佐藤春夫

概要

 佐藤春夫(さとうはるお)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)四月九日生誕 -昭和三十九(1964)五月六日薨去(七十二歳)は、詩人、作家。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)四月九日に佐藤春夫は和歌山県東牟婁郡新宮町(現、和歌山県新宮市)で医師の父・佐藤豊太郎と母・政代の長男として誕生する。

 明治三十一(1898)年四月に新宮第一尋常小学校(丹鶴小学校)に入学する。明治四十三年(1910年)に和歌山県立新宮中学校(現、和歌山県立新宮高等学校)を卒業後、上京して慶應義塾大学文学部予科に入学する。慶應義塾大学では当時教授だった永井荷風に学ぶ。

 大正二(1913)年九月に慶應義塾大学文学部を中退する。高村光太郎のアトリエに通い、肖像画を描いてもらう。絵筆を執るようになり、第2回「二科展」に『自画像』と『静物』の2点が入選する。

 大正六年(1917年)に神奈川県都筑郡中里村(現、神奈川県横浜市)に移り、田園生活を始める。同年に芥川龍之介と谷崎潤一郎を知る。芥川の出版記念会「羅生門の会」に出席して開会の辞を述べる。

 大正九年(1920年)に極度の神経衰弱に陥り、帰郷する。同年六月から十月にかけて中国の福健や台湾に旅行する。大正十年(1921年)に谷崎潤一郎が妻千代に冷淡なのを見て同情から恋に変わり、谷崎はいったん佐藤に妻を譲ると言うが、妻が惜しくなって前言を翻したため、谷崎と交友を断つ。

 昭和二年(1927年)に小石川区関口町(現、文京区)の新居に移り、中旬から改造社の講演旅行に加わる。旅行中に芥川龍之介の訃を聞く。帰朝後に『芥川龍之介全集』の編纂にたずさわる。王秀楚(おうしゅうそ)の「揚州十日記」を翻訳発表する。『平凡』、『文學』の創刊に携わり、昭和四年(1929年)に法政大学予科講師となり作文を担当する。

 昭和五年(1930年)に谷崎潤一郎の妻・千代を譲り受ける。谷崎と千代の離婚成立後、3人連名の挨拶状を知人に送り、「細君譲渡事件」として新聞などでも報道されて反響を呼び起こす。昭和八年(1933年)に法政大学を辞職する。昭和十年(1935年)に芥川賞の選考委員となる。

 昭和二十一年(1946年)から文芸誌『方寸』、『風流』、『群像』、『傳記』、『至上律』の創刊に助力し、昭和二十二年(1947年)から毎年全国各地に旅行に出る。昭和二十三年(1948年)に日本芸術院会員となる。昭和三十九(1964)五月六日に佐藤春夫は薨去。七十二年の生涯を終えた。