森下信衛

概要

森下信衛(もりしたのぶえ)明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)二月二日生誕-昭和三十五(1960)年六月十七日逝去(六十五歳)は、海軍軍人。最終階級は海軍少将。

経歴

 明治二十八(1895)年乙未(きのとひつじ32)二月二日 に森下信衛は 愛知県常滑市で誕生する。

 大正六(1917)年十一月二十四日に海軍兵学校45期を卒業する。昭和四(1929)年十一月三十日に海軍少佐に進級する。同年、海軍大学校に入校する。昭和六(1931)年十一月二十七日に海軍大学校29期を卒業する。

 昭和十四(1939)年十一月十五日に海軍大佐に進級する。昭和十九(1944)年一月二十五日に戦艦大和艦長に就任する。同年十月 十五日に海軍少将に進級する。同年十一月二十五日に 第2艦隊参謀長に就任する。

  昭和二十(1945)年四月七日に沖縄へ海上特攻隊として第2艦隊参謀長として戦艦大和に乗艦する。大和の沈没後、生還する。同年 十一月三十日に予備役編入となる。 昭和三十五(1960)年六月十七日に森下信衛は逝去。六十五年の生涯を終えた。

松下幸之助

概要

 松下幸之助(まつしたこうのすけ) 明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31) 十一 月二十七日生誕 -平成元(1989)年四月二十七日薨去(九十四歳)は、実業家、発明家、著述家。

経歴

  明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31) 十一 月二十七日 に松下幸之助は和歌山県海草郡和佐村旦ノ木(現、 和歌山県和歌山市禰宜)で小地主の父・松下政楠と母・とく枝の三男として誕生する。

 明治三十二年(1899年)頃、父が米相場で失敗して破産したため、一家で和歌山市本町1丁目に転居し、下駄屋を始めたが、父には商才がなく店を畳む。幸之助は尋常小学校を4年で中退し、9歳で宮田火鉢店に丁稚奉公に出される。後に奉公先を五代自転車に移す。

 大阪市に導入された路面電車を見て感動し、電気に関わる仕事を志す。16歳で大阪電灯(現、関西電力)に入社し、7年間勤務する。電球の取り外しも専門知識が必要な危険な作業であったため、簡単に電球を取り外すことができる電球ソケットを在職中に考案する。

 大阪府東成郡鶴橋町猪飼野(現、大阪市 東成区玉津2丁目)の自宅で、妻むめのと、その弟の井植歳男、および友人2名の計5人で、 電球 ソケットの製造販売に着手する。

 事業拡大に伴い、大正七年(1918年)に大阪市北区西野田大開町(現、大阪市福島区大開2丁目)で松下電気器具製作所(現、パナソニック)を創業する。昭和七年(1932年)を『命知元年』と定めて5月5日に第1回創業記念式を開き、『水道哲学』『250年計画』『適正利益・現金正価』を社員に訓示する。

 戦後、GHQによって制限会社に指定され、幸之助・歳男以下役員の多くが戦争協力者として公職追放処分を受ける。井植兄弟を社外に出した幸之助は、「松下は一代で築き上げたもので、買収などで大きくなった訳でもなく、財閥にも当らない」と反駁する。昭和二十一(1946)年十一月にPHP研究所を設立し、倫理教育に乗り出す。

  平成元(1989)年四月二十七日に松下幸之助は薨去。九十四年の生涯を終えた。

豊田喜一郎

概要

豊田喜一郎(とよだきいちろう)明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31)六月十一日生誕 -昭和二十七(1952)年三月二十七日逝去(五十七歳)は、経営者、技術者、トヨタ自動車創業者。

経歴

 明治二十七(1894)年甲午(きのえうま31)六月十一日に 豊田喜一郎は静岡県敷知郡吉津村山口(現在の静岡県湖西市山口)で豊田佐吉と佐原たみの長男として誕生する。

旧制明倫中学校(現、愛知県立明和高等学校)、第二高等学校(現、東北大学)甲組工科を経て、大正九年(1920年)に東京帝国大学工学部機械工学科を卒業する。

 大正十( 1921)年三月に豊田紡績に入社する。父から発明より経営に重点を置くように指示されるが、試験工場を作り自動織機の開発を開始する。当時、黎明期にあった自動車産業が将来大きく発展すると考え、昭和八( 1933)年九月一日に豊田自動織機製作所内に自動車製作部門(のちに自動車部)を新設する。

  昭和十二年( 1937年)にトヨタ自動車工業株式会社として独立して、同社の副社長に就任する。 昭和二十七(1952)年三月二十七日に豊田喜一郎は逝去。五十七年の生涯を終えた。  

毛沢東

概要

毛沢東(もうたくとう・ 毛泽东・ 毛澤東・ Mao Zedong Mao Tse-Tung・マオ・ツォードン)光緒19年11月十九日・ 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30十二月二十六日生誕 -昭和五十一(1976)年九月九日逝去(八十二歳)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十二月二十六日に毛沢東は清国の湖南省湘潭県韶山市で父・毛貽昌と母・文素勤の5人兄弟の三男として誕生する。

従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学する。1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。同年、辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻る。

 1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業する。1919年に帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となる。1920年に長沙師範学校付属小学校長となる。1921年7月23日に毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれる。

 1937年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)では抗日戦線を展開する。国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。

 1945年の第7回党大会で 毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、同年6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任する。1945年8月14日に日本はポツダム宣言諾を連合国側に通告して同年8月15日に終戦を迎える。

 1946年6月26日に蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令して国共内戦が始まる。国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得する。

 国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開する。人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与える。1949年1月に人民解放軍は北平(北京)に入城して同年4月23日に国民政府の根拠地・首都南京を制圧する。

 1949年10月1日に毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言する。蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続する。

  中華人民共和国の 建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日に突如として社会主義への移行を表明する。この方針転換は、周恩来など多くの指導者を困惑させた。毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるため、国家機構の改造に着手する。

 スターリン批判や対米政策をめぐって毛沢東はソ連共産党第一書記のフルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していく。1962年のキューバ危機は、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難する。

 1959年4月27日に毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲る。暴力的大衆運動、「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。文化大革命では大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及ぶ。

 毛沢東が世界に注目された事件は1972年2月18日に北京において行われたアメリカ合衆国大統領のニクソンとの会談である。日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。

 昭和五十一(1976)年九月九日に毛沢東は逝去。八十二年の生涯を終えた。

早川徳次

概要

早川徳次(はやかわとくじ) 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十一月三日生誕 -昭和五十五(1980)年六月二十四日逝去(八十六歳)は実業家、発明家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十一月三日に早川徳次は東京市日本橋久松町42番地(現・東京都中央区日本橋久松町)でちゃぶ台製造販売業の父・早川政吉と母・花子の三男として誕生する。

 仕事の無理が祟って花子が胸を患ったため、早川家に出入りしていた肥料屋の出野家の養子となる。養母が急逝し出野家は後妻を迎えるが、徳次は継養母から厳しく当たられる。錺屋(かざりや:金属細工業)職人の坂田芳松の店で丁稚奉公になる。明治三十四(1901)年九月十五日に出野家を出る。

 明治四十二(1909)年四月十五日に、7年7か月の年季奉公を勤め上げ、その後、1年間のお礼奉公を終えて、徳次は一人前の錺職人となる。大正元(1912)年九月十五日に本所区松井町1丁目30番地(現・江東区新大橋)の民家を借り従業員2名の金属加工業を開業する。

 大正四年(1915年)に早川姓に復籍して「早川式繰出鉛筆(シャープペンシル)」の名称で特許を申請する。兄の政治と「早川兄弟(けいてい)商会金属文具製作所」を設立して販売を開始する。第一次世界大戦で品薄となった欧米で売れるようになり、海外での高い評価が伝わると日本国内でも注文が殺到するようになる。

 大正十二(1923)年九月一日に関東大震災が発生する。2人の子供は死亡、文子も重傷を負い、工場も焼け落ちてしまう。罹災した従業員70名と被害を免れた亀戸の長屋で生活し、事業復興のため奔走していたが、重傷の妻を亡くす。関東地区で販売を委託していた日本文具製造(後のプラトン文具:1954年廃業)から、特約販売の解消及び「特約契約金1万円と融資金1万円の計2万円」の即時返済を迫られる。早川兄弟商会を解散して事業を全て日本文具製造に譲渡することを決意する。

  大正十三(1924)年九月一日に大阪府東成郡田辺町大字猿山25番田(現・大阪市阿倍野区長池町)に「早川金属工業研究所」を設立する。当初は万年筆の付属金具の製造販売を行っていたが、新規事業を模索して海外で実用化されていたラジオに興味を持つ。

 大正十四(1925)年四月に国産第1号機の鉱石ラジオ受信機の開発に成功する。ラジオは爆発的に売れ、“シャープ”というブランド名を付ける。昭和四十五(1970)年一月一日に早川電機工業株式会社から「シャープ株式会社」へ社名を変更する。 昭和五十五(1980)年六月二十四日に早川徳次は逝去。八十六年の生涯を終えた。

一万田尚登

概要

 一萬田尚登(いちまだひさと)明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)八月十二日生誕 -昭和五十九(1984)年一月二十二日逝去(九十歳)は、銀行家、政治家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)八月十二日 に一万田尚登は 大分県大分郡野津原村(現在の大分県大分市)で誕生する。大正七年(1918年)に東京帝国大学法科大学を卒業する。同年に日本銀行へ入行する。

 昭和十九年(1944年)に日本銀行理事に就任する。昭和二十一年(1946年)に 日本銀行総裁に就任する。 昭和二十九年(1954年)に日本銀行総裁を辞職する。同年に第一次鳩山一郎内閣の大蔵大臣に就任する。

昭和五十九(1984)年一月二十二日に一万田尚登は逝去。九十年の生涯を終えた。

矢内原忠雄

概要

 矢内原忠雄(やないはらただお)明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)一月二十七日生誕 -昭和三十六(1961)年十二月二十五日薨去(六十八歳)は、経済学者、植民政策学者。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)一月二十七日に矢内原忠雄は愛媛県今治市で医者の父の子として誕生する。

 兵庫県立神戸中学校(現、兵庫県立神戸高等学校)を卒業する。明治四十三年(1910年)に第一高等学校に入学する。第一高等学校在学中に無教会主義者の内村鑑三が主催していた聖書研究会に入門を許され、キリスト教への信仰を深めていく。

 大正六年(1917年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する。住友総本店に入社して別子銅山に配属される。大正九年(1920年)に新渡戸稲造が国際連盟事務次長への転出に伴い、後任として東京帝国大学経済学部に呼び戻され助教授に就任する。。同年秋にフランス・アメリカなどへの留学を経て、大正十二年(1923年)に帰朝する。

 昭和十二(1937)年十一月二十四日に土方成美は教授会で、矢内原の言論活動を非難する。同年十二月一日に、事実上追放される形で、東大教授辞任を余儀なくされ、辞表を提出して退官する。

 辞職後は、『通信』に変えて『嘉信』を毎月定期的に発行する。毎日曜日、自宅で若者に対して聖書の講義をしたり、月一回の帝大聖書研究会を行う。キリスト教信仰に基づく信念と平和主義を説き続ける。

 昭和二十(1945)年十一月に経済学部からの要請で東京帝国大学経済学部に復帰する。昭和二十一年(1946年)に社会科学研究所長に就任する。昭和二十三年(1948年)に経済学部長に就任する。昭和二十六年(1951年)に、南原繁の後任として東京大学総長に選出される。昭和三十二年(1957年まで2期6年務める。

 東京大学総長退任後は精力的に講演活動を行う。昭和三十六(1961)年七月に北海道大学の学生のために「内村鑑三とシュヴァイツァー」と題してを講演して、「立身出世や自分の幸福のことばかり考えずに、助けを求めている人々のところに行って頂きたい」と話し、「畑は広く、働き人は少ない」という聖書の言葉で結ぶ。昭和三十六(1961)年十二月二十五日に矢内原忠雄は薨去。六十八年の生涯を終えた。

草鹿龍之介

概要

 草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)九月二十五日生誕 – 昭和四十六(1971)年十一月二十三日逝去(七十九歳)は、海軍軍人。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)九月二十五日に草鹿龍之介は東京で住友本社理事の父・草鹿丁卯次郎の長男として誕生する。

 明治四十三(1910)年九月十二日に海軍兵学校に入校する。大正三(1914)年十二月一日に海軍少尉に任官する。大正五(1916)年十二月一日に海軍中尉に進級する。大正六(1917)年十二月一日に砲術学校普通科学生となる。

 大正八(1919)年十二月一日に海軍大尉に進級する。砲術学校高等科学生となる。大正十一(1922)年十一月二十日に横須賀鎮守府副官兼参謀に就任する。大正十三(1924)年十二月一日に海軍大学校甲種学生となる。

 大正十四(1925)年十二月一日に海軍少佐に進級する。昭和二(1927)年六月一日に霞ヶ浦航空隊教官兼海軍大学校教官に就任する。昭和五(1930)年十二月一日に海軍中佐に進級する。第1航空戦隊参謀に就任する。昭和六(1931)年十一月二日に軍令部出仕兼海軍省出仕となる。同年十二月一日に兼海軍大学校教官に就任する。

 昭和九(1934)年十一月十五日に海軍大佐に進級する。航空本部総務部第1課長兼海軍技術会議議員に就任する。昭和十一(1936)年十一月十六日に空母「鳳翔」の艦長に就任する。昭和十四(1939)年十一月十五日に空母「赤城」の艦長に就任する。

昭和十五(1940)年十一月十五日に海軍少将に進級する。第4連合航空隊司令官に就任する。昭和十六(1941)年四月十五日に第1航空艦隊参謀長に就任する。同年十一月十八日から十二月二十四日まで真珠湾攻撃作戦に従事する。

 昭和十七(1942)年五月二十七日から六月十四日まで東太平洋方面作戦に従事(ミッドウェイ海戦)する。同年七月十四日に第3艦隊参謀長に就任する。同年十一月二十三日に横須賀海軍航空隊司令に就任する。

 昭和十九(1944)年四月五日に連合艦隊参謀長に就任する。同年五月一日に海軍中将に進級する。同年六月にマリアナ沖海戦に従事する。同年十月にレイテ沖海戦に従事する。

 昭和二十(1945)年五月一日に海軍総隊参謀長兼連合艦隊参謀長に就任する。同年八月十七日に第5航空艦隊司令長官に就任する。同年十月十五日に予備役編入となる。昭和四十六(1971)年十一月二十三日に草鹿龍之介は逝去。七十九年の生涯を終えた。


山口多聞

概要

 山口多聞(やまぐちたもん)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十七日生誕 -昭和十七(1942)年六月五日逝去(四十九歳)は、海軍軍人。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十七日に東京市小石川区で旧松江藩士の父・山口宗義の三男として誕生する。

 明治四十五(1912)年七月十七日に海軍兵学校を卒業する。少尉候補生となる。大正二(1913)年十二月一日に少尉に任官する。大正四(1915)年十二月十三日に中尉に進級する。大正七(1918)年十二月一日に大尉に進級する。

 大正十年(1921)年にアメリカ合衆国のプリンストン大学に留学する。大正十三(1924)年十二月一日に少佐に進級する。大正十五年(1926年)に海軍大学校24期甲種学生を次席で卒業する。同年十二月一日に第一潜水艦戦隊参謀に就任する。

 昭和三(1928)年二月二十日に軍令部参謀に就任する。 同年十二月一日に中佐に進級する。昭和四年(1929年)にロンドン海軍軍縮会議全権委員随員となる。昭和五(1930)年十一月十五日に連合艦隊兼第一艦隊参謀に就任する。

 昭和七(1932)年十一月十五日に海軍大学校教官に就任する。同年十二月一日に大佐に進級する。昭和九年(1934年)に在米大使館付武官に就任する。昭和十一(1936)年十二月一日に軽巡洋艦「五十鈴」艦長に就任する。

 昭和十二(1937)年十二月一日に戦艦「伊勢」艦長に就任する。昭和十三(1938)年十一月十五日に少将に進級する。同年十二月十五日に第五艦隊参謀長に就任する。

 昭和十五(1940)年一月十五日に第一連合航空隊司令官に就任する。同年十一月一日に第二航空戦隊司令官に就任する。昭和十七(1942)年六月五日にミッドウェー海戦で「飛龍」に乗艦して戦死する。昭和十七(1942)年六月五日付で海軍中将に進級する。山口多聞は四十九年の生涯を終えた。

吉川英治

概要

 吉川英治(よしかわえいじ)明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十一日生誕 -昭和三十七(1962)年九月七日逝去(七十歳)は、小説家。本名は吉川英次(よしかわひでつぐ)。

経歴

 明治二十五(1892)年壬辰(みずのえたつ29)八月十一日に吉川英治は、神奈川県久良岐郡中村根岸(現、神奈川県横浜市中区山元町2丁目18番地付近)で旧小田原藩士の父・吉川直広と母・イクの次男として誕生する。

 明治三十一年(1898年)に横浜市千歳町の私立山内尋常高等小学校に入学する。明治三十三年(1900年)に横浜市清水町に移転し太田尋常高等小学校に転校する。明治三十六年(1903年)に家運が傾き小学校を中退する。

 明治四十二年(1909年)に年齢を偽って横浜ドック船具工となる。明治四十三年(1910年)に上京して、菊川町のラセン釘工場の工員となる。明治四十四年(1911年)に蒔絵師の家に住み込み徒弟となる。川柳の世界に入り、雉子郎(きじろう)の筆名で作品を発表する。

 大正十年(1921年)に旅先から応募していた講談社の懸賞小説三篇が入選する。同年暮れに東京毎夕新聞社に入社する。大正十二年(1923年)に 人気芸妓だった赤沢やすと結婚する。関東大震災を機に文学で生計を立てることを決意する。

 大正十四年(1925年)に『キング』誌が創刊され「剣難女難」を連載して人気を得る。初めて吉川英治の筆名を使う。大正十五年(1926年)に 「鳴門秘帖」を連載して大人気となり、時代小説家として大衆文学界の新鋭となる。昭和十年(1935年)に「宮本武蔵」の連載を開始する。

 昭和十二年(1937年)に日中戦争が勃発する。『毎日新聞』の特派員として現地を視察する。旅行中やすとの離婚が成立する。料理屋で働いていた池戸文子と結婚する。昭和十三年(1938年)にペン部隊として南京、漢口作戦に従軍する。「三国志」の執筆を開始する。

 昭和十九年(1944年)に西多摩郡吉野村(現在の青梅市)に疎開する。疎開地が後に記念館になる。昭和二十(1945)年八月十五日に終戦となり、一時執筆活動を休止する。昭和二十二年(1947年)に執筆を再開する。

 昭和二十三年(1948年)-「高山右近」を『読売新聞』に連載する。昭和二十五年(1950年)に「新・平家物語」を『週刊朝日』に連載する。昭和二十八年(1953年)に「新・平家物語」で第1回菊池寛賞を受賞する。昭和三十一年(1956年)に「新・平家物語」で朝日文化賞を受賞する。

 昭和三十五年(1960年)に文化勲章を受章する。昭和三十七(1962)年に毎日芸術賞を受賞する。同年九月七日に吉川英治は逝去。七十年の生涯を終えた。