岡田啓介

概要

 岡田啓介(おかだけいすけ)慶応四年戊辰(つちのえたつ5)一月二十一日(1868年2月14日)生誕-昭和二十七(1952)年十月十七日薨去(八十四歳)は、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典勲等功級は正二位勲一等功三級。

経歴

 慶応四年戊辰(つちのえたつ5)一月二十一日(1868年2月14日)に越前国福井(現、福井県福井市)で福井藩士の父・岡田喜藤太と母・はるの長男として誕生。

 明治十七(1884)年九月に旧制福井中学(現、藤島高校)を卒業。明治十八(1885)年一月に上京し、学費が掛からないところとして師範学校系か陸海軍系学校の受験を決意する。遠縁の海軍士官に勧められ海軍兵学校に入校。明治二十二(1889)年四月二十日に海軍兵学校卒業(15期)。

 明治二十七(1894)年七月二十五日に勃発した日清戦争では防護巡洋艦「浪速」分隊長として従軍した。明治三十七(1904)年二月に勃発した日露戦争では装甲巡洋艦「春日」副長として日本海海戦に従軍した。大正三(1914)年に勃発した第一次世界大戦では第二水雷戦隊司令官として青島の戦いに従軍した。

 大正十二(1923)年五月二十五日に海軍次官となる。大正十三(1924)年十二月一日に連合艦隊司令長官に就任。昭和二(1927)四月二十日に海軍大臣に就任する。昭和四(1929)七月二日に軍事参議官としてロンドン海軍軍縮会議を迎え、「軍拡による米英との戦争は避け、国力の充実に努めるべし」という信念に基づき海軍部内の取りまとめに奔走。条約締結を実現した。昭和七(1932)五月二十六日に再度海軍大臣に就任する。

 昭和九(1934)七月八日に元老・西園寺公望の奏請により組閣の大命降下により内閣総理大臣となる。昭和十一(1936)二月二十六日に二・二六事件が起き、反乱軍は岡田の殺害を狙って首相官邸を襲撃した。首相官邸を占拠する反乱軍の監視の下、首相官邸への弔問が許可された際、弔問客の出入りに紛れて岡田を救出する作戦を立て、これが成功して岡田は首相官邸からの脱出に成功した。

 二・二六事件で前任の斎藤実、片腕と頼む蔵相・高橋是清、義弟の松尾を失い、岡田の受けた精神的ショックは大きかった。当時の状況から見て岡田に責任がまったく無い事は明白であったが、強い自責の念に駆られていた。昭和十一(1936)年三月九日に岡田啓介内閣は総辞職した。

 その後の岡田は、二・二六事件の痛手から立ち直り、自国の破滅を意味するアメリカとの戦争を避けるために当時、生存していた海軍軍人では最長老となる自分の立場を使い、海軍の後輩たちを動かそうとしたが、皇族軍人である伏見宮博恭王(ふしみのみやひろやすおう)の威光もあって思うように行かなかった。

 昭和二十(1945)二月に天皇は重臣をふたりずつ呼んで意見を聞いた。岡田は「終戦を考えねばならない段階」であると明言、「ただ、きっかけがむつかしい」とも述べた。後に昭和天皇は『昭和天皇独白録』の中で岡田と元内大臣・牧野伸顕の意見が最も穏当だったと回想している。

 戦後、極東国際軍事裁判で主席検察官を務めたジョセフ・キーナンは岡田と米内光政、若槻禮次郎、宇垣一成の4人を「戦前日本を代表する平和主義者」と呼び、彼らをホームパーティーに招待して歓待している。昭和二十七(1952)年十月十七日に岡田啓介は薨去。八十四年の生涯を終えました。


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鈴木貫太郎

概要

鈴木貫太郎(すずきかんたろう)慶応三年丁卯(ひのとう4)十二月十四日(1868年1月18日)生誕-昭和二十三(1948)年四月十七日薨去(八十歳)は、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典勲等功級爵位は従一位勲一等功三級男爵。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)十二月十四日(1868年1月18日)に和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)で関宿藩士で代官の父・鈴木由哲と母・きよの長男として誕生。明治四年(1871年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・千葉県野田市)に居を移す。

 明治十年(1877年)に群馬県前橋市に転居し、厨橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、明治十七年(1884年)に海軍兵学校に入学(14期)。明治二十八年(1895年)に日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)に参戦。その後、海門航海長として台湾平定に参加、比叡、金剛を経て、明治三十年(1897年)に海軍大学校入学、砲術を学んだ後、明治三十一年(1898年)に甲種学生として卒業する。

 明治三十七(1904)年二月に日露戦争が勃発。ドイツ駐在から帰国した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命された。第五駆逐隊司令を経て、明治三十八(1905)年一月に第四駆逐隊司令に転じた。日本海海戦では魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献した。

 昭和四(1929年)に昭和天皇と皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、予備役となり侍従長に就任した。宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。

 昭和十一(1936)年二月二十六日に二・二六事件が発生した。鈴木は四発を肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。出血多量で意識を喪失、心臓も停止したが、奇跡的に息を吹き返した。

昭和二十(1945)年四月七日に鈴木は内閣総理大臣に就任。非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である(令和二(2020)年八月現在)。

昭和二十三(1948)年四月十七日に鈴木貫太郎は薨去。八十年の生涯を終えました。


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平沼騏一郎

概要

平沼騏一郎(ひらぬまきいちろう)慶応三年丁卯(ひのとう4)九月二十八日(1867年10月25日)生誕-昭和二十七(1952)年八月二十二日薨去(八十四歳)は、司法官僚、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。学位は法学博士。号は機外。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)九月二十八日(1867年10月25日)に津山城下南新座(のちの岡山県津山市)で津山藩士の父・平沼晋の次男として誕生。

 明治四年(1872年)に上京して同郷の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の三叉学舎(さんさがくしゃ)にて英語・漢文・算術を学ぶ。明治十一(1878年)に東京大学予備門入学する。明治二十一年(1888年)に帝国大学法科大学(のちの東京帝国大学法科大学、戦後の東京大学法学部)を卒業する。

 明治四十(1907)年三月に鈴木喜三郎とともに司法制度の取調のため欧米各国に派遣される。明治四十一年(1908年)に刑法改正(現行刑法制定)を機に設置された犯罪者の前科を記録するための方法を検討する「犯罪人異同識別法取調会」の中心メンバーとなる。平沼の報告書に基づいて、指紋による前科登録が導入される事となる。

 明治四十三年(1910年)の幸徳事件(大逆事件)で検事として幸徳秋水らに死刑を求刑した。この裁判は「暗黒裁判」として今でも批判があるが、当時の左翼思想に対する危機感・恐怖感を考慮しなければならないという指摘もある。

 昭和十四(1939)年一月五日に平沼騏一郎内閣が発足。基本的に第一次近衛内閣の後継内閣としての性格がつよく、政策・人事の大部分を引き継ぐとともに、枢密院に転じた近衛文麿自身も班列(無任所大臣)として残留してこれに協力した。

 昭和十四(1939)年八月二十日にノモンハンで日本軍が記録的大敗を喫する国境紛争がおきた(ノモハン事件)。軍事同盟をドイツと討議していた平沼は、日本政府を無視した容共姿勢に転換したドイツのやり方に驚き呆れ同年八月二十八日に内閣総辞職した。

 昭和十五(1940)七月二十二日発足の第二次近衛内閣で平沼を無任所国務相として閣内に迎えた後、新体制推進派を閣外に追放、皇道派軍人の大物である柳川平助を司法相、平沼を内務相とした。昭和二十(1945)年四月に首相となった鈴木貫太郎の後をついで枢密院議長となった。

 太平洋戦争後、A級戦犯として東京裁判で修身禁錮を宣告された。昭和二十七(1952)年八月二十二日に平沼騏一郎は薨去。八十四年の生涯を終えました。


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正岡子規

概要

 正岡子規(まさおかしき)慶応三年丁卯(ひのとう4)九月十七日(1867年10月14日)生誕-明治三十五(1902)年九月十九日逝去(三十四歳)は、俳人、歌人、国語学研究家。名は常規(つねのり)。幼名は処之助(ところのすけ)で、のちに升(のぼる)と改めた。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)九月十七日(1867年10月14日)に伊予国温泉郡藤原新町(現・愛媛県松山市花園町)に松山藩士の父・正岡常尚と藩の儒者・大原観山の長女の母・八重の間に長男として誕生。

 幼くして父が没したために家督を相続し、大原家と叔父の加藤恒忠(拓川)の後見を受けた。外祖父・観山の私塾に通って漢書の素読を習い、翌年に末広小学校に入学し、のちに勝山学校に転校。少年時代は漢詩や戯作、軍談、書画などに親しみ友人と回覧雑誌を作り試作会を開いた。

 明治十三年(1880年)に旧制松山中学(現・松山東高等学校)に入学。明治十六年(1883年)に同校を中退して上京し、受験勉強のために共立学校(現・開成高等学校)に入学。翌年、旧藩主家の給費生となり、東大予備門(のち第一高等学校、現・東大教養学部)に入学し、常盤会寄宿舎に入る。明治二十三年(1890年)に帝国大学哲学科に進学したものの、のちに文学に興味を持ち、翌年には国文科に転科した。このころから「子規」と号して句作を行う。

 松山中で共立学校で同級だった秋山真之(海軍軍人)とは、松山在住時からの友人であり、東大予備門では夏目漱石・南方熊楠らと同窓だった。大学中退後、叔父・加藤拓川の紹介で明治二十五年(1892年)に新聞『日本』の記者となり、「獺祭書屋俳話(だっさいしょおくはいわ)」を連載し、俳句の革新運動を開始した。

 明治二十八(1895)年四月に日清戦争の近衛師団つきの従軍記者として遼東半島に渡ったものの、上陸した2日後に下関条約が調印されたため、同年五月に第二軍兵站部軍医部長の森林太郎(鴎外)らに挨拶をして帰国の途についた。その船中で喀血して重態に陥り、神戸病院に入院。七月に須磨保養院で療養したのち、松山に帰郷した。俳句分類や与謝蕪村などを研究し、俳句の世界に大きく貢献した。漱石の下宿に同宿して過ごし、俳句会などを開いた。

 病いに臥せつつ『病牀六尺』を書いたが、これは少しの感傷も暗い影もなく、死に臨んだ自身の肉体と精神を客観視し写生した優れた人生記録として、現在まで読まれている。明治三十五(1902)年九月十九日に正岡子規は逝去。三十四年の生涯を終えました。


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澤柳政太郎

概要

 澤柳政太郎(さわやなぎまさたろう)慶応元年乙丑(きのとうし2)四月二十三日(1865年5月17日)生誕 -昭和二(1924)年十二月二十四日逝去(五十九歳)は、文部官僚、教育者、貴族院勅撰議員。文部次官。東北帝国大学初代総長。京都帝国大学第五代総長。成城学園創立者。大正大学初代学長。

経歴

慶応元年乙丑(きのとうし2)四月二十三日(1865年5月17日)に信濃国松本城下(現、長野県松本市)で松本藩士の父・澤柳信任の長男として誕生。

 明治八年(1875年)に長野県開智学校下等小学校から東京師範学校附属下等小学校(現、筑波大附属小学校)へ転校。その後、東京府第一中学変則科(のちの府立第一中学、現・東京都立日比谷高校)に入学。同級には親友の狩野享吉、上田萬年、幸田露伴、尾崎紅葉らがいた。

 第一中学から新制大学予備門(のちの第一高等学校、現・東京大学教養学部)に繰り上げ入学をして、帝国大学(のちの東京帝国大学。現、東京大学)文科大学哲学科を卒業。明治二十三年(1890年)に文部省に入省。同年に文部書記官となる。

 明治二十六年(1893年)に大谷尋常中学校校長、明治二十八年(1895年)に群馬尋常中学校校長、、明治三十年(1897年)に第二高等学校校長、明治三十一(1898)年七月二十日に第一高等学校校長に就任する。同年十一月に大学の自治をめぐり澤柳事件を引き起こして第一高等学校校長を辞職した。

 明治三十一(1898)年十一月に普通学務局長として文部本省に戻り、明治三十九(1906)年二月まで在職し、初等・中等教育の整備に尽力する。同年に文部次官に就任する。明治四十二(1909)年十二月二十一日に貴族院議員に勅選される。

 明治四十四(1911)年三月二十四日に東北帝国大学初代総長に就任。大正二(1913)年五月九日に京都帝国大学五代総長に就任する。大正六(1917)年四月四日に成城学園の起源の成城小学校を創立した。成城学校は大正自由主義教育運動の震源地となる。大正十五年(1926年)に大正大学初代学長に就任する。

 昭和二(1924)年十二月二十四日に澤柳政太郎は逝去。五十九年の生涯を終えました。


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狩野亨吉

概要

 

狩野亨吉(かのうこうきち)慶応元年乙丑(きのとうし2)七月二十八日(1865年9月17日)生誕 -昭和十七(1942)年十二月二十二日逝去(七十七歳)は、教育者。第一高等学校校長。京都帝国大学初代学長。

経歴

 慶応元年乙丑(きのとうし2)七月二十八日(1865年9月17日)に 久保田藩領の秋田郡大館町(現秋田県大館市)の久保田藩大館城代家老・狩野良知の二男として誕生。

 明治元年(1868年)の戊辰戦争の秋田戦争で、父・狩野良知が勤める大館城が落城。狩野亨吉は姉に背負われて命からがら津軽藩に避難する。明治九年(1876年)に 母と共に上京。狩野家は一家で東京移住となった。亨吉は番町小学校に入学する。

 明治十一年(1878年)に番町小学校卒業、東京府第一中学(現在の東京都立日比谷高校)変則科に入学。のち、教育令改正のため、第一中学から新制大学予備門(のちの第一高等学校)に繰上げ入学する。

 明治十七年(1884年)に 大学予備門卒業。東京大学(後の帝国大学→東京帝国大学)理学部に入学する。明治二十一年(1888年)に帝国大学理科大学数学科を卒業。理学士授与。

 明治二十二年(1889年)に 帝国大学文科大学哲学科2年へ編入。在学中、英文科在学中の夏目漱石と親しくなる。明治二十四年(1891年)に 帝国大学文科大学哲学科卒業、文学士授与。帝国大学文科大学哲学科大学院に進学する。

 明治二十五年(1892年)に金沢の第四高等中学校教授に就任。明治二十七年(1894年)に 四高を退職する。明治二十九年(1896年)に 漱石の招きで熊本の第五高等学校に赴任する。明治三十一年(1898年)に五高を退職して第一高等学校校長に就任する。名校長の誉れが高く、一高の校風はこの時期に確立したといわれている。

 明治三十九年(1906年)に第一高等学校校長を退官。同年、京都帝国大学文科大学初代学長に就任する。明治四十年(1907年)に 京都帝大を健康の悪化などから辞職。退官して東京に戻る。

 京都帝国大学退官以後、学校関係の定職には就かなかった。大正十二年(1923年)に東京市小石川区大塚坂下町の長屋に姉の前小屋久子とともに「書画鑑定並びに著述業」の看板を掲げ、書画や刀剣の鑑定などで生計を立てた。浮世絵や春画蒐集家としても有名で、改造社社長の山本実彦からは「春画蒐集にかけては日本一」と折り紙をつけられた。

 狩野の学識を惜しむ中学以来の親友澤柳政太郎から東北帝国大学総長に推されたこともあるが固辞した。昭和三年(1928年)に『岩波講座 世界思潮』第三冊誌上に「安藤昌益」を発表し紹介する。

投資していた会社が倒産して負債を抱えたことから、書籍取次会社「大同洋行」を仲介に蔵書を大量売却した。10万点以上の貴重な蔵書を東北帝国大学に売却。この蔵書は、同大学図書館に狩野文庫として所蔵されている。

 昭和十七(1942)年十二月二十二日に狩野亨吉は逝去。七十七年の生涯を終えました。


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幸田露伴

概要

 幸田露伴(こうだろはん)慶応三年丁卯(ひのとう4)七月二十三日(1867年8月22日)生誕 -昭和二十二(1947)七月三十日逝去(七十九歳)は、小説家。本名は成行(しげゆき)。別号に蝸牛庵(かぎゅうあん)。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)七月二十三日(1867年8月22日)に武蔵国江戸下谷三枚橋横町(現・東京都台東区)に、幕臣の父・幸田利三(成延、しげのぶ)と母・猷(ゆう)の四男として誕生。

 御徒士町の相田氏の塾で素読を学んだ。明治八年(1875年)に東京師範学校附属小学校(現・筑波大学附属小学校)に入学。小学校卒業後の明治十一年(1878年)に東京府第一中学(現・都立日比谷高校)正則科に入学する。のちに家計の事情で中退し、東京英学校(現在の青山学院大学)へ進むが、これも途中退学する。

 給費生として逓信省官立電信修技学校(後の逓信官吏練習所)に入り、卒業後は官職である電信技師として北海道余市に赴任する。文学の道へ志す情熱が芽生え、明治二十年(1887年)に職を放棄し帰京する。免官の処分を受けたため父が始めた紙店愛々堂に勤める。

 明治二十六年(1893年)に下谷区の谷中天王寺をモデルとする『五重塔』などを発表し、作家としての地位を確立する。この頃に同世代の尾崎紅葉と「紅露時代」と呼ばれる黄金時代を迎える。尾崎紅葉・坪内逍遥・森鴎外と並んで、「紅露逍鴎時代」と呼ばれることもある。

 明治三十七年(1904年)にそれまで何度も中絶のあった「天うつ浪」の執筆が途絶えた。これ以後、主に史伝の執筆や古典の評釈に主眼を移した。史伝の作品としては「頼朝」「平将門」「蒲生氏郷」などがある。一方、井原西鶴や『南総里見八犬伝』を評釈し、芭蕉研究会の6人との共著『芭蕉俳句研究』を出した。

 明治四十年(1907年)に唐の伝奇小説『遊仙窟』が万葉集に深い影響を与えていることを論じた『遊仙窟』を発表。明治四十一年(1908年)に京都帝国大学文科大学初代学長の旧友・狩野亨吉に請われて、国文学講座の講師となる。何かの事情により夏季休暇で東京に戻ったまま、僅か一年足らず(京都へ移り住んだのは当年初めだった)で大学を辞職する。

 小説を書くだけではなく、道教研究でもパイオニアの一人であり、世界的にまだほとんど道教が研究されていない時期に幾つかの先駆的な論文を表している。昭和十二(1937)年四月二十八日に第1回文化勲章を授与され、帝国芸術院会員となる。昭和二十二(1947)七月三十日に幸田露伴は逝去。七十九年の生涯を終えました。


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南方熊楠

概要

 南方熊楠(みなかたくまぐす)慶応三年丁卯(ひのとう4)四月十五日(1867年5月18日)生誕- 昭和十六(1941)年十二月二十九日逝去(七十四歳)は、博物学者、生物学者、民俗学者。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)四月十五日(1867年5月18日)に 和歌山城下(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む父・南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)と母・すみの次男として誕生。

 父弥兵衛は熊楠の様子を見て、学問を奨励した。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通った。他にも漢学塾、心学塾で学ぶ。明治六年(1873年)に 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。明治十二年(1879年)に 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学。

 明治十六年(1883年)に 和歌山中学校を卒業し上京。神田の協立学校(現、開成高校)に入学。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、高橋是清から英語を習った。

 明治十七(1884)年九月に大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、本多光太郎などがいた。明治十八(1885)年十二月二十九日に大学予備門を中退。

 明治十九(1886)年十二月二十二日に横浜港より渡米。明治二十(1887)年一月八日にサンフランシスコに到着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。同年八月に ミシガン州農業大学(現・ミシガン州立大学)に入学。大学に行かず、自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察するという生活を送る。

 明治二十一年(1888年)に 寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。動植物の観察と読書にいそしむ。採集→整理記載→標本作りという生活をする。明治二十五(1892)年九月にイギリスへ渡る。

 明治二十六(1893)年10月5日号に 科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。同10月12日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。大英博物館に出入りするようになり、考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。

 明治二十六(1893)年十月三十日に自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍(どきほうりゅう)と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。同年十二月に土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。

明治三十三(1900)年十月十五日に14年ぶりに日本に帰国。和歌山市の円珠院に居住する。明治三十四年(1901年)に 孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。明治三十五年(1902年)に 熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。

 明治三十九(1906)年七月に 田辺の鬪雞神社(とうけいじんじゃ)宮司田村宗造の四女松枝と結婚する。明治四十四年(1911年)に 柳田國男との文通が始まる。大正二年(1913年)に 柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。

昭和四(1929)年六月一日に 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講する。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。

 昭和十六(1941)年十二月二十九日に南方熊楠は逝去。七十四年の生涯を終えました。


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一木喜徳郎

概要

 一木喜德郞(いっき / いつき / いちき きとくろう)慶応三年丁卯(ひのとう4)四月四日(1867年5月7日)生誕 -昭和十九(1944)年十二月十七日薨去(七十七歳)は、内務官僚、法学者(公法学)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位男爵。旧氏名は岡田丘平。号は梁舟。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)四月四日(1867年5月7日)に遠江国佐野郡倉真村(現在の静岡県掛川市)で岡田良一郎の二男として誕生。初名は岡田丘平。明治六年(1873年)に一木家の養子となる。

 冀北学舎(きほくがくしゃ:現、静岡県立掛川西高等学校)に学び、兄の岡田良平が東京府第一中学を経て大学予備門に在学しているのに触発され上京し成立學舎(せいりつがくしゃ)に入学。

 大学予備門には良平のアドバイスに従い最低級の三年級ではなく一級上の二年級から入る。その後、帝国大学文科大学にあった政治科に入学。明治二十年(1887年)に帝国大学法科大学(現・東京大学法学部)卒業。

 明治二十年(1887年)に内務省に入省。明治二十三年(1890年)に自費でドイツに留学して行政法を学ぶ。明治二十七年(1894年)に帰国して帝国大学法科大学教授となる。法科大学教授(憲法国法第一講座担当)とともに、明治三十三(1900年)十月まで内務省に勤め、大臣官房文書課、県治局員、参事官、参与官を歴任する。明治三十九年(1906年)に帝国学士院会員となる。法学者として天皇機関説を唱えるとともに、美濃部達吉らを育てた。

 明治三十三(1900年)年九月二十六日に勅撰議員として貴族院議員に就任。明治三十五(1902年)に法制局長官に就任する。大正三年(1914年)に第二次大隈内閣で文部大臣に就任する。大正四年(1915年)に内務大臣に就任する。

大正六(1917)年八月十四日に枢密顧問官に就任。それにともない貴族院議員を辞職した。大正十四年(1925年)に、宮内大臣に就任。昭和八(1933)年四月十五日に多年の功により男爵に叙される。

昭和九年(1934年)に枢密院議長に就任する。枢密院議長在任中、天皇機関説の提唱者として、弟子である美濃部達吉とともに非難される。一木との政治抗争にあった平沼騏一郎の政略であったとも云われている。昭和十一(1936)二月二十六日の二・二六事件で内大臣・斎藤実が殺害されると、後任が決定するまでの1日間のみ内大臣臨時代理を務めている。なお事件中は宮中において昭和天皇の相談相手を務め、事件終息に尽力した。

 昭和十九(1944)年十二月十七日に一木喜徳郎は薨去。七十七年の生涯を終えました。


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豊田佐吉

概要

 豊田佐吉(とよださきち)慶応三年丁卯(ひのとう4)二月十四日(1867年3月19日)生誕 -昭和五(1930)十月三十日逝去(六十三歳)は、発明家、実業家。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)二月十四日(1867年3月19日)に遠江国敷知郡山口村(現在の静岡県湖西市)で、父・伊吉、母・ゑいの長男として誕生。佐吉は幼い頃、寺子屋へ通った。その寺子屋が下等小学校として開設されると、佐吉は4年間通学して卒業した。

 佐吉は小学校を卒業した後、父について大工の修業を始めた。だが18歳のころ、「教育も金もない自分は、発明で社会に役立とう」と決心し、手近な手機織機の改良を始めた。明治二十三(1890)年十一月十一日に豊田式木製人力織機を発明、特許申請。明治二十四(1891)年五月十四日付けで特許を得る。

 明治二十九(1896)年十一月十五日に豊田式木鉄混製力織機の発明・完成。明治三十(1897)年二月二十五日に豊田式木鉄混製力織機の特許出願。明治三十一(1898)年八月一日に「豊田式木鉄混製力織機」の特許を取得。明治三十五年(1902年)に名古屋市東区武平町で豊田商会を設立。

 大正七(1918)一月に豊田紡織株式会社に改組。同年十月に単身で上海に渡航する。 大正九年(1920年)に三井物産の支援で上海に建坪約1万坪の紡織工場完成。大正十五(1926)十一月に株式会社豊田自動織機製作所を設立。昭和二(1927)十一月も陸軍特別大演習の折に、名古屋離宮で昭和天皇に単独拝謁。昭和五(1930)十月三十日に豊田佐吉は逝去。六十三年の生涯を終えました。


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