伊沢修二

概要

 伊沢修二(いさわしゅうじ:旧字体:伊澤)嘉永四年辛亥(かのとい48)六月二十九日(1851年7月27日)生誕 -大正六(1917)年五月三日逝去(六十五歳)は明治時代の教育者、文部官僚。近代日本の音楽教育、吃音矯正の第一人者。号は楽石。

経歴

 嘉永四年辛亥(かのとい48)六月二十九日(1851年7月27日)に信濃国高遠城下(現、長野県伊那市高遠町)に高遠藩士の父・勝三郎、母・多計の子として誕生する。幼名は八弥。

 文久一年(1861年)から藩校進徳館で学び、慶応三年(1867年)に江戸へ出府する。ジョン万次郎に英語を学ぶ。明治二年(1869年)に築地に転居したアメリカ合衆国長老教会の宣教師カラゾルスから英語を学ぶ。京都に遊学して蘭学などを学ぶ。藩の貢進生として大学南校(のちの東京大学)に進学した。

 明治五年(1872年)に文部省へ出仕してのちに工部省へ移る。明治七年(1874年)に再び文部省にもどって愛知師範学校(現在の愛知教育大学)校長となる。同校付属幼稚園で日本の童謡をつかって遊戯唱歌を始めた。

 明治十二(1879)年三月に東京師範学校(現在の筑波大学)の校長となり音楽取調掛に任命され、メーソンを招く。来日したメーソンと協力して西洋音楽を日本へ移植して『小学唱歌集』を編纂する。文部卿・寺島宗則に「音楽取調ニ付見込書」を提出する。国家教育社を創設して忠君愛国主義の国家教育を主張する。教育勅語の普及に努めた。

 内閣制度が発足して明治十八(1885年)に森有礼が文部大臣に就任すると、教科書の編纂などに務める。明治三十年(1897年)に貴族院勅撰議員となる。晩年は高等教育会議員を務めたほか吃音矯正事業に務め、明治三十六年(1903年)に楽石社を創設する。

 大正六(1917)年五月三日に逝去。伊沢修二は六十五年の生涯を終えた。


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岩崎弥之助

概要

 岩崎弥之助(いわさき やのすけ)嘉永四年辛亥(かのとい48)一月八日(1851年2月8日)生誕 -明治四十一(1908)年三月二十五日逝去(五十七歳)は、実業家。三菱財閥の二代目総帥。男爵。三菱の創業者・岩崎弥太郎の弟。

経歴

 嘉永四年辛亥(かのとい48)一月八日(1851年2月8日)に岩崎弥次郎・美和夫妻の三男として土佐国安芸郡井ノ口村(現、高知県安芸市)に誕生。

 慶応三年(1867年)に土佐藩校の致道館に入学。この時、岩崎家は郷士の地位を失って地下浪人に没落しており、武士の教育を受けられる身分ではなかったが、兄の弥太郎が吉田東洋の知遇を受けて下級役人に出世していたため、入学することができた。

 明治二年(1869年)に大阪に出て、重野安繹(しげの やすつぐ)の私塾成達書院(せいたつしょいん)に入門し、この時に英語を学んだ。明治五年(1872年)にアメリカに留学。明治六(1873)年十一月に父の弥次郎が急逝し、兄の懇願もあって1年で留学を中断して帰国。三菱商会に入社する。

 明治十八(1885)年二月に弥太郎が死亡してからは二代目総帥として三菱の多角化に尽力する。明治二十六年(1893年)に三菱合資会社を設立。三菱の総帥の座を甥の久弥(弥太郎の長男)に譲り、監務(今の相談役)の役職に就く。

 帝国議会の創立時に天皇から勅選され貴族院議員となった。明治二十四(1891)年九月三十日に辞職した。明治二十九年(1896年)に川田小一郎の後任として第四代日本銀行総裁となるも、当時の大蔵大臣と折り合いが悪く、2年ほどで退職した。

 明治四十一(1908)年三月二十五日に岩崎弥之助は逝去。五十七年の生涯を終えました。


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星亨

概要

 星亨(ほしとおる)嘉永三年庚戌(かのえいぬ47)四月八日(1850年5月19日)生誕 -明治三十四(1901)年六月二十一日薨去(五十一歳)は明治時代の政治家。衆議院議員。強引な政治手法と金権体質から「オシトオル」「公盗」「醜魁」などと攻撃された。

経歴

 嘉永三年庚戌(かのえいぬ47)四月八日(1850年5月19日)に江戸築地の小田原町(現、東京都中央区築地)で父が左官屋の佃屋徳兵衛と母松子の子として誕生。父は金遣いが荒く倒産し行方不明となり、母松子が髪結いや下女奉公に出た。松子が浦賀の医師星泰順と結婚し、星姓を名乗った。

 当初は医学を志していた。しかし、英学に転向し、横浜の高島学校やヘボン塾(現、明治学院大学)の元で英学を学んだ。後に英語教師として身を立てる。明治維新後に、陸奥宗光の推挙で、県の二等訳官として月給100円で雇われる。

 明治二年に横浜税関長となる。しかし、英国のクイーンを「女王」と訳したことで、「女皇」と訳すべしとするイギリス公使パークスの抗議を受けた。これに対し、自説を主張し一歩も譲らず、いわゆる「女王事件」を引き起こしたため、引責辞任した。辞任後、法律研究のためイギリスに渡り、日本人初の法廷弁護士資格を取得した。帰国した後は、国内で司法省付属代言人(弁護士)の第1号となって活躍した。

 明治二十三年(1890年)に結成した立憲自由党に参加。明治二十五年(1892年)に自らの衆議院議長就任を公約として第二回衆議院総選挙に栃木第1区から出馬し、当選を果たした。そして、公約どおり二代目議長に選ばれる。

藩閥政治に対する批判者であったが、非藩閥の陸奥宗光からは可愛がられていたため、朝鮮政府の法務顧問や駐米公使を務める。第四次伊藤内閣において、逓信大臣などを務め、明治三十三年(1900年)発足の立憲政友会に参加したことで、伊藤博文からも信頼を受けるようになる。その逞しい政治手腕から「おしとおる」と渾名された位だった。

 東京市会議長であった明治三十四(1901年)年六月二日午後3時過ぎ、伊庭想太郎(心形刀流(しんぎょうとうりゅう:第十代宗家)により、東京市庁参事会議事室内で秘密会終了後、市長・助役・参事会議員たちと懇談中、刺殺された。星亨は五十一年の生涯を終えました。


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清浦奎吾

概要

 清浦奎吾(きようらけいご:旧字体: 淸浦奎吾)嘉永三年庚戌(かのえいぬ47)二月十四日(1850年3月27日)生誕- 昭和十七(1942)年十一月五日薨去(九十二歳)は、官僚、政治家。位階・勲等・爵位は正二位大勲位伯爵。幼名は普寂(ふじゃく)。旧姓は大久保(おおくぼ)。

経歴

 嘉永三年庚戌(かのえいぬ47)二月十四日(1850年3月27日)に、肥後国山鹿郡上御宇田村(現、熊本県山鹿市鹿本町御宇田)の明照寺(浄土真宗本願寺派)住職・大久保了思の五男に誕生。後に清浦の姓を名乗った。

 清浦は慶応元年(1865年)から、豊後国日田で、漢学者・広瀬淡窓が主催する咸宜園(かんぎえん)に学んだ。この時に日田県令を勤めていた松方正義、野村盛秀の知遇を得ている。明治五年(1872年)に上京し、埼玉県令となっていた野村宅を訪問した際に、埼玉県の教育に力を貸すよう求められた。明治六(1873)年十一月に埼玉県権少属となり、明治七年(1874年)に権中属、明治九年(1876年)に中属となった。

 明治九(1876)年八月十一日に司法省に転じ、補司法省九等出仕として出仕した。検事、太政官、内務省の小書記官、参事院議官補などを歴任する。治罪法(今日の刑事訴訟法)の制定に関与した。

 明治十七(1884)年二月二十五日に全国の警察を統括する内務省警保局長に就任。清浦の警保局長在任期間は7年間の長期に及んだ。明治二十四(1891)年四月四日に貴族院議員に勅任され、同年四月九日に警保局長を辞職した。

 明治二十九(1896)年九月十八日に第二次松方内閣の司法大臣に任ぜられた。明治三十九(1906)年四月十三日に枢密顧問官となり、貴族院議員を辞職した。

 大正十二年(1923年)に第二次山本内閣が総辞職すると、総選挙施行のため公平な内閣の出現を望む西園寺の推薦によって、組閣の大命は再び清浦の下に降下して大正十三(1924)年一月七日に組閣を行うこととなった。同年五月十五日に清浦内閣は総辞職した。

  昭和十七(1942)年十一月五日に清浦奎吾は薨去。九十二年の生涯を終えました。


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乃木希典

概要

 乃木希典(のぎまれすけ)嘉永二年己酉(つちのととり46)十一月十一日(1849年12月25日)生誕 – 大正元(1912)年九月十三日薨去(六十二歳)は、江戸時代末期の長府藩士。明治時代の陸軍軍人、教育者。階級は陸軍大将。栄典は贈正二位勲一等功一級伯爵。第十代学習院長。

 嘉永二年己酉(つちのととり46)十一月十一日(1849年12月25日)に長州藩の支藩である長府藩の藩士・乃木希次(馬廻、80石)と壽子との三男として、江戸長府藩上屋敷(現、東京都港区六本木)に誕生。

 安政六年四月(1859年5月)に乃木は漢学者の結城香崖に入門して漢籍および詩文を学び始めた。万延元年一月(1860年2月)以降は鏑流馬(やぶさめ)、弓術、西洋流砲術、槍術、剣術なども学び始めた。

 元治元年三月(1864年4月)乃木は学者となることを志して父・希次と対立した後、出奔して萩(現、山口県萩市)まで徒歩で赴き、兵学者の玉木文之進への弟子入りを試みた。玉木家は乃木家の親戚筋であった。玉木家に住むことを許され、文之進の農作業を手伝う傍ら、学問の手ほどきを受けた。

 元治元年九月(1864年10月)から、乃木は萩藩の藩校・明倫館の文学寮に通学することとなった。慶応元年(1865年)に第二次長州征討が開始されると、同年四月(同年5月)、萩から長府へ呼び戻された。乃木は長府藩報国隊に属し、山砲一門を有する部隊を率いて小倉口(現、山口県下関市)での戦闘(小倉戦争)に加わった。この際、奇兵隊の山縣有朋指揮下で戦い、小倉城一番乗りの武功を挙げた。

 慶応四年一月(1868年2月)に報国隊の漢学助教となるが、同年十一月(同年12月)には藩命により、伏見御親兵兵営に入営してフランス式訓練法を学んだ。明治二年七月(1869年8月)に京都河東御親兵練武掛となり、次いで、明治三年一月四日(1870年2月4日)に豊浦藩(旧長府藩)の陸軍練兵教官として、馬廻格100石を給された。

 明治四年十一月二十三日(1872年1月3日)に黒田清隆の推挙を受けて大日本帝国陸軍の少佐に任官し、東京鎮台第2分営に属した。明治四年十二月(1872年1月)に正七位に叙され、名を希典と改めた。

 明治二十五(1892)年十二月八日に10か月の休職を経て復職し、東京の歩兵第1旅団長となった。明治二十七(1894)年八月一日に日本が清に宣戦布告して日清戦争始まると、大山巌が率いる第2軍の下で出征した。

 明治三十七(1904)年二月八日に日露戦争が勃発。旅順要塞攻撃は明治三十八(1905)年一月一日に、正面が突破され、ロシア軍の予備兵力も無くなり、抵抗は不可能になったロシア旅順要塞司令官は、乃木に対し、降伏書を送付した。これを受けて一月二日に戦闘が停止され、旅順要塞は陥落した。

 明治四十(1907)年一月三十一日に軍事参議官の乃木は学習院長を兼任することとなった。大正元(1912)年九月十三日午後7時40分ころ、東京市赤坂区新坂町(現・東京都港区赤坂八丁目)の自邸居室において、乃木希典は殉死した。乃木希典は六十二年の生涯を終えました。


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西園寺公望

概要

 西園寺公望(さいおんじきんもち)嘉永二年己酉(つちのととり46)十月二十三日(1849年12月7日)生誕 -昭和十五(1940)年十一月二十四日薨去(九十歳)は、公家、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。雅号は陶庵、不読、竹軒。

経歴

 嘉永二年己酉(つちのととり46)十月二十三日(1849年12月7日)に、清華家(せいがけ)の一つ徳大寺家当主徳大寺公純と妻の末弘斐子の次男として、山城国京都(現在の京都府京都市)にて誕生。幼名は美丸(よしまる、美麿とも)。二歳の時に、同族で清華家の西園寺師季(さいおんじ もろすえ)の養子となった。

 西園寺は学問を伊藤猶斎や秋田秋雪に学ぶ一方で、京都第一の剣客とうたわれた戸田栄之進とその甥伏見集二から剣術を学ぶなどしている。また福沢諭吉の『西洋事情』を読むなどして世界の情勢にも関心を持つようになった。

 西園寺は若年でもあり、岩倉具視や三条実美のような幕末における倒幕活動に強く参画していなかった。鳥羽・伏見の戦いの際、私戦として納めようという意見に対して猛反発した。慶応三年十二月九日(1868年)に三職の一つ、参与の一人となった。

 明治元年十月二十八日(1868年)に新潟府知事に就任した。明治二年(1869年)に東京に戻った西園寺は木戸孝允らのすすめで開成学校に入り、フランス語の勉強を始めた。大村益次郎の薦めで法制についても勉強するようになった。東京では前原一誠と同じ宿で長く一緒に過ごし、次第に武士の社会に馴染むと公家風の名を嫌って「望一郎」名乗ったこともあった。若き日の西園寺が大小を差した侍姿で颯爽と立つ勇ましい写真も残されている。

 明治三年十二月(1871年)に官費でフランスに留学のために出国した。明治四年二月(1871年)にパリに到着した。当時のフランスは、普仏戦争敗北と第二帝政の崩壊のまっただ中であった。明治十三年十月二十一日(1880年)に留学を終え、10年ぶりに帰国した。

 明治十四(1881)年十一月二十四日に西園寺は参事院議官補に任じられ、官界に入った。参事院は伊藤博文が国会開設の準備のために設置した機関であった。明治二十七年(1894年)に病気で辞任した井上毅の後任の文部大臣として、第二次伊藤内閣に初入閣を果たした。

 明治三十三年(1900年)に伊藤による立憲政友会旗揚げに創立委員として参画し、最高幹部である総務委員の一人となった。明治三十九(1906)年一月七日に第一次桂内閣から禅譲される形で第一次西園寺内閣が成立した。

 明治四十四(1911)年八月三十日に成立した第二次西園寺内閣は、内閣の構成をほとんど政友会が決めるなど、独自性が強いものになったが、それは西園寺よりも原の影響が大きいものであった。

 昭和十五(1940)年十一月二十四日に西園寺公望は薨去。九十年の生涯を終えました。


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益田孝

概要

 益田孝(ますだたかし)嘉永元年戊申(つちのえさる45)十月十七日(1848年11月12日)生誕 -昭和十三(1938)年十二月二十八日逝去(九十歳)は、江戸時代末期の旗本。明治時代の実業家。日本経済新聞の前身である中外物価新報を創刊した。茶人としても高名で鈍翁と号し、「千利休以来の大茶人」と称された。男爵。三井合名理事長。

経歴

 嘉永元年戊申(つちのえさる45)十月十七日(1848年11月12日)に佐渡国雑太郡相川町(現、新潟県佐渡市相川)で誕生。幼名は徳之進。父の鷹之助は箱館奉行を務めた後、江戸に赴任。孝も江戸に出て、ヘボン塾(現、明治学院大学)に学び、麻布善福寺に置かれていたアメリカ公使館に勤務、ハリスから英語を学ぶ。

 文久三年(1863年)にフランスに派遣された父とともに遣欧使節団(第二回遣欧使節、または横浜鎖港談判使節団)に参加し、ヨーロッパを訪れている。ヨーロッパから帰国後は幕府陸軍に入隊。騎兵畑を歩み、慶応三(1867)年六月十五日に旗本となり、慶応四(1868)年一月に騎兵頭並に昇進した。

 明治維新後の明治二年(1869年)から横浜の貿易商館ウォルシュ・ホール商会に事務員として1年間勤務して多くの商取引を見聞した。大蔵大輔(大蔵次官)の井上馨の勧めで明治五年(1872年)に大蔵省に入省し、造幣権頭となり大阪へ赴任し、旧幕時代の通貨を新貨幣にきりかえる任にあたった。

 明治六年(1873年)に井上が下野すると益田も続いて職を辞した。明治七年(1874年)に英語に堪能だったこともあって井上が設立した先収会社の東京本店頭取(副社長)に就任。明治九年(1876年)に中外物価新報を創刊。同年、先収会社を改組して三井物産設立と共に同社の初代総轄(社長)に就任する。三井物産では綿糸、綿布、生糸、石炭、米など様々な物品を取扱い、明治後期には取扱高が日本の貿易総額の2割ほどをも占める大商社に育て上げた。

 昭和十三(1938)年十二月二十八日に益田孝は逝去。九十年の生涯を終えました。


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浅野総一郎

概要

 浅野総一郎(淺野總一郎 あさの そういちろう)嘉永元年戊申(つちのえさる45)三月十日(1848年4月13日)生誕 -昭和五(1930)年十一月九日逝去(八十二歳)は、実業家。一代で浅野財閥を築いた。

 嘉永元年戊申(つちのえさる45)三月十日(1848年4月13日)に越中国射水郡藪田村(現、富山県氷見市)で医師の淺野泰順の長男として誕生。幼名は泰治郎。姉夫婦が家督を継ぐことになったため、嘉永六年(1853年)に氷見郡氷見町の医師・宮崎南禎の養子となるが、理由あって離縁し、文久元年(1861年)に養家より戻った。

 周囲の反対を押し切り、家業の医師ではなく商人を志す。慶応二年(1866年)に射水郡大野村の豪農・鎌仲惣右衛門の長女と婚姻し婿養子となる。越中の海産物等を運搬し北陸への販売を始めたが、船の遭難により巨額の資本を失う。これを契機に商売を諦めるように婚家や身内から説得されるが、商人となることを諦めきれず離縁となる。

 明治四年(1871年)の春に上京。当初は、東京本郷の旅館を宿とした。この宿の主のアドバイスから、夏場は御茶の水の冷たい名水に砂糖を入れた「水売り」、冬は本郷の赤門前で暖かいおでん屋をすると予想以上に繁盛し貯金ができた。浅野はその資金を携え、一旗上げるために当時創業期であった横浜に向かう。横浜で勤めた味噌屋で贈答用の包みとして使われていた竹の皮に興味を持ち、贈答用の竹の皮の販売を手掛ける竹の皮屋となる。これを販売していたところ、医者であった父の旧友と横浜で偶然に再会、その勧めを商機と見た浅野は薪炭商(しんたんしょう)に転向した。

 明治六年(1873年)に石炭や薪炭を売り込む商いによりガス会社とつながりができ、石炭からガスを製造した後の産業廃棄物の処分に困っていた横浜ガス局から、コークスやコールタールを安値で買い取り、セメント製造の燃料として、ただ同然のコークスを官営深川ゼメント製造所に納め、巨万の利益を得た。数年後コレラが流行した時に、消毒剤の材料として、内務省衛生局にコールタールを大量に売却して儲けた。

 明治十七年(1884年)に官営深川セメント製造所を好条件で払い下げられ、これが浅野セメント(後の日本セメント、現在の太平洋セメント)の基礎となる。この払い下げには取引で浅野の仕事ぶりを見込んだ渋沢栄一の後ろ盾があった。浅野は渋沢の助言をもとに、水力発電所や鉄道建設など急増する需要を受けて、積極的な経営戦略を展開する。

 浅野は港湾を近代化し、工場を一体化した日本初の臨海工業地帯を東京市から横浜市にかけての海岸部に政府の支援を受けずに独力で建設することを計画する。この大規模計画に神奈川県は当初、二の足を踏むが、浅野の計画の価値を認めた安田善次郎が支援に乗り出したことで動き出す。安田は渋沢同様に浅野の理解者であった。また安田と浅野は同じ富山県の出身でもあり、浅野総一郎と安田善次郎の個人的な信頼・友情に基づいて、浅野財閥が急速に発展した。

 昭和五(1930)年十一月九日に浅野総一郎は逝去。八十二年の生涯を終えました。


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東郷平八郎

概要

 東郷平八郎(とうごうへいはちろう)弘化四年丁未(ひのとひつじ44)十二月二十二日(1848年1月27日)生誕 -昭和九(1934)年五月三十日薨去(八十六歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の海軍軍人。階級は元帥海軍大将。位階勲位功級爵位は従一位大勲位功一級侯爵。

 弘化四年丁未(ひのとひつじ44)十二月二十二日(1848年1月27日)に、薩摩国鹿児島城下の加治屋町二本松馬場(現、鹿児島県鹿児島市)に、薩摩藩士・東郷実友と堀与三左衛門の三女・益子の四男として誕生。幼名は仲五郎。

 十四歳の時、元服して平八郎実良と名乗る。文久三年(1862年)に薩摩藩士として薩英戦争に従軍し初陣、慶応三(1867)年六月に分家して一家を興す。戊辰戦争では春日丸に乗り組み、新潟・箱館まで転戦して海戦で戦う。

 明治四年(1871年)から明治十一年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに官費留学する。留学の間に国際法を学んだ。明治二十七年(1894年)の日清戦争では緒戦より「浪速」艦長を務め活躍する。威海衛海戦後に少将に進級し同時に常備艦隊司令官となるが、戦時編成のため実際には連合艦隊第一遊撃隊司令官として澎湖島攻略戦に参加。

 日露開戦前の緊迫時期の明治三十六(1903)年十月に海軍大臣・山本権兵衛に呼び戻され、常備艦隊司令長官に任命される。同年十二月に連合艦隊が編成されることになると、第一艦隊兼連合艦隊司令長官に任命された。

 明治三十七(1904)年二月十日からの日露戦争では、旗艦「三笠」に座乗してロシア海軍太平洋艦隊(後に第一太平洋艦隊へ改称)の基地である旅順港の攻撃をはじめとする海軍の作戦全般を指揮する。同年六月六日に大将に昇進している。

 明治三十八(1905)年五月二十七日に、ヨーロッパから極東へ向けて回航してきたロシアのバルチック艦隊(ロシア第二・第三太平洋艦隊)を迎撃する。この日本海海戦でZ旗を掲げて全軍の士気を鼓舞し、日本海海戦に勝利を納めた。

 昭和九(1934)年五月三十日に東郷平八郎は薨去。八十六年の生涯を終えました。


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桂太郎

概要

 桂 太郎(かつら たろう)弘化四年丁未(ひのとひつじ44)十一月二十八日(1848年1月4日)生誕-大正二(1913)年十月十日薨去(六十五歳)は、江戸時代末期の長州藩士。明治時代の陸軍軍人、政治家。内閣総理大臣。階級は陸軍大将。位階勲等功級爵位は従一位大勲位功三級公爵。

経歴

 弘化四年丁未(ひのとひつじ44)十一月二十八日(1848年1月4日)に長門国阿武郡萩町、萩城下平安古(現、山口県萩市平安古)長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(125石)の嫡男として誕生。

 幼少時に阿武郡川島村(現・萩市川島)に移り、万延元年(1860年)に藩の西洋式操練に参加して鼓隊に編入される。元治元年(1864年)に禁門の変などにより藩が存亡の窮地に立たされる中、七月に世子毛利元徳の小姓役となる。第二次長州征伐では志願して石州方面で戦う。

 戊辰戦争では奥羽鎮撫副総督澤為量(さわ ためかず)の参謀添役や第二大隊司令として奥羽各地を転戦し、敵情視察や偵察任務、連絡役など後方支援に従事した。

 明治三(1870)年八月、桂は帝政ドイツに留学した。但し、賞典禄を元手にした私費留学であったことから現地での生活はかなり苦しく、ヨーロッパ使節団のためドイツへ来訪した木戸孝允を訪ね、官費留学への待遇切り替えを依頼している。

 日進戦争では名古屋の大日本帝国陸軍第三師団長として出征した。台湾総督を経て、第三次伊藤内閣で陸軍大臣になり、続く第一次大隈内閣に次ぎ、第二次山縣内閣でも陸相とともに山縣の参謀格を務め、明治三十三年(1900年)に発生した義和団の乱では中国に軍を出動させた。

 明治天皇は桂に組閣を命じ、明治三十四(1901)年六月に第一次桂内閣が発足した。世人は「小山縣内閣」「第二流内閣」と揶揄したが、桂は批判に対して勅命が降下したのだから仕方が無い、というスタンスをとり続けた。 桂は首相就任と同時に予備役となるはずであったが、天皇の意向により現役であり続けた。桂は九月に小村寿太郎を外相に起用した。

 その後、桂は西園寺公望と交互に組閣して政権を担い、桂園時代(けいえんじだい)と呼ばれ、明治四十一(1908)年七月から同四十四年(1911)年八月に第二次内閣、大正元(1912)年十二月から同二(1913)年二月に第三次内閣を組閣し自身の最後の任期で政権を担う。

 大正二(1913)年十月十日に桂太郎は薨去。六十五年の生涯を終えました。


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三国志演義 Ⅰ

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