下村胡人

概要

 下村湖人(しもむらこじん)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)十月三日生誕-昭和三十(1955)年四月二十日逝去(七十歳)は、小説家、社会教育家。本名は下村虎六郎(しもむらころくろう)。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)十月三日に下村胡人は佐賀県神埼郡千歳村大字崎村(現、佐賀県神埼市千代田町崎村)で誕生する。生まれて間もなく里子に出されるが、4歳の時に実家に戻る。

 熊本の第五高等学校を経て東京帝国大学英文科に進学する。東京帝国大学在学中には、「帝国文学」に小説や詩歌を発表し編集委員を務める。東京帝国大学を卒業後、佐賀中学校教師・唐津中学校教頭・鹿島中学校校長・唐津中学校校長・台中第一中学校校長・台北高等学校校長を歴任する。昭和六年(1931年)に教職を辞す。

 教職を辞した下村は昭和七年(1932年)から本格的な文筆活動に入る。昭和八年(1933年)から4年間にわたって田澤義鋪が主宰していた日本青年館別館「浴恩館」に設置された大日本青年団講習所の所長を務める。昭和十一年(1936年)から代表作『次郎物語』の連載を雑誌「青年」で開始する。

 昭和十三年(1938年)に壮年団中央理事に就任する。昭和二十二年(1947年)にNHKから「郷土建設と小豆島の煙仲間」が放送されている。昭和二十九年(1954年)に『次郎物語』第五部を上梓する。田澤義鋪の伝記『この人を見よ』を脱稿する。昭和三十(1955)年四月二十日に下村胡人は逝去。七十年の生涯を終えた。


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天野貞祐

概要

 天野貞祐(あまのていゆう)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月三十日-昭和五十五(1980)三月六日薨去(九十五歳)、哲学者、教育者、文学博士。文部大臣。第一高等学校校長。獨協中学校・高等学校第十三代校長。獨協大学初代学長。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月三十日に天野貞祐は神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の神奈川県相模原市)で村長・衆院議員を務めた父・天野藤三と母・種の四男として誕生する。

 明治二十三年(1890年)に鳥屋村小学校に入学する。明治二十九年(1890年)旧制獨逸学協会中学校(獨協学園の前身)に入学する。明治三十四(1901)年八月に母をチフスで亡くし、健康がすぐれず獨逸学協会中学校を退学する。

 明治三十八年(1905年)に天野は内村鑑三の『後世への最大遺物』を読み、自分の人生を見つめ直した結果、獨逸学協会中学校の5年生として復学して明治三十九年(1906年)に首席で卒業する。

 明治三十九(1906)年八月に第一高等学校に入学する。内村から直接教えを受け、九鬼周三や岩下壮一と親友になる。明治四十二(1909年)に第一高等学校を卒業する。同年に京都帝国大学文科大学に入学する。桑木厳翼教授らの下でカント哲学を専攻する。

 明治四十五年(1912年)に京都帝国大学文科大学を卒業する。同年に京都帝国大学大学院に進学する。大正二年(1913年)に「カント学者としてのフィヒテ」を発表する。同年に西田幾多郎の推挙で智山派勧学院大学林講師となる。大正三年(1914年)に第七高等学校のドイツ語教師として鹿児島へ赴任する。

 大正四年(1915年)に第七高等学校の教授に任ぜられる。大正八年(1919年)に西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授に就任する。大正十二年(1923年)にドイツのハイデルベルク大学に留学する。大正十三年(1924年)に病気のため留学期間を短縮して帰国する。

 大正十五(1926)年八月に京都帝国大学文学部助教授に就任する。昭和六年(1931年)に京都帝国大学文学部教授に就任する。同年六月に京都帝国大学で「『純粋理性批判』ノ形而上学的研究」で文学博士号を得る。

 昭和十九(1944)年九月三十日に京都帝国大学文学部教授を定年退職する。同年十月九日に甲南高等学校(現在の甲南大学)校長に就任する。昭和二十一(1944)年二月九日に甲南高等学校校長を辞任して第一高等学校校長に就任する。同年十月に第一高等学校と東京大学の併合を受けて第一高等学校校長の辞意を表明する。昭和二十二(1947)年二月に第一高等学校校長を辞任する。

 昭和二十五(1950)年五月六日に第二次吉田内閣の文部大臣に就任する。昭和二十七(1952)年八月十二日に第二次吉田内閣の文部大臣を辞任する。同年十二月二十七日に第十三代獨協中学校・高等学校長に就任する。

 昭和三十九(1964)年四月に獨協大学初代学長に就任する。昭和四十四(1969)年五月三十日に大学紛争により獨協大学学長辞任を表明する。昭和四十五(1970)年に獨協学園の学園長として学校運営に関わる。昭和五十五(1980)三月六日に天野貞祐は薨去。九十五年の生涯を終えた。


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石橋湛山

概要

 石橋湛山(いしばしたんざん)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月二十五日生誕 -昭和四十八(1973)年四月二十五日薨去(八十八歳)は、ジャーナリスト、政治家、教育者。位階勲等は従二位勲一等。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月二十五日に石橋湛山は東京市麻布区芝二本榎(現在の東京都港区)で日蓮宗僧侶の父・杉田湛誓と畳問屋・石橋藤左衛門の次女の母・きんの長男として誕生する。湛山は故あって母方の石橋姓を名乗る。

 明治十八(1885)年三月に父・湛誓が郷里の山梨県巨摩郡増穂村(現・山梨県巨摩郡藤川町)にある昌福寺の住職へ転じるため、母・きんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。

 明治二十二年(1889年)に甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。

 明治二十七年(1894年)に湛誓が静岡市の日蓮宗本山・青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・山梨県中巨摩郡若草村 から若草町、のち南アルプス市に編入)にある長遠寺の住職である望月日謙(後に九遠寺83世法主)に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかった。

 明治二十八年(1895年)に日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立第一高等学校)へ進学する。明治三十四(1901)年三月に札幌農学校一期生の大島正健が甲府中学校長に就任する。湛山は大島正健から1年間の薫陶を受ける。

 明治三十五(1902)年三月に山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している。同年四月に第一高等学校の受験のため上京する。しかし同年七月の試験は不合格だった。翌年に再度受験するがまたもや失敗する。早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して明治三十六(1903)年九月に入学する。

 明治四十(1907)年七月に早稲田大学大学部文学科を首席で卒業する。特待研究生として宗教研究科へ進級する。明治四十一(1908)年七月に宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社に入社する。

 明治四十二(1909)年八月に毎日新聞社を退社する。同年十二月に東京麻布の歩兵第3連隊に入営する。明治四十三(1910)年十一月に除隊する。明治四十四(1911)年一月に東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。

 明治四十四(1911)年九月に見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。大正二年(1912年)に陸軍歩兵少尉となる。大正十三(1924)年十二月に 東洋経済新報社第五代主幹に就任する。

 大正十四(1925)年一月に東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任する。 昭和十五(1940)年十一月に東洋経済研究所を設立して、所長および理事に就任する。昭和十六(1941)年二月に東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任する。

 昭和二十一(1946)年四月に戦後初の衆議院総選挙に立候補して落選する。同年五月に第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任する。昭和二十二(1947)年四月に静岡県2区より総選挙に立候補して初当選する。同年五月にGHQにより公職追放となる。

 昭和二十六(1951)年六月に公職追放が解除されて、自由党に復党する。昭和二十七(1952)年十二月に立正大学学長に就任する。昭和二十九(1954)年十一月に岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。同年十二月に第1次鳩山内閣の通商産業大臣に就任する。

 昭和三十一(1956)年十二月に自由民主党第2代総裁に当選して、国会の指名により内閣総理大臣に就任する。昭和三十二(1957)年一月二十五日に帰京した直後に自宅の風呂場で軽い脳梗塞で倒れた。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となる。2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。

 昭和三十八(1963)年十一月の総選挙で落選して石橋は政界を引退する。昭和四十一(1966)年二月に手足に麻痺を感じ聖路加国際病院に入院する。主治医は日野原重明が務めた。昭和四十八(1973)年四月二十五日に石橋湛山は薨去。八十八年の生涯を終えた。


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東條英機

概要

 東條英機(とうじょうひでき)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)七月三十日生誕 -昭和二十三(1948)年十二月二十三日薨去(六十四歳)は、陸軍軍人、政治家。階級は陸軍大将。栄典は従二位勲一等功二級。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)七月三十日に東條英機は東京府麹町区(現在の東京都千代田区)で陸軍歩兵中尉(後に陸軍中将)の父・東條英教と母・千歳の三男として誕生する。三男であったが、長男と次男はすでに他界しており、実質「家督を継ぐ長男」として扱われた。

 番町小学校、四谷小学校、学習院初等科、青山小学校、東京府城北尋常中学校(後の東京府立第四中学校、現・東京都立戸山高等学校)、東京陸軍地方幼年学校(3期生)、陸軍中央幼年学校を経て陸軍士官学校に入校する。

 明治三十八(1905)年三月に陸軍士官学校を卒業(17期生)する。同年四月二十一日に任陸軍歩兵少尉、補近衛歩兵第3連隊附となる。明治四十(1907)年十二月二十一日に陸軍歩兵中尉に昇進する。「努力即権威」が東條の座右の銘となる。

 大正元年(1912年)に陸軍大学校に入学する。大正四年(1915年)に陸軍大学校を卒業する。陸軍歩兵大尉に昇進する。近衛歩兵第3連隊中隊長に就任する。大正八(1919)年八月に駐在武官としてスイスに単身赴任する。大正九(1920)年八月十日に陸軍歩兵少佐に昇任する。大正十(1921)年七月にドイツに駐在する。

 大正十一(1922)年十一月二十八日に陸軍大学校の教官に就任する。昭和八(1933)年三月十八日に陸軍少将に昇進する。同年八月一日に兵器本廠附軍事調査委員長、同年十一月二十二日に陸軍省軍事調査部長に就く。昭和九(1934)年八月一日に歩兵第2旅団長(久留米)に就任する。

 昭和十(1935)年九月二十一日に大陸に渡り、関東憲兵隊司令官・関東局警務部長に就任する。同年十二月一日に陸軍中将に昇進する。昭和十二(1937)年三月一日に板垣征四郎の後任の関東軍参謀長に就任する。

 昭和十二(1937)年七月七日に日中戦争(支那事変)が勃発する。東條は察哈爾派遣兵団の兵団長としてチャハル作戦に参加する。チャハルおよび綏遠方面における察哈爾派遣兵団の成功は目覚しいものであったが、自ら参謀次長電で「東條兵団」と命名したその兵団は補給が間に合わず飢えに苦しむ連隊が続出した。

 昭和十三(1938)年五月に第一次近衛内閣の陸軍大臣・板垣征四郎の下で、陸軍次官、陸軍航空本部長に就任する。昭和十五(1940)年七月二十二日から第二次近衛内閣、第三次近衛内閣の陸軍大臣に就任する。昭和十六(1941)年十月十八日に東条英機は内閣総理大臣を皇居で任命される。天皇から対米戦争回避に力を尽くすように直接指示される。

 昭和十六(1941)年十二月八日に太平洋戦争が勃発する。開戦時の東條は、政府の最高責任者の地位にはあっても海軍と統帥部を管轄する権限は持たず、海軍による真珠湾攻撃や外務省による開戦通知の遅延は東條の責任に帰することはできないものであった。

 昭和十九(1944)年二月十七日、十八日にオーストラリア海軍の支援を受けたアメリカ機動艦隊が大挙してトラック島に来襲して太平洋戦域最大の日本海軍基地を無力化した。東條は陸軍参謀総長兼任を決意した。行政権の責任者である首相、陸軍軍政の長である陸軍大臣、軍令の長である参謀総長の三職を兼任したことは、天皇の統帥権に抵触するおそれがあるとして厳しい批判を受けた。

 戦局が困難を極める昭和十九年(1944年)に複数の東條英機暗殺が計画された。この計画のバックには東條と犬猿の仲の石原莞爾がいた。昭和十九(1944)年七月九日のサイパン陥落の責任を取る形で同年七月十八日に東條内閣は総辞職した。

 昭和二十(1945)年二月二十六日に東條は天皇に対し「知識階級の敗戦必至論はまこと遺憾であります」と徹底抗戦を上奏した。広島・長崎への原爆投下後も、降伏は屈辱だと考え戦争継続にこだわっていたことが手記によりあきらかになっている。

 昭和二十(1945)年八月十四日に御前会議の天皇の終戦の聖断が下ると、直後に開かれた重臣会議において、「ご聖断がありたる以上、やむをえないと思います」としつつ「国体護持を可能にするには武装解除をしてはなりません」と上奏している。昭和二十(1945)年九月十一日に、戦犯容疑で逮捕に際して、東條は自らの胸を撃って拳銃自殺を図るも失敗するという事件が起こった。

 昭和二十三(1948)年十二月二十三日午前0時1分に巣鴨拘置所内において死刑が施行され東條英機は薨去。六十四年の生涯を終えた。


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山本五十六

概要

 山本五十六(やまもといそろく)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)四月四日生誕-昭和十八(1943)四月十八日薨去(五十九歳)は、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。旧姓は高野。栄典は正三位大勲位功一級。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)四月四日に山本五十六は、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士の父・高野貞吉の六男として誕生する。

 長岡町立阪之上尋常小学校を卒業後、旧制新潟県立長岡中学校を卒業する。明治三十四年(1901年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校する。同期生に掘悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾がいた。明治三十七(1904)年十一月に海軍兵学校を192名中11番で卒業する。

 明治三十八(1905)年一月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に配属となり、同年五月二十七日の日本海海戦に参加する。この海戦において、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。

 明治四十二年(1909年)にアメリカに駐在となる。明治四十四年(1911年)に海軍大学校乙種学生を卒業する。同年、海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。

大正二(1913)年十二月に海軍大学校に入学する。大正四年(1915年)年に旧越後長岡藩牧野家十五代・牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。大正五(1916)年十二月に海軍大学校を卒業する。

 大正八(1919)年四月五日にアメリカに駐在を受命する。ハーバード大学に留学した。大正十(1921)年七月十九日に帰国する。大正十四(1925)年十二月に駐米大使館付武官となり、再びアメリカに滞在する。昭和三(1928)年三月に帰国する。

 昭和八(1933)年十月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」に乗り組む。昭和十一(1936)年十二月に海軍次官に就任する。昭和十四(1939)年八月三十日に山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。昭和十五(1940)年九月二十七日に調印された日独伊三国間条約に、山本は米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。

 昭和十六(1941)年八月十一日に第27代連合艦隊司令長官に再任される。昭和十六(1941)年十二月八日の真珠湾攻撃では戦艦4隻が大破着底]、戦艦2隻が大・中破するなど、アメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能する大戦果をあげた。

 昭和十七(1942)年六月五日のミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、南雲艦隊の主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する。日本へ帰還後の作戦研究会でも山本は「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。

 昭和十八(1943)四月十八日に午前6時に山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。ブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され山本五十六は薨去。五十九年の生涯を終えた。


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安倍能成

概要

 安倍能成(あべよししげ)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)十二月二十三日生誕 -昭和四十一(1966)年六月七日薨去(八十二歳)は、哲学者、教育者、政治家。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)十二月二十三日に安倍能成は松山城下の小唐人町(後の愛媛県松山市大街道)で医師の父・安倍義任(よしとう)と母・品(しな)の八男として誕生する。

 松山中(後の愛媛県立松山東高等学校)から第一高等学校を経て、東京帝国大学文科大学へと進学する。同窓生の一人に、藤村操がおり、その妹・恭子と大正元年(1912年)に結婚する。一高を中途退学した同期の岩波茂雄との交流は終生続く。

 明治三十九年(1906年)、東京帝国大学1年の時に友人が夏目漱石の元を訪問するのに同行して以来、漱石を深く尊敬して師事した。寺田寅彦との出会いも、漱石を通じてのものであった。

 昭和十五年(1940年)に母校の第一高等学校校長となる。安倍は名校長と謳われる。その一方で軍部が進める高等学校の年限短縮に反対したり、近衛文麿に早期和平の進言をしたために、憲兵隊から監視対象となる。

 昭和二十一年(1946年)に幣原改造内閣で文部大臣に就任すが、数ヵ月間務めたのちに辞任する。文部大臣退任後は帝室博物館総長・国立博物館館長、学習院院長を務める。教育刷新委員会委員長として、学制改革や教育基本法制定など教育制度改革に尽力する。昭和四十一(1966)年六月七日に安倍能成は薨去。八十二年の生涯を終えた。


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嶋田繁太郎

概要

 嶋田繁太郎(しまだしげたろう)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)九月二十四日生誕 -昭和五十一(1976)年六月七日薨去(九十二歳)は、海軍軍人。政治家。最終階級は海軍大将。栄典勲等功級は正三位勲一等功二級。第22代海軍大臣。第17代軍令部総長。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)九月二十四日に嶋田繁太郎は東京府で旧幕臣で神官の父・嶋田命周の長男として誕生する。

 東京中学を経て明治三十四(1901)年十二月十六日に海軍兵学校(32期)に入校する。明治三十七年(1904)年十一月十四日に海軍兵学校を192名中27番で卒業する。同期に山本五十六、吉田善吾、堀悌吉、などがいた。

 明治三十八年(1905)年八月三十一日に海軍少尉に任官する。明治四十年(1907)年九月二十八日に海軍中尉に進級する。明治四十二年(1909)年十月十一日に海軍大尉に進級する。明治四十三(1910)年五月二十三日に 海軍大学校乙種学生となる。大正二(1913)年十二月一日に海軍大学校甲種学生となる。

 大正四年(1915年)に海軍大学校を卒業(13期)する。同年十二月十三日に海軍少佐に進級する。大正五(1916)年二月十日に駐イタリア大使館付武官となる。 大正九(1920)年十二月一日に海軍中佐に進級する。大正十二(1923)年十二月一日に海軍大学校教官となる。大正十三(1924)年十二月一日に海軍大佐に進級する。

 昭和三(1928)年八月二十日に 軽巡洋艦「多摩」艦長に就任する。同年十二月十日に戦艦「比叡」艦長に就任する。昭和四(1929)年十一月三十日に海軍少将に進級する。第二艦隊参謀長に就任する。昭和五(1930)年十二月一日に連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長に就任する。

 昭和八年(1933)年十月一日に軍令部第一部長に就任する。昭和九(1934)年十一月十五日に海軍中将に進級する。昭和十(1935)年十二月二日に軍令部次長に就任する。昭和十二(1937)年十二月一日に第二艦隊司令長官に就任する。昭和十五(1940)年十一月十五日に海軍大将に進級する。

 昭和十六(1941)年十月十八日に東條内閣で海軍大臣を拝命する。 昭和十九(1944)年二月二十一日に軍令部総長に就任する。同年七月十七日に海軍大臣を辞任する。昭和二十(1945)年一月二十日に予備役編入となる。

 終戦後、A級戦犯に指名され、昭和二十三(1948)年十一月十二日に終身禁錮刑判決を受ける。昭和三十年(1955年)に仮釈放後赦免される。昭和五十一(1976)年六月七日に嶋田繁太郎は薨去。九十二年の生涯を終えた。


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堀悌吉

概要

 堀悌吉(ほりていきち)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)八月十六日生誕 -昭和三十四(1943)年五月十二日逝去(七十五歳)は、海軍軍人。最終階級は海軍中将。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)八月十六日に堀悌吉は大分県国東半島速見郡杵築(現、大分県杵築市)で父・矢野弥三郎と母・タマの次男として誕生する。10歳で杵築煙硝倉の士族・堀正治の養子となる。

 杵築中学校を中途退学して明治三十四(1901)年十二月十六日に海軍兵学校(32期)に190名中3番で入校する。明治三十七年(1904)年十一月十四日に海軍兵学校を192名中首席で卒業する。同期に山本五十六、吉田善吾、嶋田繫太郎、などがいた。

 明治三十八年(1905)年八月三十一日に海軍少尉に任官する。明治四十年(1907)年九月二十八日に海軍中尉に進級する。同年十二月二十日に海軍砲術学校普通科学生となる。明治四十二年(1909)年十月十一日に海軍大尉に進級する。通報艦「淀」分隊長となる。同年十二月一日に海軍大学校乙種学生となる。

 明治四十三年(1910)五月二十三日に海軍砲術学校高等科第7期学生となる。同年十一月二十五日に海軍砲術学校高等科を修了する。同年十二月一日に戦艦「朝日」分隊長となる。大正二(1913)年一月十日にフランス駐在陸海軍観戦武官となる。

 大正三(1914)年十二月一日に海軍少佐に進級する。大正四(1915)年十二月一日に 海軍大学校甲種第16期学生となる。大正七(1918)年十一月二十六日に 海軍大学校甲種を卒業時成績順位20名中首席で卒業する。同年十二月一日に海軍省軍務局員となる。

 大正八(1919)年十二月一日に海軍中佐に進級する。大正十一(1922)年十二月一日に連合艦隊砲術参謀兼第一艦隊砲術参謀に就任する。大正十二(1923)年十二月一日に海軍大佐に進級する。軽巡洋艦「五十鈴」の艦長に就任する。昭和二(1927)年十二月一日に戦艦「陸奥」の艦長に就任する。

 昭和三年(1928)十二月十日に海軍少将に進級する。第二艦隊参謀長に就任する。昭和六年(1931)年十二月一日に第3戦隊司令官に就任する。昭和七年(1932)年十一月十五日に第1戦隊司令官に就任する。昭和八年(1933)年一月十五日に海軍少将に進級する。軍令部出仕となる。

 昭和九年(1934)年十二月十五日に予備役編入となる。昭和十一(1936)十一月四日に日本飛行機取締役社長に就任する。昭和十六(1941)年十一月二十九日に日本飛行機取締役社長を辞任する。

 昭和二十二(1947)年十一月二十八日に公職追放令該当指定となる。昭和二十七(1952)年二月二十五日に公職追放令該当解除となる。昭和三十四(1943)年五月十二日に堀悌吉は逝去。七十五年の生涯を終えた。


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塩沢幸一

概要

 塩沢幸一(しおざわこういち)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月五日生誕 -昭和十八(1943)年十一月十七日薨去(六十歳)は、海軍軍人。最終階級は海軍大将。栄典勲章功級は従二位・旭日大綬章・功二級金鵄勲章。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月五日に塩沢幸一は長野県伊那郡大草村(現、長野県上伊那郡中川村)で養命酒製造の実家の四男として誕生する。

 明治三十四(1901)年十二月十六日に海軍兵学校(32期)に190名中首席で入校する。明治三十七年(1904)年十一月十四日に海軍兵学校を192名中次席で卒業する。同期に山本五十六、吉田善吾、嶋田繫太郎、堀悌吉などがいた。

 明治三十八年(1905)年八月三十一日に海軍少尉に任官する。明治四十年(1907)年八月五日に海軍砲術学校普通科学生となる。同年九月二十九日に海軍中尉に進級する。明治四十二年(1909)年十月十一日に海軍大尉に進級する。通報艦「千早」分隊長に就任する。

 明治四十三年(1910)五月二十三日に海軍砲術学校高等科第7期学生となる。大正二(1913)年十二月一日に海軍大学校甲種第13期学生となる。大正三(1914)年十二月一日に海軍少佐に進級する。大正四(1915)年十二月十三日に 海軍大学校甲種を卒業成績順位17名中第3位で卒業する。

 大正六(1917)年六月一日に在イギリス大使館附海軍駐在武官府補佐官補に就任する。同年十月二日に英戦艦「レゾリューション」に 観戦武官として乗艦する。大正八(1919)年十二月一日に帰国する。海軍中佐に進級する。大正九(1920)年十二月十七日に海軍大学校教官に就任する。

 大正十二(1923)年十二月一日に海軍大佐に進級する。海軍省軍務局第1課長に就任する。大正十五(1926)年三月三十一日に重巡洋艦「古鷹」の艦長に就任する。同年十二月一日に在イギリス大使館附海軍駐在武官兼艦政本部造船造兵監督長に就任する。昭和三(1928)年十二月十日に帰国する。海軍少将に進級する。

 昭和四(1929)年十一月三十日に連合艦隊参謀長兼第一艦隊参謀長に就任する。昭和八(1933)年十一月十五日に海軍中将に進級する。昭和九(1934)年一月十七日に海軍航空本部長に就任する。昭和十三(1938)年二月一日に第五艦隊司令長官に就任する。

 昭和十四(1939)年十一月十五日に海軍大将に進級する。昭和十六(1941)年九月十日に軍事参議官となる。昭和十八(1943)年六月五日の山本五十六連合艦隊司令長官の国葬で司祭長を務める。昭和十八(1943)年十一月十七日に塩沢幸一は薨去。六十年の生涯を終えた。


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北大路魯山人

概要

 北大路魯山人(きたおおじろさんじん)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月二十三日生誕 – 昭和三十四(1959)年十二月二十一日逝去(七十六歳)篆刻家、画家、陶芸家、書道家、料理家。本名は北大路房次郎(きたおおじふさじろう)。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月二十三日には京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂で上賀茂の社家の父・北大路清操と母・登女の次男として誕生する。

 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に割腹自殺を遂げる。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とする。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼす。

 10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小学校、新町小学校)を卒業する。京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」のあんどん看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳(たけうちせいほう)だった。

 明治二十九(1896)年一月に奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始める。扁額や篆刻などの分野の基礎的な感覚を身に着けていく。書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚受賞する。以後、応募を続け次々と受賞していく。

 明治三十七年(1904年)に日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。明治三十八年(1905年)に町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。

 明治四十年(1907年)に福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。仕事は繁盛して稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになる。合間に書肆(しょし)に出掛けて畫帖(がちょう)や拓本などの典籍(てんせき)を求め、夜は読書と研究に没頭する。

 明治四十三(1910)年十二月に実母と共に朝鮮に旅立つ。朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤める。明治四十五年(1912年)に帰国して書道教室を開く。その後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供される。ここで房次郎は福田大観(たいかん)の号で天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。

 竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まる。大正四年(1915年)に金沢の細野燕台(ほそのえんたい)のもとに寄留して美食や陶芸への関心を啓発される。

 大正五年(1916年)に母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、北大路魯山人の号を使いはじめる。長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていく。

 大正六年(1917年)に便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営する。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになる。大正十年(1921年)に会員制食堂「美食倶楽部」を発足する。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作する。大正十四(1925)年三月二十日に東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始める。

 昭和十一年(1936年)に星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放される。昭和二十一年(1946年)に銀座で自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開 店して在日欧米人からも好評を博す。昭和三十四(1959)年十二月二十一日に北大路魯山人は逝去。七十六年の生涯を終えた。


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