内村鑑三

概要

 内村鑑三(うちむらかんぞう)万延二年辛酉(かのととり58)二月十三日(1861年3月23日)生誕-昭和五(1930)年三月二十八日逝去(六十九歳)は、キリスト教思想社・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。

経歴

 万延二年辛酉(かのととり58)二月十三日(1861年3月23日)に高崎藩士・内村宜之とヤソの6男1女の長男として江戸小石川の武士長屋で誕生。三度自己を鑑みるという意味で父が「鑑三」と命名。

 明治四年(1871年)の廃藩置県により、父が県小参事を免ぜられ隠居した。鑑三は高崎で白井という人より手習いを受けた後、大河内輝声の創立した英学校に入り、小泉という教師より初めて英語を教えられ、英語に勤しむようになった。

 明治六年(1873年)に単身で上京して、有馬学校英語科に入学した。有馬学校で1年学んだ後、東京外国語学校の下等第四級に編入した。この時の同級生に、佐藤昌介がいた。この学校で教師のM・M・スコットより、グループメソッドという新しい英語教育を受けた。在学中、一年だけ病気のために休学し、一年遅れたことにより、新渡戸稲造、宮部金吾と同級になる。この三人は終生にわたって親交を結ぶことになった。その頃初めて英文講読で『旧約聖書』の聖書物語に触れた。

 明治十(1877)年四月に東京英語学校を修了すれば東京大学への進学が認められることになった。しかし、内村が入学して3年後の明治九年(1876年)に北海道開拓に携わる技術者を養成する目的で札幌農学校が創立された。経済上の理由もあり、札幌農学校への入学を決意する。

 札幌農学校第一期生は既にキリスト教に改宗していた。初めはキリスト教への改宗を迫る上級生に反抗していた内村も、新渡戸稲造と宮部金吾が署名したことがきっかけで、ついにほとんど強制的に立行社の岩崎行親と同じ日に「イエスを信ずる者の契約」なる文書に署名させられた。

 明治十一(1878)年六月二日に、アメリカ・メソジスト教会のM.C.ハリスから洗礼を受ける。洗礼を受けた若いキリスト者達は、日曜日には自分達で集会(「小さな教会」と内村は呼ぶ)を開き、幼いながらも真摯な気持ちで信仰と取り組んだ。そして、メソジスト教会から独立した自分達の教会を持つことを目標とするようになる。その学生の集団を札幌バンドという。

 札幌農学校で内村は水産学を専攻し明治十四(1881)年七月に札幌農学校を農学学士として首席で卒業した。卒業後、北海道開拓使民事局勧業課に勤め、水産を担当した。明治十五年(1882年)に開拓使が廃止されると、札幌県御用係になり、漁業調査と水産学の研究を行った。

 明治十七年(1884年)に私費でアメリカに渡り、同年十一月二十四日にサンフランシスコに到着する。拝金主義、人種差別の流布したキリスト教国の現実を知って幻滅する。ペンシルベニア州フィラデルフィア郊外のエルウィンの養護施設を尋ねた時に、医師である院長のI.N.カーリンと出会い、そこの知的障害児養護学校で看護人として勤務することになる。

 内村はペンシルバニア大学で医学と生物学を学び医者になる道を考えていた。カーリン夫人はユニテリアンでハーヴァード大学で学ぶことを勧めたが、米国滞在中の新島襄の勧めで、明治十八(1885)年九月に新島の母校でもあるマサチューセッツ州アーマストのアーマスト大学に選科生として3年に編入し、新島の恩師J・H・シーリーの下で伝道者になる道を選んだ。明治二十年(1887年)にアーマスト大学を卒業してBachelor of Science(理学士)の学位を受ける。

 明治二十一(1888)年六月六日に新潟県の北越学館・館主・加藤勝弥と約定書を交わし、正教頭ではなく、仮教頭で赴任した。就任一ヶ月後に、宣教師の運営方針に反発する見解を表明、宣教師たちも内村の下で働くことを拒否し辞職を通告して、学生を巻き込んでの学館紛争になった。内村は赴任後わずか4ヶ月で辞職した。

 明治二十三年(1890年)から、植村正久の一番町教会の長老・木村駿吉の推薦により、第一高等中学校(現・東京大学教養部、千葉大学医学部、薬学部)の嘱託教員となった。明治二十四(1891)年一月九日に、講堂で挙行された教育勅語奉読式において、教員と生徒は順番に教育勅語の前に進み出て、明治天皇の親筆の署名に対して、「奉拝」することが求められた。内村は舎監という教頭に次ぐ地位のため、「奉拝」は三番目だったが、最敬礼をせずに降壇した。このことが同僚・生徒などによって非難され社会問題化する(不敬事件)。

 明治三十年(1897年)に黒岩涙香(くろいわるいこう)が名古屋にいる内村を訪ねて朝報社への入社を懇請した。内村はためらいつつも黒岩の説得に答えて朝報社に入社した。明治三十一(1898)年五月二十二日に朝報社を退社した。同年六月十日より、山県悌三郎を社主として、『東京独立雑誌』を創刊し主筆となりジャーナリストとして独立した。

 明治三十三(1900)年七月五日に内村の問題により突如、『東京独立雑誌』は廃刊されることになり、廃刊後の同年十月より、日本で最初の聖書雑誌である『聖書之研究』を創刊した。聖書之研究は内村の死まで続けられたライフワークになった。

 明治四十二年(1909年)秋には、第一高等学校の校長・新渡戸稲造のもとで読書会グループを形成していた学生たちが、新渡戸の推薦状をもって、内村の弟子として入門した。弟子には後に東京大学総長となった南原繁らがいる。

 昭和五(1930)年三月二十八日に内村鑑三は逝去。六十九年の生涯を終えました。


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嘉納治五郎

概要

 嘉納治五郎(かのうじごろう)万延元年庚申(かのえさる57)十月二十八日(1860年12月10日)生誕 -昭和十三(1938)年五月四日薨去(七十七歳)は、柔道家、教育者。

経歴

 万延元年庚申(かのえさる57)十月二十八日(1860年12月10日)に摂津国御影村(のちの兵庫県神戸市東灘区御影町)で、父・嘉納治郎作(希芝)と母・定子の三男として誕生。

 明治七年(1874年)に育英義塾(後の育英高校)に入塾。その後、官立東京開成学校(後の東京大学)に進学。明治十年(1877年)に東京大学に入学した。東京大学時代には中村正直や三島中洲に漢文学を学び、渋沢栄一の経済学の講義を受け、またアーネスト・フェノロサの薫陶を受けその指導の下、政治学、理財学(経済学)、哲学、道義学(倫理学)、審美学を学ぶ。

 明治十一年(1878年)に漢学塾二松學舍(後の二松學舎大学)の塾生となる。しかし育英義塾・開成学校時代から自身の虚弱な体質から強力の者に負けていたことを悔しく思い非力な者でも強力なものに勝てるという柔術を学びたいと考えていたが、親の反対により許されなかった。天神真楊流(てんじんしんようりゅう)の福田八之助に念願の柔術入門を果たす。

 明治十五年(1882年)に下谷北稲荷町16(のちの台東区東上野5丁目)にある永昌寺の12畳の居間と7畳の書院を道場とし囲碁・将棋から段位制を取り入れ講道館を設立した。

明治十六(1883)年十月に起倒流皆伝。治五郎は柔術のみならず剣術や棒術、薙刀術などの他の古武道についても自らの柔道と同じように理論化することを企図し香取神道流や鹿島新当流の師範を招いて講道館の有段者を対象に「古武道研究会」を開き、剣術や棒術を学ばせた。

 嘉納は教育者としても尽力し、明治十五(1882)年一月から学習院教頭、明治二十六年(1893年)より通算25年間ほど東京高等師範学校(後の東京教育大を経たのちの筑波大学)の校長ならびに東京高等師範学校附属中学校(後の筑波大学附属中学校・高等学校)校長を務めた。

 明治四十二年(1909年)に東洋初のIOC(国際オリンピック委員会)委員となる。昭和十一年(1936年)のIOC総会で、昭和十五年(1940年)の東京オリンピック(後に日中戦争の激化などにより返上)招致に成功した。嘉納治五郎は昭和十三(1938)年五月四日にカイロ(エジプト)でのIOC総会からの帰国途上(横浜到着の2日前)に氷川丸の船内で肺炎により薨去。七十七年の生涯を終えました。


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宮部金吾

概要

 宮部金吾(みやべ んご)万延元年閏三月七日(1860年4月27日)生誕。 -昭和二十六(1951)年三月十六日薨去(九十歳)は、植物学者。札幌市名誉市民。札幌農学校第二期卒業生。(現在の北海道大学)。

経歴

 江戸の下谷で誕生。明治十年(1877年)に札幌農学校へ入学する。同期には新渡戸稲造と内村鑑三がおり、明治十一(1878)年六月に、新渡戸・内村などと共にメソジスト教会のハリス宣教師から洗礼を受けることとなる。

 札幌農学校卒業後は開拓使御用掛となる。明治十四(1881)年十一月に宮部は開拓使により東京大学へ派遣される。これは将来の農学校教師にするためで、南鷹次郎とともに駒場農学校に国内留学することとなった。

明治十六年(1883年)に札幌農学校助教に就任、植物園設置の計画立案を命じられる。この準備として、明治十七(1884)年六月から八月にかけて道東への植物採取を行っており、日高地方・北見地方・千島列島に至る調査となった。

 明治十七(1886)年七月に、植物学研究を目的としてハーバード大学への留学に旅立つ。明治二十二年(1889年)まで留学し、帰国後は札幌農学校教授となり、植物園主任に就任する。のちに植物園の初代園長を務める。

 昭和二年(1927年)に定年退官。同年五月に北海道帝国大学における最初の名誉教授となる。昭和五(1930)年一月に日本学士院会員に選定される。昭和十一年(1936年)に日本植物学会会長。昭和二十一(1946)年二月に文化勲章を受章。昭和二十四年(1949年)に札幌市栄誉市民の第一号となる。

 昭和二十六(1951)年三月十六日に宮部金吾は薨去。九十年の生涯を終えました。


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加藤高明

概要

 加藤高明(かとう たかあき)安政七年庚申(かのえさる57)一月三日(1860年1月25日)生誕-大正十五(1926)年一月二十八日薨去(六十六歳)は、外交官、政治家。位階勲等爵位は正二位大勲位伯爵。学位は法学士(東京大学・1881年)。幼名は総吉(そうきち)。

経歴

 安政七年庚申(かのえさる57)一月三日(1860年1月25日)に尾張藩の下級藩士である服部重文・久子夫妻の次男として誕生。明治五年(1872年)に祖母・加奈子の姉あい子の嫁ぎ先である加藤家に養子に入る。 明治七年(1874年)に叔母の夫・安井譲のすすめで高明と改名する。

 旧制愛知県立第一中学校(現・愛知県立旭丘高等学校)・名古屋洋学校を経て、明治十四(1881)年七月に東京大学法学部を首席で卒業し、法学士の学位を授与された。

 東京大学法学部を卒業後、三菱に入社しイギリスに渡る。帰国後は、三菱本社副支配人の地位につき、明治十九年(1886年)岩崎弥太郎・・喜勢夫妻の長女・春路と結婚する。

 明治二十年(1887年)より官界入りし、外務大臣・大隈重信の秘書官兼政務課長や駐英公使を歴任。明治三十三年(1900年)に第四次伊藤内閣の外務大臣に就任し、日英同盟の推進などに尽力した。

 大正二年(1913年)に桂太郎の主導による立憲同志会の結成に参画して、桂の死後に総理(立憲同志会は党首を総理と呼称していた)となった。同志会と中正会が合同して成立した憲政会の総裁として元老政治の打破・選挙権拡張をめざす。

 大正十三(1924)年六月十一日に憲政会が比較第一党となり加藤は内閣総理大臣となる。それは明治憲法下における選挙結果で選ばれた唯一の首相であった。加藤は初の東京帝国大学出身の首相である。選挙公約であった普通選挙法を成立させ、日ソ基本条約を締結しソ連と国交を樹立するなど、一定の成果をあげた。しかし一方では共産党対策から治安維持法を同時に成立させた。

 大正十五(1926)年一月二十八日に加藤高明は薨去。六十六年の生涯を終えました。


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袁世凱

概要

 袁世凱(えん・せいがい、ユエン・シーカイ、拼音(ピンイン): Yuán Shìkǎi、英語:Yuan Shikai)咸豊(かんぽう)九年八月二十日(1859年9月16日)生誕 -1916年6月6日逝去(五十六歳)は、中国清末民初期の軍人・政治家。初代中華民国大統領。北洋軍閥の総帥。大清帝内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大統領に就任。

経歴

 咸豊(かんぽう)九年八月二十日(1859年9月16日)に清国河南省淮陽区項城市で誕生。官僚や軍人を多く輩出した地元でも指折りの名族であった。袁世凱は、若い頃から立身出世の強い願望を抱いていたと多くの伝記は語っている。

 袁世凱は官僚を志して科挙に2度挑戦したが、どちらも1度目の試験に及第せず断念した。そこで軍人となることを志し、1881年に李鴻章(りこうしょう)幕下の淮軍(わいぐん)に身を投じ、朝鮮に渡った。

 袁世凱は朝鮮に政経両面ともに清の勢力を扶植して、対抗する日本勢力を排除しようと考え、特に経済的には一定の成果を挙げている。朝鮮は清に軍の派遣を要請し、日本も対抗して派兵した。これにより日清戦争が勃発する。

 しかし日清戦争は清の大敗に終わり、李鴻章は責任を問われ失脚、敗北の中で袁は本当の意味で近代化した軍隊の必要性を痛感した。清の軍隊は、軍備の資金は与えられても上官による横領が頻発し満足な装備を持たなかったり、装備は充実していても兵隊の規律がなっていなかった。

 袁世凱は日清戦争後間もない1895年10月に陸軍の洋式化の職務に就き、近代兵器を伴った兵の訓練、厳しい規律などを実施し、大きな成果を挙げた。この軍事力こそが袁世凱の力の基礎となり、その後の北洋軍の屋台骨となった。

 義和団の乱では袁世凱は自らの治下での反乱を逸早く鎮圧し、新建陸軍の強さを証明した。西太后を戴く朝廷は各省の指導者に義和団と結んで欧米列国軍を攻撃する命令を下すが、袁世凱は諸外国との盟約を結び、朝廷の命令には従わず領土と軍隊を保全した。結局義和団の乱は列国軍によって鎮圧され、西太后に動員された北京周辺の清軍はほとんど壊滅し、袁世凱の力は相対的に強まることとなった。

 日露戦争時、清は表面上は厳正中立であったが、袁世凱は諜報や馬賊隊編成などで日本に協力し、諜報将校を日本軍の特別任務班に派遣した。1903年11月中旬、袁世凱は青木宣純と天津で会見して、「情報は入り次第日本側に渡す。馬賊の使用に関しては、その蜂起を直隷省以外で行うのなら支障ないので、秘密裏に援助しよう」と返答した。袁世凱は選りぬきの将校らを満洲・蒙古の奥深く、露清国境付近まで潜入させた。

 この時期から袁世凱は政治家としても活躍した。彼の採った政策とは、国際などによって諸外国から金を借り、その資金によって陸軍の洋式化、教育機関の拡充、鉄道、銀行などのインフラ整備を行っていくというものであった。この方式は辛亥革命に彼が大総統になった後も変化がなく、日独露英仏の列強五カ国から借りた。

 1908年に光諸帝が崩御、その翌日に西太后も病没して宣統帝が即位。醇親王は戊戌変法で兄光緒帝を裏切った袁世凱を憎んでおり、1909年に袁世凱を失脚させた。さらに袁世凱を殺害する計画もあったが、内部情報を得てかろうじて北京を逃れた。全ての職を失った袁世凱は、安陽市近くに居を構え、失意の日々を過ごすこととなる。

 1911年10月に辛亥革命が勃発。袁世凱は部下の段祺瑞・馮国璋らを鎮圧に向かわせつつも自らは動かず、一方で革命派と極秘に連絡を交わした。そして自らの臨時大総統就任の言質を取るや革命派に寝返り。1912年2月12日、宣統帝の上諭が発布されて清国最後の皇帝が退位、清朝は滅亡した。袁世凱が新生中華民国の臨時大総統に就任した。

 1915年に袁世凱は帝政を復活させた。1916年に国号を「中華帝国」に改めた。こうした袁世凱の行動は、自らの野望を果たすためという面もあった一方で、四分五裂した中華を束ねるためには、強力な立憲君主制が必要との考えであったという見方もある。

 1916年6月6日袁世凱は五十六年の生涯を終えました。


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坪内逍遥

概要

 坪内逍遥(つぼうちしょうよう:旧字体:坪內逍遙)安政六年己未(つちのとひつじ56)五月二十二日(1859年6月22日)生誕 -昭和十(1935)年二月二十八日逝去(七十五歳)は、小説家、評論家、翻訳家、劇作家。

経歴

 安政六年己未(つちのとひつじ56)五月二十二日(1859年6月22日)に尾張藩領であった美濃国加茂郡太田宿(現・岐阜県美濃加茂市)で誕生。

 愛知外国語学校(現・愛知県立旭丘高等学校)を卒業。明治九年(1876年)に東京開成学校入学、東京大学予備門(後の第一高等学校)を経て、明治十六年(1883年)に東京大学文学部政治科を卒業し文学士となる。

 東京大学文学部政治科を卒業後、早稲田大学の前身である東京専門学校の講師となり、後に早稲田大学教授となる。明治十八年(1885年)に評論『小説神髄』を発表。小説を美術(芸術)として発展させるために、小説はまず人情を描くべきで、世態風俗の描写がこれに次ぐと論じた。この心理的写実主義によって日本の近代文学の誕生に大きく貢献した。

 明治二十二年(1889年)に徳富蘇峰の依頼で『国民之友』に「細君」を発表して後は小説執筆を断ち、明治二十三年(1890年)からシェイクスピアと近松門左衛門の本格的な研究に着手。明治二十四年(1891年)に雑誌『早稲田文学』を創刊する。

 明治四十二年(1909年)から『ハムレット』に始まり、昭和三年(1928年)『詩編其二』に至るまで独力でシェイクスピア全作品を翻訳刊行した。坪内逍遥は昭和十(1935)年二月二十八日に逝去。七十五年の生涯を終えました。


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秋山好古

概要

 秋山好古(あきやまよしふる)安政六年己未(つちのとひつじ56)一月七日(1859年2月9日)生誕-昭和五(1930)十一月四日薨去(七十一歳)は、陸軍軍人。最終階級及び位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級。通称は信三郎。

経歴

 安政六年己未(つちのとひつじ56)一月七日(1859年2月9日)に伊予松山城下(現・愛媛県松山市歩行町)に松山藩士の父・秋山久敬、母・貞の三男として誕生。

 好古は藩校・明教館(現在の愛媛県立松山東高等学校)に入学し、家計を支えつつ学ぶ。明治八年(1875年)に納金不要で月に8円の学費を支給され、官立大阪師範学校(現在の大阪教育大学)に入学。明治九(1876)年七月に官立大阪師範学校卒業。愛知県師範学校附属小学校(現在の愛知教育大学附属名古屋小学校)に勤務する。

 明治十(1877)年五月に教職を辞し、陸軍士官学校(旧3期)入校。明治十二(1879)年十二月二十三日に陸軍士官学校卒業。任陸軍騎兵少尉。東京鎮台に配属される。

 明治二十(1887)年七月二十五日にフランスへ渡り、騎兵戦術の習得に努める。明治二十四(1891)年十二月十三日に帰国。同年十二月二十六日に騎兵第1大隊中隊長に異動。明治二十七年(1894年)に日清戦争に従軍。

 明治三十一(1898)年十月一日に陸軍騎兵実施学校長に異動する。明治三十四(1901)年五月三十日に軍司令官・山根武亮少将の清国駐在軍参謀長に異動する。明治三十五(1902)年六月二十一日に陸軍少将に昇任する。

 明治三十七年(1904年)の日露戦争において、騎兵第一旅団長として出征し、第二軍に属して、騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦う。その後、「日本騎兵の父」とも呼ばれた。大正五(1916)年十一月十六日に陸軍大将に任ぜられる。大正十二(1923)年予備役に編入。

 大正十三(1924)四月に私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高等学校)校長就任。昭和五(1930)年四月九日に私立北予中学校校長を辞任する。昭和五(1930)十一月四日に秋山好古は薨去。七十一年の生涯を終えました。


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尾崎行雄

概要

 尾崎行雄(おざきゆきお)安政五年戊午(つちのえうま55)十一月二十日(1858年12月24日)生誕 -昭和二十九(1954)年十月六日薨去(九十五歳)は、政治家。当選回数・議員勤続年数・最高齢議員記録と複数の日本記録を有することから「憲政の神様」「議会政治の父」と呼ばれる。

経歴

 安政五年戊午(つちのえうま55)十一月二十日(1858年12月24日)に相模国津久井県又野村(現・神奈川県相模原市緑区又野)で弾正台(だんじょうだい)の役人、父・尾崎行正の子として誕生。幼名は彦太郎。

 行雄は、父・行正に従い明治元年(1868年)に東京府麹町の国学者・平田篤胤の子・鉄胤が開いていた平田塾にて学ぶ。その後、父が熊本転任が予定されていたため、東京遊学を許された。

 明治七年(1874年)に弟と共に上京し、当時「日本一の学校」との名声を得ていた慶應義塾童児局に入学するやいなや塾長の福沢諭吉に認められ、十二級の最下級から最上級生となる。

 明治八年(1875年)のクリスマスに聖公会のカナダ人宣教師で英語教師のA・C・ショーよりキリスト教の洗礼を受ける。その後、慶應義塾を退学し、明治九年(1876年)に工学寮に入学した。一年足らずで工学寮を退学。その後、慶應義塾に戻る。 明治十二年(1879年)に福澤諭吉の推薦で『新潟新聞』の主筆となる。

 明治十五年(1882年)に『報知新聞』の論説委員となり、立憲改進党の創立に参加する。尾崎は反欧化主義の急先鋒となり、後藤象二郎を担ぎ出し、大同団結運動を進めた。

 明治二十三年(1890年)の第一回衆議院総選挙で三重県選挙区より出馬して当選。以後63年間に及ぶ連続25回当選という記録をつくる(これは世界記録でもある)。明治三十六年(1903年)から明治四十五年(1912年)まで東京市長に就任。

 支持層の高齢化に加えて自身の健康も優れず、昭和二十八年(1953年)のバカヤロー解散による総選挙(第二十六回衆議院総選挙)で落選した。これを期に政界からの引退を表明した。尾崎行雄は昭和二十九(1954)年十月六日に薨去。九十五年の生涯を終えました。


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斎藤実

概要

 斎藤実(さいとうまこと:旧字体:齋藤 實)安政五年戊午(つちのえうま55)十月二十七日(1858年12月2日)生誕-昭和十一(1936)年二月二十六日薨去(七十七歳)は、海軍軍人、政治家。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功二級子爵。号は皋水(こうすい)。

経歴

 安政五年戊午(つちのえうま55)十月二十七日(1858年12月2日)に仙台藩水沢城下で、水沢伊達氏に仕える藩士・斎藤軍記(耕平)高庸の子として誕生。

 明治六(1873)十月二十七日に海軍兵学寮(後の海軍兵学校)に入学する。明治十二年(1879年)に卒業(第六期)。明治十七(1884)年九月十九日から明治二十一(1888)十月二十六日までアメリカ留学兼駐米公使館付駐在武官を務める。。明治二十四(1888年)に帰国する。

 帰国後、海軍参謀本部員、「秋津洲」、「厳島」艦長を歴任した。明治三十一(1898)年十一月十日に第一次大隈内閣の山本権兵衛海軍大臣の推挙により海軍次官に就任する。明治三十九年(1906年)に第一次西園寺内閣で海軍大臣を拝命し、第一次山本内閣まで8年間務めた。大正元年(1912年)に海軍大将に任官する。

 昭和六(1931)年九月に満州事変が勃発し、昭和七(1932)年五月十五日に犬養毅首相が海軍若手将校らにより暗殺された(五・一五事件)。斎藤は同年五月二十六日に第三十代内閣総理大臣に就任(同年七月六日まで外務大臣兼任)する。昭和九(1934)年七月八日に斎藤実内閣は総辞職した。

 昭和十一(1936)年二月二十六日に陸軍青年将校により斎藤実は殺害され薨去(二・二六事件)。七十七年の生涯を終えました。


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北条時敬

概要

 北条時敬(ほうじょうときゆき)安政五年戊午(つちのえうま55)三月二十三日(1858年5月6日)生誕 -昭和四(1929)年四月二十七日逝去(七十歳)は明治時代、大正時代の教育者。号は廓堂。

経歴

 安政五年戊午(つちのえうま55)三月二十三日(1858年5月6日)に加賀国金沢(現・石川県金沢市池田町)に金沢藩士の次男として誕生。幼名は粂次郎(くめじろう)。

 明治十八年(1885年)に東京帝国大学理学部数学科卒業 。石川県専門学校(後の第四高等学校)の教師となる。石川県専門学校で、当時学生だった西田幾多郎を教えた。明治二十一年(1888年)に東京帝国大学大学院に入学。

明治二十四年(1891年)に第一高等中学校教諭に就任。明治二十九年(1896年)に山口高等学校第二代校長(山口高等中学校以来第三代)に就任。明治三十一年(1898年)に金沢の第四高等学校第三代校長(第四高等中学校以来第五代)に就任。明治三十五年(1902年)に広島高等師範学校初代校長に就任。

 
 明治四十一年(1908年)にロンドンでの万国道徳教育会議に出席。イギリスのボーイスカウト運動を調査し日本に紹介する。大正二(1913)年五月九日に東北帝国大学総長に就任。大正六年(1917年)に学習院長に就任。大正九年(1920年)に宮中顧問官、貴族院議員に選ばれる。

 昭和四(1929)年四月二十七日に北条時敬は逝去。七十年の生涯を終えました。


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