牧野富太郎

概要

 牧野富太郎(まきのとみたろう)文久二年壬戌(みずのえいぬ59)四月二十四日(1862年5月22日)生誕 -昭和三十二(1957)年一月十八日薨去(九十四歳)は、植物学者。

経歴

 文久二年壬戌(みずのえいぬ59)四月二十四日(1862年5月22日)に土佐国佐川村(現、高知県高岡郡佐川町)の、近隣から「佐川の岸屋」と呼ばれた商家(雑貨業酒造業を営む裕福な家に誕生。幼少のころから植物に興味を示していたと伝わる。元は「成太郎」という名であったが、3歳で父を、5歳で母を、6歳で祖父を亡くした頃、「富太郎」に改名している。その後は祖母に育てられた。

 十歳より土居謙護の教える寺子屋へ通い、十一歳になると郷校である名教館(めいこうかん)に入り儒学者の伊藤蘭林に学んだ。当時同級生のほとんどは士族の子弟であり、その中に後の「港湾工学の父」広井勇らがいた。漢学だけではなく、福沢諭吉の『世界国尽』、川本幸民の『気海観瀾広義』などを通じ西洋流の地理・天文・物理を学んだ。

 酒屋は祖母と番頭に任せ、気ままな生活を送っていた。十五歳から、佐川小学校の「授業生」すなわち臨時教員としておよそ2年間教鞭をとった。佐川で勉強するだけでは物足リなくなった富太郎は、植物の採集、写生、観察などの研究を続けながら、欧米の植物学に触れ、当時の著名な学者の知己も得るようになる。牧野は自叙伝で「私の植物学の知識は永沼小一郎先生に負うところ極めて大である」と記している。

 富太郎は本格的な植物学を志し、明治十七年(1884年)、二十二歳の時に再び上京する。そこで東京帝国大学理学部植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして文献・資料などの使用を許可され研究に没頭する。そのとき、富太郎は東アジア植物研究の第一人者であったロシアのマキシモヴィッチに標本と図を送っている。マキシモヴィッチからは、図を絶賛する返事が届いており、富太郎は天性の描画力にも恵まれていた。

 二十六歳でかねてから構想していた『日本植物志図篇』の刊行を自費で始めた。工場に出向いて印刷技術を学び、絵は自分で描いた。これは当時の日本には存在しなかった、日本の植物誌であり、今で言う植物図鑑のはしりである。かねてより音信のあったロシアの植物学者マキシモヴィッチからも高く評価された。この時期、牧野は東京と郷里を往復しながら研究者の地位を確立していくが、研究費を湯水の如く使ったこともあり実家の経営も傾いていった。

 明治二十二年(1889年)に新種の植物を発見、『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて新種のヤマトグサに学名をつけた。明治二十三年(1890年)に東京の小岩で、分類の困難なヤナギ科植物の花の標本採集中に、柳の傍らの水路で偶然に見慣れない水草を採集する機会を得た。これは世界的に点々と隔離分布するムジナモの日本での新発見であり、そのことを自ら正式な学術論文で世界に報告したことで、世界的に名を知られるようになる。

 明治二十三年(1890年)に小澤壽衛子と結婚し、大学至近の根岸に一家を構えた。しかし同年、矢田部教授・松村任三教授らにより植物学教室の出入りを禁じられ、研究の道を断たれてしまった。『日本植物志図篇』の刊行も六巻で中断してしまった。失意の牧野はマキシモヴィッチを頼り、ロシアに渡って研究を続けようと考えるが、明治二十四年(1891年)にマキシモヴィッチが死去したことにより、実現はしなかった。

 明治二十六(1893年)に矢田部退任後の帝国大学理科大学の主任教授となった松村に呼び戻される形で助手となる。研究室の人々との軋轢もあり厚遇はされなかった。松村とは植物の命名などを巡って対立もしている。帝大から費用が捻出され、『大日本植物志』を刊行する。東京の大手書店・出版社であった丸善から刊行された。だがこれも松村の妨害により、四巻で中断してしまった。

 大正十五年(1926年)に津村順天堂(現、ツムラ)の協力を得て、個人で『植物研究雑誌』を創刊したが、3号で休刊した。以降は、津村の協力により編集委員制で現在も刊行されている。

 大正元年(1912年)牧野五十歳から昭和十四年(1938年)七十七歳まで東京帝国大学理科大学講師を務める。この間、学歴を持たず、権威を理解しない牧野に対し、学内から何度も圧力があったが、結局牧野は帝大に必要な人材とされ、助手時代から計47年間、大学に留任している。

 昭和二(1927)年四月に牧野が六十五歳の時、東京帝国大学から理学博士を授与される。論文の題は「日本植物考察(英文)」。同年に発見した新種の笹に翌年死去した妻の名をとって「スエコザサ」と名付けた。

 昭和十五年(1940年)に退官後、牧野が七十八歳の時、研究の集大成である「牧野日本植物図鑑」を刊行、この本は改訂を重ねながら現在も販売されている。昭和三十二(1957)年一月十八日に牧野富太郎は薨去。九十四年の生涯を終えました。

著作


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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