岡田啓介

概要

 岡田啓介(おかだけいすけ)慶応四年戊辰(つちのえたつ5)一月二十一日(1868年2月14日)生誕-昭和二十七(1952)年十月十七日薨去(八十四歳)は、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典勲等功級は正二位勲一等功三級。

経歴

 慶応四年戊辰(つちのえたつ5)一月二十一日(1868年2月14日)に越前国福井(現、福井県福井市)で福井藩士の父・岡田喜藤太と母・はるの長男として誕生。

 明治十七(1884)年九月に旧制福井中学(現、藤島高校)を卒業。明治十八(1885)年一月に上京し、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意する。遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校。明治二十二(1889)年四月二十日に海軍兵学校卒業(15期)。

 明治二十七(1894)年七月二十五日に勃発した日清戦争では防護巡洋艦「浪速」分隊長として従軍した。明治三十七(1904)年二月に勃発した日露戦争では装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦に従軍した。大正三(1914)年に勃発した第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに従軍した。

 大正十二(1923)年五月二十五日に海軍次官となる。大正十三(1924)年十二月一日に連合艦隊司令長官に就任。昭和二(1927)四月二十日に海軍大臣に就任する。昭和四(1929)七月二日に軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。昭和七(1932)五月二十六日に再度海軍大臣に就任する。

 昭和九(1934)七月八日に元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下により内閣総理大臣となる。昭和十一(1936)二月二十六日に二・二六事件が起き、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。

 二・二六事件で前任の斎藤実、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、強い自責の念に駆られていた。昭和十一(1936)年三月九日に岡田啓介内閣は総辞職した。

 その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)の威光もあって思うように行かなかった。

 昭和二十(1945)二月に天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。

 戦後、極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田と米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。昭和二十七(1952)年十月十七日に岡田啓介は薨去。八十四年の生涯を終えました。


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