米内光政

概要

 米内光政(よないみつまさ)明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月二日生誕 – 昭和二十三(1948)年四月二十日薨去(六十八歳)は、海軍軍人。政治家。最終階級は海軍大将。位階勲等功級は従二位勲一等功一級。

経歴

 明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月二日に岩手県盛岡市で旧盛岡藩士の父・米内受政の長男として誕生する。

 明治十九年(1886年)に鍛冶町尋常小学校に入学する。明治二十三年(1890年)に盛岡高等小学校に入学する。明治二十七年(1894年)に岩手県尋常中学校に入学する。明治三十一年(1898年)に海軍兵学校29期に入校する。

 明治三十四年(1901年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業する。海軍少尉候補生となり練習艦「金剛」に乗り組む。明治三十六年(1903年)に海軍少尉に任ぜられる。

 明治三十八年(1905年)に日露戦争に従軍する。大正元年(1912年)に海軍少佐に任ぜられる。海軍大学校甲種学生12期に入校する。大正三年(1914年)に海軍大学校を卒業する。

 大正四(1915)年二月にロシア帝国サンクトペテルブルグ大使館付駐在武官補佐官に任命される。大正五年(1916年)に海軍中佐に任ぜられる。大正六(1917)年四月にロシア駐在を免ぜられる。大正九(1920)年六月よりベルリンに駐在する。同年十二月に海軍大佐に任ぜられる。

 大正十三年(1924年)に戦艦「扶桑」「陸奥」艦長に就任する。大正十四年(1925年)に海軍少将に任ぜられ、第二艦隊参謀長に就任する。昭和三年(1928年)に第一遣外艦隊(だいいちけんがいかんたい)司令官に就任する。昭和五年(1930年)に海軍中将に任ぜられる。

 昭和七年(1932年)に第三艦隊司令長官に就任する。 昭和九年(1934年)に第二艦隊司令長官に就任する。昭和十一年(1936年)に連合艦隊司令長官に親補される。昭和十二(1937)年二月二日に林内閣の海軍大臣に就任する。同年四月に海軍大将に進級する。

 昭和十五(1940)年一月十六日に第37代内閣総理大臣に就任する。まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。就任直後の同年一月二十一日に千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス海軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を臨検し、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生する。この事件で米内は陸軍と対立し、七月二十二日に米内内閣は総辞職する。

 昭和十六(1941)年十二月八日に真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する。昭和十九(1944)年七月二十二日に東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。

 昭和二十(1945)年八月九日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。同年八月十四日に天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、ポツダム宣言の受諾を決定する。これにより終戦が決定した。

 昭和二十一年(1946年)に公職追放となる。米内が薨去後の昭和二十七年(1952年)に追放解除となる。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、北海道釧路町の達古武湖(たっこぶこ)付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。昭和二十三(1948)年四月二十日に米内光政は薨去。六十八年の生涯を終えました。 


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ダグラス・マッカーサー

概要

 ダグラス・マッカーサ―(Douglas McArthur)1880(明治十三)庚辰(かのえたつ17)年一月二十六日生誕 -1964(昭和三十九)年四月五日逝去(八十四歳)は、アメリカの軍人。陸軍元帥。連合国最高司令官。国連軍司令官。

経歴

 1880(明治十三)庚辰(かのえたつ17)年一月二十六日にアメリカ合衆国アーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営で軍人の父・アーサー・マッカーサー・ジュニアと富裕な綿花業者の娘であった母・メアリー・ピンクニー・ハーディの三男として誕生する。

 1899年(明治三十二年)にウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校を受験し、750点満点中700点の高得点でトップ入学する。1903年(明治三十六年)に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、ダグラス・マッカーサーは94名の生徒の首席で卒業する。卒業後は陸軍少尉で任官した。

 当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。

 1905(明治三十六)年10月に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となり、マッカーサーも副官として東京で勤務した、その後マッカーサーと家族は、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行した。この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、乃木希典ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。

1906年(明治三十七年)にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。ルーズベルトはマッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価した。

 1912年(明治四十五年)に父アーサーが逝去する。この時、アメリカ陸軍参謀総長はレオナルド・ウッドだった。ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていた。陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ウッドはマッカーサーの勤務報告書を高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいく。

 1919年(大正八年)から1922年(大正十一年)までマッカーサーは母校である陸軍士官学校の校長に就任する。1922年(大正十一年)にフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任した。1925年(大正十四年)にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となる。

 1930年(昭和五年)にアメリカ大統領ハーバード・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命される。1933年(昭和八年)から副官には、後の大統領ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの今後長く続いていく関係が始まる。1935年(昭和十年)に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任する。

 1941(昭和十六)年七月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰する。同年12月18日に大将に昇進する。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となる。

 1941(昭和十六)年12月8日に日本軍がイギリス領マラヤで開戦。次いでハワイ州の真珠湾どに対して攻撃をおこない太平洋戦争が勃発した。1942(昭和十七)年4月18日にマッカーサーは南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。

 マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた。ニューギニアの勝利はフィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。

 1945(昭和二十)年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、連合国軍最高司令官に任命された。

 1945(昭和二十)年8月30日14時05分に予定よりも1時間早くマッカーサーが搭乗したバターン号は厚木に到着した。その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランへ向かう。同年9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリで降伏調印式を行う。

 1945(昭和二十)年9月27日に大使館公邸に訪れた昭和天皇とマッカーサーは会談した。マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深めた。

 第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950(昭和二十五)年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

 トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、1951(昭和二十六)年3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにその内容が伝えられた。マッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策した。

 イギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。マッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。

 トルーマンは1951(昭和二十六)年4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。同年4月16日にリッジウェイに業務を引継いでマッカーサーは帰国した。1964(昭和三十九)年四月五日にダグラス・マッカーサーは逝去。八十四年の生涯を終えました。


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永井荷風

概要

 永井荷風(ながいかふう)明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)十二月三日生誕- 昭和三十四(1959)年四月三十日逝去(七十九歳)は、小説家。本名は永井壮吉(ながいそうきち、旧字体:壯吉)。

経歴

 明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)十二月三日に東京市小石川区金富町四十五番地(現、東京都文京区春日二丁目)で父・永井久一郎と母・恒(つね)の長男として誕生する。

 東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、明治二十四年(1891年)に高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学する。

明治三十年(1897年)に官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現、東京外国語大学)に入学し、明治三十二年(1899年)に中退する。明治三十四年(1901年)に暁星中学校(ぎょうせいちゅうがっこう)の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。

 明治三十六(1903)九月二十二日に父の意向で実業を学ぶべく渡米する。フランス語を修める傍ら、日本大使館や横浜正金銀行に勤める。明治四十(1907)年七月からフランスに滞在して明治四十一年(1908)年七月に帰国する。

 明治四十一年(1908年)に『あめりか物語』を発表。明治四十二年(1909年)に『ふらんす物語』を発表する。荷風は新進作家として注目され、森鴎外、夏目漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持つ。

 明治四十三年(1910年)に森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に臨んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だった。関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評した。

 華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。明治四十五年(1912年)に商家の娘と結婚させられたが、大正二年(1913年)に父が没して家督を継いで間もなく離縁している。大正三年(1914年)に新橋の芸妓・八重次を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現、中央区築地)の借家へ移り、以降妻帯することはなかった。

 大正五年(1916年)に『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する。慶應大を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、大正六(1917)年九月十六日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。

 大正七年(1918年)に余丁町の屋敷を売り、大正八年(1919年)に麻布市兵衛町一丁目(現、港区六本木一丁目)に新築した『偏奇館』へ移る。この頃、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。

 大正十五年(1926年)頃から、銀座のカフェーに出入りする。昭和九年(1934年)に『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。昭和十二年(1937年)に『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』を朝日新聞に連載した。

 昭和二十(1945)年三月十日の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した。同年七月三日に岡山市巌井三門町(現、岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。

 昭和二十(1945)年八月十四日の夜、谷崎潤一郎が牛肉を準備し、宿泊していた赤岩旅館で牛鍋を食べた。 翌日岡山へ戻って「休戦」を知る。荷風は同年八月三十日に上り列車に乗り翌三十一日に帰京した。

 戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。

 昭和二十三年(1948年)に千葉県市川市菅野(現、東菅野二丁目)に家を買いようやく落ち着いた環境で生活できるようになる。荷風自身も心身ともに余裕ができ、背広に下駄履きで浅草や葛飾の旧跡を散策するようになる。 

 昭和二十七年(1952年)に「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他、江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由 で文化勲章を受章する。昭和三十二年(1957年)に千葉県市川市八幡町四丁目(現、八幡三丁目)に転居する。これが荷風の終の棲家となる。昭和三十四(1959)年四月三十日に永井荷風は逝去。七十九年の生涯を終えました。


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大正天皇

概要

 大正天皇(たいしょうてんのう)明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)八月三十一日 -大正十五(1926)年十二月二十五日崩御(四十七歳)は、第123代天皇(在位:明治四十五(1912)年七月三十日 – 大正十五/昭和元(1926)年十二月二十五日)。諱(いみな)嘉仁(よしひと)、御称号は明宮(はるのみや)。お印は(じゅ)。

経歴

 明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)八月三十一日 午前8時12分に東京府の青山御所の御産所で、父・明治天皇と典侍(ないしのすけ/てんじ)の母・柳原愛子の第三皇子(皇男子)として誕生する。

 出産時に体調が悪かった柳原愛子は難産となり、嘉仁親王は全身に発疹がある虚弱状態で誕生した。明治天皇の外祖父の中山忠能が皇子御世話に任命された。

 伝統に従い里子として中山忠能邸に移る。しかし、忠能とその妻・愛子は嘉仁親王の養育に全く役に立たず、実の祖母であり、当時中山邸に住んでいた中山慶子を中心に親王の養育が行われた。慶子は親王の世話に没頭したが、親王の健康はなかなか良くならなかった。

 明治二十(1887)年九月から学習院予備科に通い始める。明治二十二(1889)年二月に青山御所から赤坂離宮内の東宮御所(「花御殿」と呼ばれた)に移る。同年十一月三日に立太子が行われ皇太子になるとともに、陸軍歩兵少尉に任官する。

 明治三十一年(1898年)に第三次内閣を組閣した伊藤博文は、皇太子に関し、健康増進を最優先としながらも政治や軍事などの見識を持たせるため、適当な人物を監督役や側近とするよう明治天皇に進言した。明治三十二(1899)年五月に有栖川宮威仁親王は東宮輔導となり皇太子養育の全権を与えられる。それまでの詰め込み教育を改め健康第一へと転換させた。

 明治三十三(1900)年二月十一日に皇太子嘉仁親王と九条節子の婚約が正式決定し発表された。同年五月十日に婚礼を行うことが発表された。皇太子夫妻は同年五月二十三日から六月七日にかけ、三重県、奈良県、京都府の各府県を巡啓し、伊勢神宮や神武天皇陵、泉涌寺 (せんにゅうじ)などを結婚報告のため参拝した。

 有栖川宮威仁親王は、皇太子の健康な身体や精神を育成するため、名目上は授業で学んだ地理歴史を実際に見学するため、長期的な地方行啓を発案した。有栖川の目論見通り、これらの地方巡啓により皇太子の健康が回復し、学習の効率も上がった。しかし皇太子の自由に任せた結果、生来の気まぐれな性格が助長され、また有栖川宮への依存心が高まる結果となった。

 明治四十五(1912)年七月二十九日夜に明治天皇が崩御する。皇太子は同年七月三十日午前1時に践祚、大正(たいしょう)と改元する。同年八月一日に朝見式が行われた。大正四(1915)年十一月十日に京都御所で即位礼紫宸殿の儀、同年十一月十四日に大嘗祭が行わる。

 大正十(1921)年三月に皇太子裕仁親王は懸案だった欧州訪問に出発した。この頃の大正天皇は、同年七月に塩原御用邸へ静養に行った際には、侍従に抱えられてやっと歩き、風呂や階段を怖がったり、突然暴れだしたりした。また前年の出来事や身近な人物を忘れるなど記憶喪失状態に陥るなどの状態であった。

 大正十(1921)年九月に皇太子が欧州から帰国すると、摂政設置に向けた最終段階に入る。同年十月四日に大正天皇の病状が深刻であり、事実上公務を行うことができなくなっていると発表される。同年十一月二十五日に皇室会議と枢密院で摂政設置が決議され、正式に皇太子裕仁親王が摂政に就任する。

 大正十五年(1926年)初から風邪を引き、五月に完治したものの再び脳貧血を起こし、ほぼ歩行が不可能になる。同年十二月八日に呼吸困難に陥り、急遽取り寄せられた酸素吸入器が使われ、新聞号外が出された。大正十五(1926)年十二月二十五日に大正天皇は崩御。四十七年の生涯を終えました。


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岩崎小弥太

概要

 岩崎小弥太(いわさきこやた)明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)八月三日生誕 -昭和二十(1945)年十二月二日薨去(六十六歳)は、実業家。三菱財閥の4代目総帥。男爵。

経歴

 明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)八月三日に東京府(東京都)で父・2代目岩崎弥之助(岩崎弥太郎の弟)と後藤象二郎の長女の母・早苗の長男として誕生する。

 明治二十四年(1891年)に高師附属小学校(現・筑波大学附属小学校)を卒業。明治二十九年(1896年)に高師附属中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)を卒業。同年旧制第一高等学校に入学する。一高を経て明治三十二年(1899年)に東京帝国大学法科大学に入学するが翌年の明治三十三(1900年)に中退する。

明治三十八年(1905年)にケンブリッジ大学を卒業し、翌年の明治三十九年(1906年)に帰国して三菱合資会社の副社長となり、明治四十一年(1908年)に父弥之助の死去に伴い男爵を継承して大正五年(1916年)に従兄である3代目岩崎久弥(弥太郎の長男)の後を継いで社長に就任して三菱財閥の4代目となる。

 社長就任後は拡大戦略をとり、大正六年(1917年)から各事業部を株式会社として独立させることにより、三菱財閥の形態を完成させた。大正七年(1918年)の大学令公布により早稲田大学が基金の募集に奔走した折にも最も多い十万円の寄附を行った。この貢献により大正十三(1924)年十二月に、大学は久弥、小弥太の両人に早稲田大学校賓の称号を贈る。

 昭和二十(1945)年八月の日本の敗戦時には病の床にあり、GHQの圧力による財閥解体に最後まで抵抗した。昭和二十(1945)年十二月二日に岩崎小弥太は薨去。六十六年の生涯を終えました。


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アルベルト・アインシュタイン

概要

 アルベルト・アインシュタイン(ドイツ: Albert Einstein)1879年3月14日(明治十二年)己卯(つちのとう16)生誕 – 1955(昭和三十)年4月18日逝去(76歳)は、ドイツ生まれの理論物理学者。

経歴

 1879年3月14日(明治十二年)己卯(つちのとう16)にドイツ南西部のバーデン=ヴュルテンベルク州ウルム市で父・ヘルマン・アインシュタインと母・パウリーネ・コッホの長男として誕生する。

 アインシュタインは、5歳ごろまであまり言葉を発して他人と会話することがなかった。5歳のときに父親からもらった方位磁針(ほういじしん)が自然界の仕組みに対する興味をもたらすきっかけとなる。ヴァイオリンを習い、モーツァルトの曲が好きになる。

 アインシュタインは数学に関しては傑出した才能を示し、9歳のときにピタゴラスの定理の存在を知り、その定理の美しい証明を寝る間も惜しんで考え、自力で定理を証明する。12歳のときに叔父からユークリッド幾何学の本をもらい独習する。微分学と積分学も、この当時に独学で習得した。

 1895年(明治二十八年)にスイスのチューリッヒ連邦工科大学を受験したが、総合点が合格基準に足らず失敗する。しかし同校の校長は、アインシュタインの数学と物理の点数が最高ランクだったため、大学入学に必要な中等教育の諸知識を習得することを条件に、翌年度の入学資格を与えられる。アインシュタインは1895年と1896年に同校に通学した。アーラウの学校の校風は、ある程度自由が保障されており、さらにこの学校は視覚教育に力を入れていた。

 ある晴れた日の昼休み、アインシュタインは学校の裏にある丘に寝転んで空を眺めていた。いつの間にか眠り込んでしまい、不可思議な夢を見た。それは、自分が光の速さで光を追いかける夢であったという。彼は目が覚めると、すぐに思考実験を試みた。これがのちの相対性理論を生み出すきっかけになったといわれている。

 アインシュタインは数学・物理の教員資格試験に無事合格した。1900年7月(明治三十三年)にチューリッヒ連邦工科大学を卒業した。大学の物理学部長ハインリヒ・ウェーバーと不仲であったために、大学の助手になれなかった。保険外交員、臨時の代理教員や家庭教師のアルバイトで収入を得つつ、論文の執筆に取り組む。

 1902年(明治三十五年)にベルンのスイス特許庁に3級技術専門職として就職する。ここで好きな物理学の問題に取り組む自由がたっぷりでき、特許申請書類の中のさまざまな発明理論や数式を知る機会を得る。

 1903年1月6日(明治三十六年)にアインシュタインとミレーバは正式に結婚する。1904年(明治三十七年)に長男ハンスを授かる。このアパート暮らしでは、アインシュタインは壁が完全な平面ではなく、歪曲している・壁と天井を結ぶ線が直線ではなく、少し曲がっているのではないか、ということが気になっていた。この考えがのちに一般相対性理論を生み出す元となった。

 1905年(明治三十八年)に3つの重要な論文を発表する。この1905年は「奇跡の年」とも呼ばれている。「奇跡の年」およびそれに続く数年で、アインシュタインは「光量子仮説」「ブラウン運動の理論」「特殊相対性理論」に関連する五つの重要な論文を立て続けに発表する。 

 1907年(明治四十年)に式、E=mc2を発表。この年には、「箱の中の観測者は、自らにかかる力が慣性力なのか重力なのか区別ができない」という、のちの一般相対論の基礎となるアイディア(等価原理)を考案する。アインシュタインはこれを「生涯最良の名案」と述べる。

 1909年(明治四十二年)に特許局に辞表を提出し、チューリッヒ大学の助教授に就任する。1910年(明治四十三年)にプラハ大学の教授に就任する。1913年(大正二年)にプロセイン科学アカデミーの会員となる。アインシュタインはベルリンに移住する。光量子仮説に基づく光電効果の理論的解明によって1921年(大正十年)のノーベル物理学賞を受賞する。

 1922(大正十一)年にフランスを訪れたほか、同年10月に日本への訪問を目的に夫婦で客船「北野丸」に乗船する。同年11月17日に訪日したアインシュタインは、その後43日間滞在し、大正天皇に謁見した。

 1933年(昭和八年)にアインシュタインはイギリス、スイスへの旅行の後、再度イギリスへと渡る。その後アメリカへと渡り、プリンストン高等学術研究所の教授に就任する。この年にアインシュタインの別荘をドイツ警察が強制的に家宅捜索するなどという出来事もあった。その後ドイツはアインシュタインを国家反逆者とした。

 1954年(昭和二十九年)に「人間は肉食動物ではない」と主張してベジタリアンの生活を実践するようになる。「人間の健康を高め、地球生命の存続を確かなものとする点で、菜食に勝るものはない」と述べている。

 1955(昭和三十)年4月11日に哲学者バートランド・ラッセルとともに核兵器の廃絶や戦争の根絶、科学技術の平和利用などを世界各国に訴える内容のラッセル=アインシュタイン宣言に署名する。同年4月13日に建国7周年を迎えるイスラエルと同国国民へ寄せるラジオ放送に関する打ち合わせ後、心臓付近の痛みに倒れる(腹部動脈瘤の肥大)。 1955(昭和三十)年4月18日にアルベルト・アインシュタインは逝去。76年の生涯を終えました。


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鳥井信治郎

概要

 鳥井信治郎(とりいしんじろう)明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)一月三十日生誕 -昭和三十七(1962)年二月二十日逝去(八十三歳)は、実業家。サントリー(現サントリーホールディングス株式会社)の創業者。

経歴

 明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)一月三十日に大阪府第一大区(のちの東区、現・中央区)釣鐘町(つりがねちょう)で両替商・米穀商の父・鳥井忠兵衛の次男として誕生。

 明治二十年(1887年)に大阪府東区島町の北大江小学校尋常科に入学する。明治二十三年(1890年)に市立大阪商業学校の付属科(のちの大阪市立天王寺商業高等学校、現・大阪市立大阪ビジネスフロンティア高等学校)に入学する。

 明治二十五年(1892年)に薬種問屋小西儀助商店(現在の接着剤製造のコニシ)へ丁稚奉公に出た。この時に小西儀助商店で扱っていた洋酒についての知識を得た。

 明治三十二年(1899年)に大阪市西区靱中通(現・靱本町(うつぼほんまち))で鳥井商店を開業する。明治三十九年(1906年)に「壽屋洋酒店」に改名する。スペイン人兄弟が大阪で経営していたセレース商会を買収する。日本人の口にあう「赤玉ポートワイン」を製造し販売する。

 大正十年(1921年)に大阪市東区住吉町(現・松屋町住吉)で株式会社壽屋を設立。大正後期には「赤玉ポートワイン」が国内ワイン市場の60%を占めるまでに成長する。

 大正十二年(1923年)に本格的なウイスキー生産を志し、ウイスキーの本場スコットランドキャンベルタウンでウイスキー留学の経験のある竹鶴政孝を招き大阪府島本村山崎にウイスキー蒸留所(山﨑蒸留所)を建設する。昭和三十六年(1961年)に 壽屋の会長に就任。経営の第一線から退く。昭和三十七(1962)年二月二十日に鳥井信治郎は逝去。八十三年の生涯を終えました。


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野間清治

概要

 野間清治(のませいじ)明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十二月十七日生誕-昭和十三(1938)年十月十六逝去(五十九歳)は、教師、実業家。講談社創業者。

経歴

 明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十二月十七日に群馬県山田郡新宿村(現在の群馬県桐生市)で教師の父・野間好雄と母ふゆの子として誕生。

 明治二十八年(1895年)に木崎尋常小学校(現在の太田市市立木崎小学校)の代用教員となる。明治二十九年(1896年)に群馬県尋常師範学校(現在の群馬大学教育学部)に入学する。

 明治三十五年(1902年)に 東京帝国大学文科大学(現在の東京大学文学部)第一臨時教員養成所国語漢文科に入学する。明治三十八年(1905年)に 沖縄県立中学校(現在の沖縄県立首里高等学校)の教諭となる。

 明治四十年(1907年)に東京帝国大学法科大学の首席書記に就任する。明治四十二年(1909年)に大日本雄弁会を創設する。明治四十四年(1911年)に講談社創業。雑誌「講談倶楽部」を創刊する。大正十四年(1925年)に 雑誌「キング」を創刊。爆発的大ヒットとなる。

 昭和五年(1930年)に 報知社(昭和七年より報知新聞社)を買収する。昭和十三(1938)年十月十六に野間清治は逝去。五十九年の生涯を終えました。


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与謝野晶子

概要

 与謝野晶子(正字: 與謝野晶子、よさのあきこ)明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十二月七日生誕 -昭和十七(1942)年五月二十九日逝去(六十三歳)は、歌人、作家、思想家。

経歴

 明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十二月七日に、堺県和泉国第一大区甲斐町(現在の大阪府堺市堺区甲斐町東1丁・甲斐町西1丁)で老舗和菓子屋「駿河屋」を営む、父・鳳宗七と母・津祢の三女として誕生。

 9歳のとき漢学塾に入り、琴や三味線も習う。堺市立堺女学校(現・大阪府立泉陽高等学校)に入学する。『源氏物語』や『文学界』を読み、尾崎紅葉、幸田露伴、樋口一葉などの小説を読む。

 20歳ごろより店番をしつつ和歌を投稿するようになる。明治三十三年(1900年)に浜寺公園の旅館で行なわれた歌会で歌人・与謝野鉄幹と不倫の関係になり、鉄幹が創立した新詩社の機関誌『明星』に短歌を発表する。のちに鉄幹と結婚して子供を12人出産する。

 明治三十七(1904)九月に『君死にたまふことなかれ』を『明星』に発表する。明治四十五年(1912年)に晶子は鉄幹の後を追ってフランスのパリに行く。洋行費の工面は、森鷗外が手助けをした。

 大正十年(1921年)に建築家の西村伊作と、画家の石井柏亭、夫の鉄幹らとともにお茶の水駿河台に文化学院を創設する。男女平等教育を唱え、日本で最初の男女共学を成立させる。

 鉄幹の詩の売れ行きは悪くなる一方で、彼が大学教授の職につくまで夫の収入がまったくあてにならず孤軍奮闘した。来る仕事はすべて引き受けなければ家計が成り立たず、歌集の原稿料を前払いしてもらっていたという。

 残した歌は5万首にも及ぶ。『源氏物語』の現代語訳『新新源氏』、詩作、評論活動とエネルギッシュな人生を送り、女性解放思想家としても巨大な足跡を残した。昭和十七(1942)年五月二十九日に与謝野晶子は逝去。六十三年の生涯を終えました。


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寺田寅彦

概要

 寺田寅彦(てらだとらひこ)明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十一月二十八日生誕 -昭和十(1935)年十二月三十一日 逝去(五十七歳)は、物理学者、随筆家、俳人。

経歴

 明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)十一月二十八日に東京市麹町区(現在の東京都千代田区)で高知県士族(旧足軽)の父・寺田利正と母・亀夫妻の長男として誕生。

 明治十四年(1881年)に 祖母、母、姉と共に郷里の高知県高知市に転居する。明治二十六年(1893年)に 高知県尋常中学校(現・高知県立高知追手前高等学校)に入学する。明治二十九年(1896年)に熊本の第五高等学校に入学する。英語教師の夏目漱石、物理学教師の田丸卓郎と出会い、両者から大きな影響を受け、科学と文学を志す。

 明治三十一年(1898年)に夏目漱石を主宰とした俳句結社紫溟吟社(しめいぎんしゃ)をおこす。明治三十二年(1899年)に東京帝国大学理科大学に入学する。田中舘愛橘(たなかだてあいきつ)、長岡半太郎の教えを受ける。

 明治三十六年(1903年)に 東京帝国大学理科大学実験物理学科を首席で卒業する。東京帝国大学大学院に進学する。明治三十七年(1904年)に – 東京帝国大学理科大学講師に就任する。明治四十一年(1908年)に「尺八の音響学的研究」により理学博士号を取得する。

 明治四十二(1909)年一月に東京帝国大学理科大学助教授に就任する。同年三月に地球物理学研究のためベルリン大学に留学する。明治四十四年(1911年)に帰国。農商務省から水産講習所における海洋学に関する研究を嘱託される。

 大正二年(1913年)にラウエのラウエ斑点発見に刺激され、自らX線回析実験を行い、「X線と結晶」をNatureに発表する。著書「Umi no Buturigaku」を出版する。大正五年(1916年)の 東大卒業式に「X線によって原子排列を示す実験」を天覧に供する。東京帝国大理科大学教授に就任する(物理学)。

 大正六(1917)年七月に帝国学士院恩賜賞を受賞する。大正十一年(1922年)に アルベルト・アインシュタインが来日し、講演を聴講する。歓迎会に出席する。

 大正十二(1923)年九月一日午前11時58分32秒発生の関東大震災の調査をする。大正十三年(1924年)に理化学研究所研究員を兼務する。昭和三年(1928年)に帝国学士院の会員となる。昭和十(1935)年十二月三十一日に 寺田寅彦は逝去。五十七年の生涯を終えました。


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