律学科仏法科を卒業する。

 昭和二年(1927年)に日本共産党代表として、コミンテルン極東政治局に派遣され、中国で武漢国民政府の樹立に参画する。 昭和三年(1928年)に帰国して赤旗(現:しんぶん赤旗)初代編集長として就任する。 昭和三(1928)年三月十五日の三・一五事件で検挙され、獄中で転向を表明する。

 昭和十五年(1940年)に日清紡績社長の宮島清次郎を社長に迎えて国策パルプ工業 を創業する。国策パルプ工業の全額出資の別会社の大日本再生製紙を水野と南喜一と篠田弘作の三人で実務を担当する。

 大日本再生製紙は昭和二十年(1945年)に国策パルプ工業と合併し、水野は 国策パルプ工業常務取締役に就任する。昭和二十六(1951)年十一月に国策パルプ工業社長に就任する。

  昭和三十一年(1956年)に文化放送の社長に就任する。 昭和三十二年(1957年)にフジテレビジョンを設立し、同社初代社長に就任する。 昭和三十三年(1958年)に産業経済新聞社を買収し、同社社長に就任する。産経新聞の買収で、在京の新聞・ラジオ・テレビを握った為「マスコミ三冠王」と呼ばれる。池田勇人内閣時代に「財界四天王」の一人と称されるようになる。 昭和四十七(1972)年五月四日に水野成夫は逝去。七十二年の生涯を終えた。

川端康成

概要

 川端康成(かわばたやすなり) 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)六月十四日生誕 -昭和四十七(1972)年四月十六日逝去(七十二歳) は、小説家。文芸評論家。

経歴

  明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)六月十四日に川端康成は大阪府大阪市北区此花町1丁目79番屋敷(現、大阪市北区天神橋1丁目16-12)で医師の父・川端栄吉と、母・ゲンの長男として誕生する。

 明治四十五(1912)年四月に旧制茨木中学校(現、大阪府立茨木高等学校)に首席で入学する。大正二年(1913年)に小説家を志し、文芸雑誌を読みあさる。詩、短歌、俳句、作文などを試作する。

 大正六(1917)年九月に旧制第一高等学校文科第一部乙類(英文科)に入学し、寮生活に入る。 大正七(1918)年十月末に伊豆を一人旅する。岡田文太夫が率いる旅芸人の一行と道連れとなり、14歳の踊子・加藤たみの無垢な好意に癒される。

  大正九(1920)年七月に旧制第一高等学校を卒業する。同年九月に東京帝国大学文学部英文学科に入学する。 大正十一(1922)年六月に国文学科に転科する。 大正十三(1924)年三月に東京帝国大学国文科を卒業する。同年十月に横光利一、中河与一らと同人誌『文藝時代』を創刊する。

 昭和三十三(1958)年二月に国際ペンクラブ副会長に選出される。同年三月に東京国際ペンクラブでの尽力により、第6回(1958年)菊池寛賞を受賞する。 昭和四十三(1968)年十二月にノーベル文学賞を受賞する。 昭和四十七(1972)年四月十六日に川端康成は逗子マリーナのマンションの仕事部屋でガス自殺をして逝去。七十二年の生涯を終えた。

笹川良一

概要

 笹川良一(ささかわりょういち) 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)五月四日生誕 -平成七(1995)年七月十八日逝去(九十六歳)は 、政治家。社会奉仕活動家。

経歴

  明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)五月四日に笹川良一は大阪府三島郡豊川村小野原(現、大阪府箕面市小野原)で造り酒屋の長男として誕生する。

 大正三(1914)年三月に豊川村尋常高等小学校を卒業後、飛行機乗りを志し、大日本帝国陸軍の岐阜県各務原飛行第二連隊に入隊する。大正十四年(1925年)に、父の遺産を元手に豊川村の村会議員に立候補して当選する。芸能事務所経営と株式相場で財産を作り、飛行機や飛行場を軍に献納して軍人に知己を得る。

 昭和七年(1932年)に満州国が建国されると、同国の皇帝の愛新覚羅溥儀との会見に成功し知名度を高める。 昭和十四年(1939年)に山本五十六の後援により、飛行機で単身イタリアに渡ってムッソリーニと会見する。

  昭和二十年(1945年)に、日本を占領下に置いた連合国指令によりA級戦犯容疑者として同年十二月一日に逮捕命令が出て巣鴨プリズンに入獄する。

  昭和二十七年(1952年)に、社団法人全国モーターボート競走会連合会(全モ連)の設立に関与する。 昭和三十年(1955年)に、同連合会の会長に就任する。 昭和三十七年(1962年)に、日本船舶振興会(のちに正式名称は日本財団)を創設し、会長を務める。 平成七(1995)年七月十八日に笹川良一は逝去。九十六年の生涯を終えた。

東畑精一

概要

 東畑精一(とうばたせいいち)明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)二月二日生誕 -昭和五十八(1983)年五月六日逝去(八十四歳)は農業経済学者。

経歴

  明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)二月二日に東畑精一は三重県一志郡豊地村(現、三重県松坂市)の地主の父・東畑吉之助の長男として誕生する。

 三重県立第一中学校を経て、大正八(1919)年七月に旧制第八高等学校第二部丙類を卒業する。東京帝国大学農学部に入学して農業経済学を専攻する。大正十一年(1922年)に 東京帝国大学農学部農業経済学科を卒業する。

  大正十三年(1924年)に大学院を経て 東京帝国大学農学部助教授に就任する。大正十五年(1926年)から昭和五年(1930年)まで、アメリカとドイツに留学する。昭和八年(1933年)に東京帝国大学農学部教授に就任する。

  昭和三十四年(1959年)に東京大学を退官する。第一生命都市開発研究所農村計画担当顧問、農業基本問題調査会会長・税制調査会会長に就任する。昭和五十五年(1980年)に文化勲章を受章する。 昭和五十八(1983)年五月六日に東畑精一は逝去。八十四年の生涯を終えた。

茅誠司

概要

 茅誠司(かやせいじ) 明治三十一(1898)年戊戌(つちのえいぬ35)十二月二十一日生誕-昭和六十三(1988)四月九日薨去(八十九歳) は、物理学者。

経歴

  明治三十一(1898)年戊戌(つちのえいぬ35)十二月二十一日に茅誠司は神奈川県で誕生する。旧制厚木中学校(現、神奈川県立厚木高等学校)、東京高等工業学校(現、東京工業大学)電気科を経て、東北帝国大学理学部を卒業する。

 大正十五年(1926年)に東北帝国大学理学部助教授に就任する。昭和四(1929)年一月に東北帝国大学より「強磁性結晶体の磁化」で理学博士を授与される。 昭和六(1931)五月に北海道帝国大学の教授に就任する。昭和十八(1943)十二月に東京帝国大学の教授に就任する。 昭和三十二(1957)十二月に東京大学の総長に就任する。 昭和六十三(1988)四月九日に茅誠司は薨去。八十九年の生涯を終えた。