川合玉堂

概要

 川合玉堂(かわいぎょくどう)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)十一月二十四日生誕 -昭和三十二(1957)年六月三十日 薨去(八十三歳)は日本画家。本名は 川合芳三郎(かわいよしさぶろう)。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)十一月二十四日に愛知県葉栗郡外割田村(現、愛知県一宮市木曽川町外割田)で、筆墨紙商の長男として誕生。明治十四年(1881年)に一家は岐阜市に移住する。

 明治十九年(1886年)に京都の画家・青木泉橋が岐阜に来住すると、芳三郎は青木夫妻の知遇を得て大いに刺激を受ける。明治二十(1887)年九月に青木泉橋の紹介状を持って京都に行き、四条派・望月玉泉に入門して「玉舟」の号を得る。

 明治二十三(1890)年十一月に、円山派・幸野楳嶺(こうのばいれい)の画塾「大成義会」に入会する。同年、春渓群猿図(しゅんけいぐんえんず)及び 秋渓群鹿図(しゅうけいぐんかず)の連作を第三回内国勧業博覧会に出品して入選する。これを機に「玉堂」に改号する。

 明治二十九年(1896年)に東京へ移住して橋本雅邦(はしもと がほう)に師事する。岡倉天心、橋本雅邦、横山大観らの創立した日本美術院には明治三十一年(1898年)より参加する。

 大正四年(1915年)に東京美術学校日本画科教授に就任する。大正六(1917)年六月十一日に帝室技芸員に任じられ、日本画壇の中心的存在の一人となる。

 昭和六年(1931年)にフランス政府からレジオンドヌール勲章を授与される。昭和八年(1933年)にドイツ政府から赤十字第一等名誉章を授与される。昭和十五年(1940年)に日本政府から文化勲章を授与される。

 昭和三十二(1957)年六月三十日 に川合玉堂は薨去。八十三年の生涯を終えました。


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津田左右吉

概要

 津田左右吉(つだそうきち)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)十月三日生誕 -昭和三十六(1961)年十二月四日 薨去(八十八歳)は、歴史学者、思想史家。栄典は従三位勲一等瑞宝章。文化勲章。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)十月三日に岐阜県美濃加茂市下米田町で誕生。明治二十四年(1891年)に東京専門学校(現、早稲田大学)邦語政治科卒業。卒業後、白鳥庫吉の指導を受ける。

 明治四十一年(1908年)に白鳥庫吉が研究長を務める満鉄東京支社嘱託・満鮮地理歴史調査室研究員に就任する。津田はこの調査部で「渤海考」「勿吉考」等東洋史研究調査を行う。

 大正七年(1918年)に早稲田大学講師に就任。東洋史、東洋哲学を担当する。大正八年(1919年)に『古事記及び日本書紀の新研究』を発表する。大正九年(1920年)に早稲田大学文学部教授に就任する。

 昭和二十一年(1946年)に雑誌『世界』第4号に発表した論文の「建国の事情と万世一系の思想」では、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」と天皇制維持を論じた。

 昭和二十二年(1947年)に帝国学士院(同年中に日本学士院と改称)会員に選ばれる。昭和二十四年(1949年)に文化勲章を受章する。昭和三十六(1961)年十二月四日に津田左右吉は 薨去。八十八年の生涯を終えました。


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美濃部達吉

概要

 美濃部達吉(みのべたつきち)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)五月七日生誕 -昭和二十三(1948)年五月二十三日薨去(七十五歳)は、法学者、憲法学者、政治家、東京帝国大学名誉教授。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)五月七日に兵庫県加古郡高砂町(現・兵庫県高砂市)の漢方医・美濃部秀芳の次男として誕生。

 高砂小学校、小野中学校(現:兵庫県立小野高校)、第一高等中学校を経て、明治二十七年(1894年)に東京帝国大学法科大学政治学科(現・東京大学法学部)に進み、天皇機関説を主唱した一木喜德郞( いちききとくろう)に師事する。

 明治三十年(1897年)に東京帝国大学法科大学政治学科を卒業する。高等文官試験行政科に合格して、内務省に勤務する。明治三十二年(1899年)にドイツ、フランス、イギリスに留学する。明治三十三年(1900年)に東京帝国大学助教授、明治三十五年(1902年)に東京帝国大学教授となり比較法制史の講座を担任する。

 大正元年(1912年)に発表した『憲法講話』で、天皇機関説を発表。同説は、ドイツのゲオルグ・イェリネックが主唱した「君主は国家におけるひとつの、かつ最高の、機関である」とする国家法人説に基づいて大日本帝国憲法を解釈し、日本の統治機構を解く学説である。

 大正元年(1912年)に東京帝国大学法科大学長に就任し、天皇主権説を唱えた上杉慎吉教授と論争を展開した。こののち天皇機関説は大正天皇や昭和天皇、当時の政治家や官僚らにとっても当然のものとして受け入れられるようになっていった。大正九年(1920年)に講座増設で憲法第二講座が設けられ、行政法第一講座と兼担する。

 昭和九(1934)年五月に貴族院議員に任じられる。同年、東京帝国大学及び兼官を退官し東京帝国大学名誉教授の称号を授与される。同年に国体明徴運動(こくたいめいちょううんどう)が起こり、昭和天皇の天皇機関説支持にもかかわらず、美濃部は排撃され始めた。

 貴族院本会議において、菊池武夫議員により天皇機関説非難の演説が行われ、軍部や右翼による機関説と美濃部排撃が激化する。これに対し美濃部は、「一身上の弁明」と呼ばれる演説を行い、自己の学説の正当性を説いた。昭和十(1935)年九月に貴族院議員を辞任する(依願免職)。昭和十一年(1936年)に天皇機関説の内容に憤った右翼暴漢の銃撃を受けて重傷を負う。

 昭和二十一(1946)年一月に枢密顧問官に任じられる。同年七月に公職適否審査会委員、公職適否審査会委員長に就任する。日本国憲法の成立後には、憲法の研究を重ね、多くの著書・論文を発表した。昭和二十三(1948)年五月二十三日に美濃部達吉は薨去。七十五年の生涯を終えました。


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下村観山

概要

 下村観山(しもむらかんざん)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)四月十日生誕-昭和五(1930)年五月十日逝去(五十七歳)は、明治から 昭和初期の日本画家。本名は晴三郎。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)四月十日に、和歌山県和歌山市小松原通5丁目で紀州藩に仕える小鼓方幸流の能楽師の三男として誕生する。明治十四年(1881年)に一家で東京へ移住する。父は篆刻や輸出象牙彫刻を生業とし、兄2人も後に豊山、栄山と名乗る彫刻家となる。

 観山は祖父の友人だった藤島常興に絵の手ほどきを受ける。常興は狩野芳崖の父・狩野晴皐の門人だったことから、芳崖に観山を託す。観山初期の号「北心斎東秀」は芳崖が授けたとされる。

 明治二十二(1889年)に東京美術学校(現・東京藝術大学)に第一期生として入学。卒業後は同校で教えていたが、1898年に岡倉天心が野に下ったときに行動を共にして横山大観、菱田春草とともに日本美術院の創設に参加した。明治三十六(1903)年二月二十一日に文部省留学生として渡英のため横浜を出航し、同年十二月十日に帰国する。

 明治三十九年(1906年)に天心が日本美術院を茨城県北部の五浦海岸へ移した際、大観、春草、木村武山らとともに同地へ移住し画業を深めた。大正六(1917)年六月十一日に帝室技芸員となる。昭和五(1930)年五月十日に下村観山は逝去。五十七年の生涯を終えた。


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与謝野鉄幹

概要

 与謝野鉄幹(正字: 與謝野鐵幹、よさのてっかん)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)二月二十六日生誕 -昭和十(1935)年三月二十六日逝去(三十九歳)は、歌人。本名は与謝野寛(よさの ひろし)。鉄幹は号。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)二月二十六日に京都府岡崎町(現在の京都市佐京区)で西本願寺支院の願成寺の僧侶、父・与謝野礼厳と母・初枝の四男として誕生。

 明治十六年(1883年)に大阪府住吉郡の安養寺の安藤秀乗の養子となる。明治二十二年(1889年)に西本願寺で得度の式をあげる。山口県都濃郡徳山町(現在の周南市)の兄の寺に赴き、その経営する徳山女学校の教員に就任する。明治二十三年(1890年)に鉄幹の号を用いる。明治二十四年(1891年)に養家を離れ与謝野姓に復した。

 徳山女学校では国語の教師を務めたが女子生徒の浅田信子との間に問題を起こして退職した。このとき女の子が生まれたがその子は間もなく死亡した。別の女子生徒の林滝野と同棲して与謝野萃(あつむ)が誕生する。

 明治二十五年(1892年)に徳山女学校を辞して京都へ帰り、同年十一月ごろ上京して、落合直文の門に入る。明治二十九年(1896年)に明治書院の編集長に就任する。跡見女学校の教員を兼務する。明治三十二年(1899年)に東京新詩社 を創立する。同年秋、最初の夫人浅田信子と離別し林滝野と同棲し麹町区に居住する。

 明治三十三年(1900年)に『明星』を創刊する。北原白秋、吉井勇、石川啄木などを見い出し、ロマン主義運動の中心的な役割を果たした。しかし、当時無名の若手歌人であった鳳晶子(のち鉄幹夫人)との不倫が問題視される。誹謗中傷が仕立て上げられた。妻・滝野と離別して、明治三十四年(1901年)に晶子と再婚し六男六女の子宝に恵まれた。

 明治四十一年(1908年)に木下杢太郎・北原白秋・吉井勇らが脱退し、『明星』は第100号をもって廃刊した。その後の鉄幹は極度の不振に陥る。明治四十四年(1911年)に晶子の計らいでパリへ行く。のち晶子も渡仏、フランス国内からロンドン、ウィーン、ベルリンを歴訪する。だが創作活動が盛んとなったのは晶子の方で、鉄幹は依然不振を極めていた。再起を賭けた労作、訳詞集『リラの花』も失敗するなど、栄光に包まれる妻の陰で苦悩に喘いだ。

 大正四年(1915年)の第12回総選挙に故郷の京都府郡部選挙区から無所属で出馬したが落選する。大正八年(1919年)に慶應義塾大学文学部教授に就任する。昭和十(1935)年三月二十六日に与謝野鉄幹は気管支カタルが原因で逝去。三十九年の生涯を終えました。


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河東碧梧桐

概要

 河東碧梧桐(かわひがしへきごとう)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)二月二十六日生誕 -昭和十二(1937)年二月一日逝去(六十三歳)は、俳人、随筆家。本名は秉五郎(へいごろう)。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)二月二十六日に愛媛県温泉郡千船町(現・愛媛県松山市千舟町)で松山藩士で藩校・明教館の教授であった父・河東坤(号・静渓)の五男として誕生。少年の頃は正岡子規の友人で後に海軍中将となる秋山真之を敬愛していた。

 明治二十一年(1888年)に伊予尋常中学(現在の愛媛県立松山東高校)に入学する。同級生の高濱清(後の高浜虚子)を誘い子規より俳句を学ぶ。明治二十六年(1893年)に京都の第三高等学校に入学する。仙台の第二高等学校に編入の後中退する。明治三十三年(1900)に青木月斗の妹、茂枝と結婚する。

 明治三十五年(1902年)に子規が没すると、新聞『日本』俳句欄の選者を子規より受け継ぐ。明治三十八年(1905年)頃より従来の五七五調の形にとらわれない新傾向俳句に走り始める。明治三十九年(1906年)から明治四十四年(1911年)にかけて新傾向俳句の宣伝のため二度の全国俳句行脚を行う。

 昭和八(1933)年三月二十五日の還暦祝賀会の席上で俳壇からの引退を表明する。昭和十二(1937)年二月一日に川東碧梧桐は腸チフスを患い逝去。六十三年の生涯を終えました。


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小林一三

概要

 小林一三(こばやしいちぞう)明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)一月三日生誕 -昭和三十二(1957)年一月二十五日薨去(八十四歳)は、実業家。阪急東宝グループ(現・阪急阪神東宝グループ)の創業者。

経歴

 明治六(1873)年癸酉(みずのととり10)一月三日に山梨県巨摩郡河原部村(現在の山梨県韮崎市)の商家で誕生。生まれてすぐ母が死去、父とも生き別れたため、おじ夫婦に引き取られた。

 高等小学校から加賀美平八郎が経営する私塾・成器舎 を経て後に上京し、明治二十一(1888)年二月に福沢諭吉が塾長の慶應義塾に入塾する。その日から塾の構内にある、塾監・益田英次の家に寄宿する。

 明治二十五年(1892年)に慶應義塾正科(現在の慶應義塾大学)を卒業し、三井銀行(三井住友銀行の前身)に勤務する。日露戦争終結後、岩下清周に誘われ、大阪で岩下が設立を計画する証券会社の支配人になるために明治四十年(1907年)に大阪へ赴任する。

 恐慌に見舞われ証券会社設立の話は立ち消えてしまい失業する。その頃に小林は箕面有馬電気鉄道の話を聞き、電鉄事業の同社には有望性があるとして、岩下を説得し北浜銀行に株式を引き受けさせることに成功する。明治四十(1907)年六月に「箕面有馬電気軌道」と社名を改めて同年十月に設立されると、小林は同社の専務となる。社長が不在であったため、小林が経営の実権を握ることになる。

 大正三(1914)四月に、当時人気を得ていた三越の少年音楽隊を模して宝塚唱歌隊、後の宝塚歌劇団を創り上げ、沿線を阪急グループの聖地といわせるほどに発展させる。会社名を阪神急行電鉄(「阪急」の略称はこれ以後誕生)と改める。昭和二年(1927年)に小林は社長に就任する。

 昭和四(1929)年三月に「阪急百貨店」という直営百貨店を、新ターミナルビルの竣工に合わせて開店さる。小林は「素人だからこそ玄人では気づかない商機がわかる」「便利な場所なら、暖簾がなくとも乗客は集まるはず」などと言って事業を推し進め、世界恐慌のさなか多くの客を集めることに成功する。

 昭和七年(1932年)に東京宝塚劇場、昭和十二(1937年)に東宝映画の設立(1943年に両者は合併し、現在の「東宝」となった)といった興業・娯楽事業、昭和十三(1938年)に第一ホテルの開設と阪急東宝グループの規模は年々拡大の一途を辿った。

 小林は近衛文麿に接近し、昭和十五(1940)七月二十二日に第二次近衛文麿内閣の商工大臣となる。終戦後は幣原内閣で国務大臣を務めたが、第二次近衛内閣で商工大臣だったことで公職追放となる。

昭和二十六(1951年)に公職追放解除となり、東宝の社長に就任する。昭和三十二(1957)年一月二十五日に小林一三は薨去。八十四年の生涯を終えました。


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幣原喜重郎

概要

 幣原喜重郎(しではらきじゅうろう)明治五年壬申(みずのえさる9)八月十一日(1872年9月13日)生誕-昭和二十六(1951)三月十日薨去(七十八歳)は、外交官、政治家。位階勲等爵位は従一位勲一等男爵。

経歴

 明治五年壬申(みずのえさる9)八月十一日(1872年9月13日)に、堺県門真一番村(現・大阪府門真市)の豪農の家に誕生する。

 官立大阪中学校から、第三高等中学校を首席で卒業する。明治二十八年(1895年)に東京帝国大学法科大学。浜口雄幸とは、第三高等中学校、帝国大学法科大学時代を通じての同級生であり2人の成績は常に1、2位を争った。

 大学卒業後は農商務省に入省したが、明治二十九年(1896年)に外交官試験に合格し、外務省に転じる。外務省入省後、仁川、ロンドン、ベルギー、釜山の各領事館に在勤後、ワシントン、ロンドンの各大使館参事官、オランダ公使を経て大正四年(1915年)に外務次官となる。

 大正八(1919年)に駐米大使に就任する。第一次世界大戦後に国際軍縮会議、ワシントン会議において全権委員を務める。

 大正十三年(1924年)の加藤高明内閣で外務大臣に就任する。以降、若槻内閣(一時・二次)、浜口内閣と憲政会→立憲民政党内閣で4回外相を歴任する。1920年代の自由主義体制における国際協調路線は「幣原外交」とも称され、軍部の軍拡自主路線「田中外交」と対立する。

 戦後の昭和二十(1945)年十月九日に、同年十月五日の東久邇内閣の総辞職受け、吉田茂の後押しや昭和天皇じきじきの説得などもあり政界に返り咲き、内閣総理大臣に就任する。

 昭和二十一(1946)年四月十日の第22回衆議院議員総選挙で、日本自由党が第一党となり総辞職。第一次吉田内閣が発足する。幣原は無任所の国務大臣として入閣する。

 昭和二十二(1947年)の第23回衆議院議員総選挙で初当選する。日本進歩党総裁となり民主党の結成にも参加したが、幣原派の若手議員とともに民主自由党に参加して衆議院議長に就任する。内閣総理大臣経験者の衆議院議長は初めてである。

 昭和二十六(1951)三月十日に幣原喜重郎は、議長在任中に薨去。七十八年の生涯を終えました。


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樋口一葉

概要

 樋口一葉(ひぐちいちよう)明治五年壬申(みずのえさる9)三月二十五日(1872年5月2日)生誕-明治二十九(1896)年十一月二十三日逝去(二十四歳)は、小説家。

経歴

 明治五年壬申(みずのえさる9)三月二十五日(1872年5月2日)に東京府第二大区一小区内幸町の東京府庁構内(現在の東京都千代田区)の長屋(官舎)で東京府の下級役人の樋口則義と多喜(旧姓・古屋)の次女として誕生。幼児期から利発で言葉が出るのも早く物覚えがよかったという。

 明治十年(1877年)に公立本郷小学校に入学するが、幼少のためにほどなく退学し、半年後、吉川富吉が始めた私立吉川学校に入学する。一葉の日記『塵之中』によれば、幼少時代は子供の遊びに興味がなく、読書を好み草双紙(くさぞうし)を読む。曲亭馬琴の『南総里見八犬伝』を3日で読破したと伝えられている。

 明治十四年(1881年)に下谷区御徒町へ移ったため、十一月に上野元黒門町の私立青海学校に転校する。ここで初めて和歌を習う。明治十六(1883)年十二月に高等科第四級を首席で卒業するが、上級に進まずに退学する。これは母・多喜が、女性に学業は不要だと考えていたからだという。

 一方、父・則義は向学心やまない娘のため、知人の和田重雄の下で和歌を習わせた。明治十九年(1886年)に父の旧幕府時代の知人である医師の遠田澄庵(とおだちょうあん)の紹介で、中島歌子の歌塾「萩の舎」(はぎのや)に入門。ここでは和歌のほか加藤千蔭(かとうちかげ)の書や王朝文学の講読を学んだ。

 樋口家の戸主であった長男の泉太郎は、父・則義の知人の紹介で大蔵省出納局に勤務していたが、明治二十(1887)年十二月二十七日に肺結核で死去する。一葉は父を後見に相続戸主となる。

 警視庁を退職した則義は家屋敷を売った金を注ぎ込み荷車請負業組合設立の事業に参画するが、出資金を騙し取られて失敗し、負債を残して明治二十二(1889)年七月逝去する。一葉は17歳で樋口家を背負うことになった。一葉には渋谷三郎という許嫁がいたが、則義の死後に婚約は解消された。

 明治二十四年(1891年)に一葉は『かれ尾花』などいくつか習作を執筆する。同年4月15日に妹のくにの知り合いの野々宮菊子の紹介で、東京朝日新聞専属作家の半井桃水(なからいとうすい)を訪ね師事することになる。半井は一葉を東京朝日新聞主筆の小宮山桂介に紹介する。しかし一葉の小説は採用されず、新聞小説で原稿料を得ようとした一葉は落胆する。

 明治二十六(1893)年七月に吉原遊郭近くの下谷龍泉寺町(現在の台東区竜泉一丁目)で荒物と駄菓子を売る雑貨店を開く。この時の経験が、後に代表作となる小説『たけくらべ』の題材となっている。

 近所に同業者が開業したため、商売が苦しくなる。相場師になろうと占い師の久佐賀義孝に接近し、借金を申し込む。明治二十七(1894)年五月に店を引き払い、本郷区丸山福山町(現在の文京区西片一丁目)に転居する。萩の舎と交渉し、月2円の助教料が得られるようになる。

 明治二十八年(1895年)に半井桃水から博文館の大橋乙羽を紹介される。博文館は『太陽』『文藝倶楽部』などを発刊し、春陽堂並び出版界をリードする存在であった。大橋夫妻は一葉に活躍の場を与え経済的にも支援しており、大橋ときは一葉に入門して和歌を学んでいる。

 大橋乙羽は明治二十八(1895)年三月の一葉宛書簡で小説の寄稿を依頼した。『たけくらべ』を7回にわたり発表し、その合間に乙羽の依頼で『ゆく雲』を執筆したほか、大橋ときの依頼で『経つくえ』を書き改めた上で『文藝倶楽部』に再掲載させた。そのほか、『にごりえ』『十三夜』などを発表している。

 明治二十九(1896)年十一月二十三日に樋口一葉は肺結核のため逝去。二十四年の生涯を終えました。


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島崎藤村

概要

 島崎藤村(しまざきとうそん)明治五年壬申(みずのえさる9)二月十七日(1872年3月25日)生誕 -昭和十八(1943)年八月二十二日逝去(七十一歳)は、詩人、小説家。本名は島崎春樹(しまざきはるき)。

経歴

 明治五年壬申(みずのえさる9)二月十七日(1872年3月25日)に、筑摩県第八大区五小区馬籠村(長野県を経て現在の岐阜県中津川市馬籠)で父・正樹と母・縫の四男として誕生。

 明治十一年(1878年)に神坂学校に入り、父から『孝経』や『論語』を学ぶ。明治十四年(1881年)に上京して、泰明小学校に通い、卒業後は、寄宿していた吉村忠道の伯父・武居用拙(たけいようせつ)に『詩経』などを学ぶ。

三田学校(旧・慶應義塾分校、現・錦城学園高等学校)、共立学校(現・開成高校)など当時の進学予備校で学び、明治学院本科(現・明治学園大学)に入学する。共立学校時代の恩師の影響もありキリスト教の洗礼を受ける。学生時代は西洋文学を読み、松尾芭蕉や西行などの日本古典文学も読む。明治学院本科の第一期として卒業する。

 明治十九(1886)年十一月二十九日に父・島崎正樹が挫折をくり返した末に発狂し、家内の座敷牢の中で逝去した。正樹は『夜明け前』の主人公・青山半蔵のモデルで、藤村に与えた文学的影響は多大だった。

 明治学院本科卒業後、『女学雑誌』に訳文を寄稿するようになり、明治二十五(1892)年十月に明治女学校高等科英語科教師に就任する。教え子の佐藤輔子(佐藤昌介の妹)を愛し、教師として自責のためキリスト教を棄教し、辞職する。その後は関西に遊び、吉村家に戻る。

 明治二十九(1896)年九月八日に東北学院(宮城県仙台市)の教師に就任する。広瀬川を見下ろす崖上の支倉町の住居で詩作を始め、仙台駅近くの三浦屋に移って第一詩集『若菜集』を執筆して発表し文壇に登場する。

 『一葉舟』『夏草』『落梅集』の詩集で明治浪漫主義の開花の先端となり、土井晩翠(仙台県仙台出身)と共に「藤晩時代」あるいは「晩藤時代」と並び称された。

 明治三十二(1899年)に 小諸義塾(こもろぎじゅく)の英語教師として長野県北佐久郡小諸町に赴任し、以後6年過ごす(小諸時代)。北海道函館区(現・函館市)出身の秦冬子と結婚する。この頃から現実問題に対する関心が高まったため、散文へと創作法を転回する。小諸を中心とした千曲川一帯を描写した写生文「千曲川スケッチ」を書き、詩との決別を図った。『破戒』を執筆し始めたのもこの頃からである。

 大正二(1913)年五月末に神戸港からエルネスト・シモン号に乗船し、37日後にフランスマルセイユに到着し、有島生馬の紹介でパリのポール・ロワイヤル通りに面した下宿で生活を始める。大正五(1916)年七月に熱田丸で英国ロンドンを経て神戸港に到着して帰国する。大正六年(1917年)に慶応義塾大学文学部文学科講師に就任する。

 昭和四(1929)年四月から昭和十(1935)年十月まで 夜明け前が『中央公論』で連載される。この終了を期に著作を整理、編集し、『藤村文庫』にまとめられる。

 日本ペンクラブの設立に応じ、初代会長に就任する。昭和十五年(1940年)に帝国芸術院会員となる。昭和十六(1941)年一月八日に 当時の陸軍大臣の東条英機が示達した『先陣訓』の文案作成に参画した。昭和十八(1943)年八月二十二日に島崎藤村は逝去。七十一年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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