樺山資紀

概要

 樺山資紀(かばやますけのり)天保八年丁酉(ひのととり34)十一月十二日(1937年12月9日)生誕 -大正十一(1922)年二月八日薨去(八十四歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の陸軍及び海軍軍人。政治家。階級は海軍大将。栄典は従一位大勲位功二級伯爵。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)十一月十二日(1937年12月9日)に薩摩国鹿児島城下加治屋町二本松馬場に薩摩藩士・橋口与三次兼器の三男に誕生。覚之進と名づけられ育てられる。のちに同藩士、樺山四郎左衛門の養子となる。

 薩英戦争・戊辰戦争に従軍の後、明治四年(1871年)に陸軍少佐に任ぜられ、明治五年(1872年)より南清に出張、台湾出兵に従軍。西南戦争では熊本城を死守する。その後警視総監兼陸軍少将に昇進するが、海軍へ転じ、明治十六年(1883年)に海軍大輔、明治十九年(1886年)に海軍次官となる。

 国政では明治二十三年(1890年)から同二十五年(1892年)にかけての第一次山縣内閣と第一次松方内閣で海軍大臣をつとめる。日清戦争直前に海軍軍令部長に就任する。明治二十八年(1895年)に海軍大将に昇進する。同年五月十日、初代台湾総督に就任、台北に総督府を開庁する。

 大正十一(1922)年二月八日に樺山資紀は八十四年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
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三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
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三国志演義 Ⅰ

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徳川慶喜

概要

徳川 慶喜(とくがわ よしのぶ)(旧字体:德川慶喜)天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十九日(1837年10月28日)生誕-大正二(1913)年十一月二十二日薨去(七十六歳)は、江戸幕府第十五代征夷大将軍 在職:慶応二年十二月五日(1867年1月10日)‐ 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)。江戸幕府最後の将軍かつ日本史上最後の征夷大将軍。

 天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十九日(1837年10月28日)に、江戸・小石川の水戸藩邸で第九代藩主・徳川斉昭の七男として誕生する。母は有栖川宮織仁親王(ありすがわのみやおりひとしんのう)王女・吉子女王。幼名は松平七郎麻呂(まつだいら しちろうまろ)。

 天保九年四月(1828年5月)(生後七か月)に江戸から水戸に移る。藩校・弘道館で会沢正志斎らに学問・武術を教授される。七郎麻呂の英邁さは当時から注目されていた。斉昭は他家の養子にせず長男・慶篤の控えとして暫時手許に置いておこうと考えていた。この間、七郎麻呂は松平昭致(まつだいらあきむね)と名乗る。

 弘化四年九月一日(1847年10月9日)に昭致は一橋家を相続する。同年十二月一日(1848年1月6日)に第十二代将軍・徳川家慶から偏諱を授かり徳川慶喜と名乗る。嘉永六年六月二十二日(1853年7月27日)に将軍・家慶が病死し、その跡を継いだ第十三代将軍・徳川家定は病弱で男子を儲ける見込みがなく将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)が浮上する。慶喜を推す斉昭や阿部正弘、薩摩藩藩主・島津斉彬ら一橋派と、紀州藩主・徳川慶福を推す彦根藩主・井伊直弼や大奥の南紀派が対立した。

 阿部正弘・島津斉彬が相次いで死去すると一橋派は勢いを失い、安政五年(1858年)に大老となった井伊直弼が裁定して将軍継嗣は慶福(家茂)と決した。慶喜は翌、安政六年(1859年)に隠居謹慎処分が下る。

 安政七年三月三日(1860年3月24日)の桜田門外の変における井伊直弼の暗殺を受け、万延元年九月四日(1860年10月17日)に慶喜は謹慎を解除される。文久二年(1862年)に島津久光と勅使・大原重徳が薩摩藩兵を伴って江戸に入り、勅命を楯に幕府の首脳人事へ横車を押し介入する。文久二年七月六日(1862年8月1日)に慶喜を将軍後見職に、松平春嶽を政事総裁職に任命させることに成功した。

 慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に第十四代将軍の徳川家茂が薨去する。慶喜は慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に第十五代将軍に就任した。慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に慶喜は明治天皇に政権返上を奏上し、翌日勅許される(大政奉還)。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止される。慶喜を朝敵とする追討令が正式に下り、新政府軍が東征を開始する。慶喜は小栗忠順を初めとする抗戦派を抑えて朝廷への恭順を主張する。自らは上野の寛永寺大慈院において謹慎した。徳川宗家の家督は養子である田安亀之助(後の徳川家達)に譲る。

 明治二(1869)年九月に戊辰戦争の終結を受けて謹慎を解除され、引き続き駿府改め静岡に居住した。慶喜は政治的野心は全く持たず、潤沢な隠居手当を元手に写真・狩猟・投網・囲碁・謡曲など趣味に没頭する生活を送り「ケイキ様」と呼ばれて静岡の人々から親しまれた。

 明治三十年(1897)年十一月に東京の巣鴨に移り住む。翌年には有栖川宮 威仁親王(ありすがわのみや たけひとしんのう)の仲介により皇居となった旧江戸城に参内して明治天皇に拝謁した。

 大正二(1913)年十一月二十二日に徳川慶喜は七十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

徳川慶喜 (人物叢書)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
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三国志演義 第六巻
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三国志演義 Ⅰ

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大倉 喜八郎

概要

 大倉 喜八郎(おおくらきはちろう)天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十四日(1837年10月23日)生誕 – 昭和三(1928)年四月二十二日薨去(九十歳)は、明治・大正期に貿易、建設、化学、製鉄、繊維、食品などの企業を数多く興した日本の実業家。中堅財閥である大倉財閥の設立者。渋沢栄一らと共に、鹿鳴館、帝国ホテル、帝国劇場などを設立。東京経済大学の前身である大倉商業学校の創設者でもある。従三位男爵。号は鶴彦。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)九月二十四日(1837年10月23日)に越後国蒲原郡新発田町(現、新潟県新発田市)の下町に父・千之助、母・千勢子の三男として誕生。幼名は鶴吉。二十三歳の時に尊敬していた祖父の通称・喜八郎から名を取り、喜八郎と改名。

 大倉家は喜八郎の高祖父の代より新発田の聖籠山麓の別業村で農業を営み、曽祖父・宇一郎の代で薬種・砂糖・錦・塩などで大きな利益を得、質店を営み始める。新発田藩での大名主で苗字を名乗れた高い身分であった。

 喜八郎は家業を手伝う傍ら、八歳で四書五経を学び、十二歳の時から丹羽伯弘の私塾積善堂で漢籍・習字などを学ぶ。この時に陽明学の「知行合一」という行動主義的な規範の影響を受けたといわれる。

嘉永四年(1851年)に丹羽塾同学の白勢三之助の父の行動により、酒屋の営業差止めに追い込まれた事に大変憤慨し、喜八郎は江戸に出ることを決意。同年中に江戸日本橋長谷川町(現、日本橋堀留町)の狂歌の師・檜園梅明(ひのきえん・うめあき)を訪ね、檜垣(ひがき)の社中に入る。

 江戸到着後、狂歌仲間の和風亭国吉のもとで塩物商いの手伝いを経たのち、中川鰹節店で丁稚見習いとして奉公した。喜八郎は丁稚時代に安田善次郎と親交を持つようになる。安政四年(1857年)に100両を元手に独立し、乾物店大倉屋を開業する。

 慶応二年(1866年)に喜八郎は乾物店を廃業し、同年十月に小泉屋鉄砲店に見習いに入る。約4ヶ月間、小泉屋のもとで鉄砲商いを見習い、慶応三年(1867年)に独立し、鉄砲店大倉屋を開業する。大倉屋は厚い信用を博した。そののち官軍御用達となり、明治元年(1868年)に新政府軍の兵器糧食の用達を命じられるまでになった。明治四年(1871)年七月以降は、鉄砲火薬免許商として、諸藩から不要武器の払い下げを受ける。

 明治四(1871)年三月に喜八郎は新橋駅建設工事の一部を請け負う。明治五(1872)年三月に銀座復興建設工事の一部を請け負う。この頃、渋沢栄一と知り合う。明治十年(1877年)の東京商法会議所(現、東京商工会議所)、横浜洋銀取引所(横浜株式取引所)を皮切りに、様々な方面で新規事業の設立に関与した。

 明治二十六年(1893年)に大倉土木組(現、大成建設)を設立し、日本土木会社の事業を継承、大倉組商会と内外用達会社を合併するなど、この頃から大蔵財閥の片鱗を窺わせ始める。

 明治四十(1907)年九月に大阪大倉商業学校(現、関西大倉中学校・高等学校)を創設した。明治三十三年(1900年)に還暦銀婚祝賀式の記念事業として私財50万円を投じて大倉商業学校(現、東京経済大学)を創設した。

 明治三十九年(1906年)に麦酒三社合同による大日本麦酒株式会社設立に関係し、翌明治四十年(1907年)に日清豆粕製造(現、日清オイリオグループ)、日本皮革(現、ニッピ)、日本化学工業、帝国製麻(現、帝国繊維)、東海紙料(現、特種東海製紙)を設立。

 昭和三(1928)年四月二十二日に大倉 喜八郎は九十年の生涯を終えました。

伝記・評伝

新潟県の財閥創業者・大企業家が資産を築くまでの奮闘努力苦労伝: 【大倉喜八郎】【内藤久寛】


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川崎正蔵

概要

 川崎 正蔵(かわさき しょうぞう)天保七年丙申(ひのえさる33)七月十日(1836年8月10日)生誕 -大正元(1912)年12月2日逝去(七十六歳)は、実業家、政治家。神戸川崎財閥の創設者。川崎造船所(現、川崎重工業)創業者。美術蒐集家。川崎美術館(日本で最初の私立美術館)建設。貴族院議員。幼名・磯治。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)七月十日(1836年8月10日)に薩摩国鹿児島城下大黒町(鹿児島県鹿児島市大黒町)で誕生。十七歳の時に長崎に出て貿易に従事し、藩命によって金・米を扱った。鹿児島町吏、さらに大坂の蔵屋敷用達を命ぜられたが、貿易に着目して藩庁を説き、西洋型帆船を数隻購入して薩摩国産物を畿内に輸送し、巨利を得た。

 維新後、明治四年(1871年)に上京。明治六年(1873年)に帝国郵便汽船会社の副社長となり、東京・琉球間の郵便航路の開始に尽力した。同社は明治十一年(1878年)に三菱汽船会社と合併する。琉球反物の運送販売によって巨利を得て、念願であった造船業を開始する。明治十一年(1878年)に築地造船所を、明治十三年(1880年)に兵庫川崎造船所を開業する。明治二十年(1887年)に川崎造船所(現、川崎重工業)を設立。明治二十九年(1896年)に川崎造船所を株式会社に改組する。

 明治二十三(1890)年九月二十九日に貴族院他学納税者議員に就任。明治三十一年(1898年)に「神戸新聞」を創刊。明治三十八年(1905年)に神戸川崎銀行を開設し、監督に就任した。また美術品の収集でも知られ、神戸の自邸内に川崎美術館とその付属館である長春閣をつくった。川崎正蔵は大正元(1912)年十二月二日に七十六年の生涯を終えました。

伝記・評伝

造船王川崎正蔵の生涯


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津田仙

概要

 津田仙(つだ せん)天保八年丁酉(ひのととり34)七月六日(1837年8月6日)生誕 – 明治四十一(1908)年四月二十四日逝去(七十歳)は、農学者、キリスト者。学農者創立者。青山学院大学・筑波大学付属盲学校の創立に関わる。また、日本で最初に通信販売を行った人物でもある。同志社大学の創始者新島襄、人間の自由と平等を説いた東京帝国大学教授の中村正直とともに、“キリスト教界の三傑”とうたわれた。明六社会員。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)七月六日(1837年8月6日)に、父・下総国佐倉藩、堀田氏の家臣小島良親(善右衛門)三男に佐倉城内で誕生。幼名は千弥。嘉永四年(1851年)に元服して桜井家の養子となる。文久元年(1861年)に津田家の初子と結婚し婿養子となり、津田姓を名乗る。

 十五歳で佐倉藩藩校、成徳書院(現在の千葉県立佐倉高等学校の前身)で学び、藩主・堀田正睦(ほった まさよし)の洋学気風もあり、藩命でオランダ語、英語の他、洋学や砲術を学ぶ。安政二年(1855年)に出仕し、江戸では蘭学塾へ入門し英語などを学ぶ。文久元年(1861年)外国奉行の通訳として採用された。慶応三年(1867年)に幕府発注の軍艦引取り交渉のためアメリカへ派遣されるのにともない、津田仙、福沢諭吉、尺振八の3人が通訳として随行する。

 明治維新後の明治二年(1869年)に築地の洋風旅館、築地ホテル館に勤め、西洋野菜の栽培などを手がける。明治四年(1871年)に明治政府が設立した開拓使の嘱託となり、女子教育に関心のあった開拓次官の黒田清隆が、政府が派遣する岩倉使節団に女子留学生を随行させることを企画すると、娘の梅子を応募する。使節団が出発した翌月には開拓使を辞職。

 民部省に勤めたのち、明治六年(1873年)に、ウイーン万国博覧会に副総裁として出席する佐野常民(日本赤十字社の創設者)の書記官として随行。帰国後の明治七(1874)年五月に口述記録をまとめて『農業三事』として出版した。仙がウィーン万博から持ち帰ったニセアカシアの種子は、その後明治八年(1875年)に大手町に植えられ、これが東京初の街路樹となった。

 明治七年(1874年)に米国メソジスト監督教会婦人宣教会から日本に派遣されたドーラ・E・スクーンメーカー(Dora E. Schoonmaker)による女子小学校(後の海岸女学校)の創立に協力。明治八(1875)年一月、同じく米国メソジスト監督教会でメソジスト派信者として妻の初と共に洗礼を受ける。また、盲聾唖者の教育のため楽善会を組織する。明治九年(1876年)に東京麻布に、農産物の栽培・販売・輸入、農産についての書籍・雑誌の出版などを事業とする学農社を設立、その一環として農学校も併設した。キリスト教指導も行う。

 学農社雑誌局発行の「農業雑誌」で、明治九年(1876年)にアメリカ産トウモロコシの種の通信販売を始め、これが日本で最初の通信販売といわれている。津田仙は明治四十一(1908)年四月二十四日に逝去。七十年の生涯を終えました。

伝記・評伝

津田仙評伝―もう一つの近代化をめざした人


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板垣退助

概要

 板垣 退助(いたがき たいすけ)天保八年丁酉(ひのととり34)四月十七日(1837年5月21日)生誕 -大正八(1919)年七月十六日薨去(八十二歳)は、江戸時代末期の土佐藩士。勤王志士。軍人、政治家。自由民権運動の主導者。従一位勲一等伯爵。「憲政の父・国会を創った男」として知られる。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)四月十七日(1837年5月21日)に、土佐藩上士(馬廻格・300石)乾正成(いぬいまさしげ)の嫡男として、高知城下中島町(現、高知県高知市本町通2丁目)に誕生。少年期は腕白そのもので、義侠心に富み、弱い者いじめをする者には敢然と喧嘩で応戦したという。

 大叔父・谷村自雄(たにむらよりかつ)(第十五代宗家)より無双直伝英信流(むそうじきでんえいしんりゅう)居合を習い、若くして後継者の一人と目されて林政敬(はやしまさたか)(第十四代宗家)の孫娘を最初の妻に迎えるがのち離縁。次に親族・中山弥平治秀雅の次女を妻に娶るも、程無く離縁している。

 安政三年八月八日(1856年9月6日)に係争に加わり罪を得て、高知城下の四ヶ村(小高坂・潮江・下知・江ノ口)の禁足を命ぜられ神田村に謫居となる。廃嫡の上、追放という重い処分であったが、ここでも身分の上下を問わず庶人と交わる機会を得た。この同じ時、蟄居の身であった吉田東洋は退助の寓居を訪れて自塾への就学を奨励したが、退助はその申し出を断る。

 一時は家督相続すら危ぶまれたが、藩主の代替わりの恩赦によって、廃嫡処分を解除され、高知城下へ戻ることを許された。文久元年十月二十五日(1861年11月27日)に江戸留守居役兼軍備御用を仰付けられ、江戸へ向かう。

  文久二年十月十七日(1862年12月8日)夜に、山内容堂の御前において、寺村道成と時勢について対論に及び、退助は尊王攘夷を唱える。文久三年(1863年)に京都での八月十八日の政変後に土佐藩内でも尊王攘夷活動に対する大弾圧が始まると、退助は藩の要職を外されて失脚する。

 慶応三年九月六日(1867年10月3日)に、大監察に復職した退助は薩土倒幕の密約をもとに藩内で武力倒幕論を推し進め、旧土佐勤皇王党員らを釈放させた。これにより、七郡勤王党の幹部らが議して、退助を盟主として討幕挙兵の実行を決断した。

 退助の主導のもと、軍制近代化と武力討幕論に舵を切ったが後藤象二郎が「大政奉還論」を献策すると、藩論は過激な武力討幕論を退け、大政奉還論が主流となる。退助は武力討幕の意見を曲げず、大政奉還論を「空名無実」と批判し「徳川300年の幕藩体制は、戦争によって作られた秩序である。ならば戦争によってでなければこれを覆えすことは出来ない。話し合いで将軍職を退任させるような、生易しい策は早々に破綻するであろう」と真っ向から反対する意見を言上したことで全役職を解任されて失脚した。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられた。鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。退助は岩倉具視の助言を容れ軍略を練り先祖・板垣信方ゆかりの甲州進軍に備え、名字を板垣に復し「板垣正形」と名乗る。名将・板垣信方の名に恥じぬよう背水の陣で臨んだ。

 明治三年閏十月二十四日(1870年12月16日)に高知藩の大参事となった板垣は、国民皆兵を断行するため海路上京し、「人民平均の理」を布告する事を太政官に具申。その許可を得て山内豊範の名をもって全国に先駆けて「人民平均の理」を布告し四民平等に国防の任に帰する事を宣した。

 明治六年(1873年)に書契問題に端を発する度重なる朝鮮国の無礼に世論が沸騰し、板垣は率先して征韓論を主張するが、欧米視察から帰国した岩倉具視ら穏健派によって閣議決定を反故にされる(征韓論争)。これに激憤した板垣は西郷隆盛らとともに下野。世論もこれを圧倒的に支持し、板垣・西郷に倣って職を辞する官僚が600名あまりに及び、板垣と土佐派の官僚が土佐で自由民権を唱える契機となった(明治六年政変)。

 明治十四年(1881年)に10年後に帝国議会を開設するという国会開設の詔が出されたのを機に、自由党を結成して総理(党首)となった。帝国議会開設を控えて高知にいた板垣は愛国公党を再び組織し、第1回衆議院議員総選挙に対応した。明治二十三年(1890年)の帝国議会開設後には旧自由党各派を統合して立憲自由党を再興した。翌年には自由党に改称して党総理に就任した。

 明治二十九年(1896年)に議会内で孤立していた自由党は第二次伊藤内閣と協力の道を歩み、板垣は内務大臣として入閣した。明治三十一年(1898年)に対立していた大隈重信の進歩党と合同して憲政党を組織し、日本初の政党内閣である第一次大隈内閣に内務大臣として入閣する。そのためこの内閣は通称・隈板内閣(わいはんないかく、大隈の「隈」と板垣の「板」を合わせたもの)とも呼ばれる。

 大正八(1919)年七月十六日に板垣退助は八十二年の生涯を終えました。

伝記・評伝

板垣退助 (歴史人物シリーズ―幕末・維新の群像)


三国志演義 第一巻
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吉村虎太郎

概要

 吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)天保八年丁酉(ひのととり34)(1837年4月18日)生誕 -文久三年九月二十七日(1863年11月8日)逝去(二十六歳)は、江戸時代末期の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)(1837年4月18日)に土佐国高岡郡芳生野村(現、高知県高岡郡津野町)の里正(庄屋)吉村太平の長男として生まれる。十二歳で父の跡を継いで北川村庄屋となった。後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚。同地で郡役人の間崎哲馬(まさきてつま)に学問を、また城下に出て武市半平太(たけちはんぺいた)に剣術を学び尊攘思想に傾倒するようになった。

 安政六年(1859年)に檮原村の大庄屋に移り、よく働き治績を残したという。文久元年(1861年)に武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟。文久二(1862)年二月、武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞(くさか げんずい)に武市の手紙を渡した。

 薩摩藩国父・島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画(伏見義挙)を聞く。吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかった。やむなく虎太郎は脱藩を決行。吉村の脱藩に触発される形で沢村惣之丞や坂本龍馬らが続いて脱藩している。

 吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸での志士らと合流した。上方には平野国臣ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であった。浪士の動きを知った久光は驚き鎮撫を命じ、文久二年四月二十三日(1862年5月21日)に発生した過激尊攘派藩士の粛清を断行し、挙兵計画は失敗した(寺田屋事件)。吉村らの身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還された。

 文久三年(1863)年二月に吉村は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。同月、将軍・徳川家茂が上洛し、朝廷から同年五月十日(1863年6月25日)をもって攘夷決行をするよう約束させられる。同日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃した。。同年六月(7月)に米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退した(下関戦争)。

 文久三年八月十七日(1863年9月29日)に吉村は尊王攘夷派浪士の一団(天誅組)が公家・中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件を首謀する。天誅組は五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。しかし翌日、京都では八月十八の政変が起こり政局は一変し、大和行幸を計画した三条らの急進的尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。大和行幸の詔は偽勅とされ、天誅組はその活動を正当化する根拠を失い、天誅組は孤立してしまった。吉村らは協議を行い、京の政変は天皇の意に反する会津や薩摩などの逆臣による策謀であり、一時的なものと予測し、倒幕の軍事行動を継続することとなった。

 吉村は、古来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけるために十津川郷に赴き、川津村で郷士・野崎主計らと会談した。京の政変をまだ知らなかった郷の幹部は、吉村の丁寧な要請により募兵に応じることに決め、十津川郷内59カ村から約1000人が集まった。

 天誅組は五條襲撃直後から近隣諸藩に使者を送って兵糧の供出などを約束させていたが、京都での政変を知った高取藩は態度を翻してこれを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。高取城を奇襲して占拠し、籠城して討伐軍に抗戦する計画であった。中山忠光率いる本隊が高取城に向かい、吉村は別働隊を率いて大口峠に布陣して 郡山藩に備えた。翌朝まで大口峠で警戒していたが討伐軍は姿を現さなかったため、吉村は高取方面に引き返した。統率力を失った主将・忠光の元から去る者も出始めて天誅組の士気は低下し、追討軍が迫ると十津川郷へ退却する。

 文久三年九月二十七日(1863年11月8日)に吉村虎太郎は鷲家口村外れの炭小屋に潜伏していたところ、津藩兵に発見される。吉村は自刃しようとしたが、その前に一斉射撃を浴びせられて絶命した。吉村虎太郎は二十六年の生涯を終えました。

伝記・評伝

勤王志士の花街道

天誅組 (講談社文芸文庫)


三国志演義 第一巻
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三国志演義 Ⅰ

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谷干城

概要

 谷 干城(たに たてき / かんじょう)天保八年丁酉(ひのととり34)二月十二日(1837年3月18日)生誕 – 明治四十四(1911)年5月13日)薨去(七十四歳)は、江戸時代末期の土佐藩士。明治時代の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は正二位勲一等子爵。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)二月十二日(1837年3月18日)に儒学者・谷景井(萬七)の四男として土佐国高岡郡窪川(現、高知県高岡郡四万十町)に誕生。通称、申太郎、守部。号は隈山。3人の兄が相次いで夭逝したので総領息子となる。後に父が土佐藩の上士(小姓組格・武道師範)として取り立てられる。

 安政六年(1859年)に江戸へ出て安井息軒(儒学)、安積艮斎(あさかごんさい)(朱子学)、若山勿堂(わかやまぶつどう)(山鹿流軍学)の門弟として学び、文久元年(1861年)に帰国した後の翌、文久二年(1862年)に藩校致道館で史学助教授となった。帰国途中に武市半平太と知り合って尊王攘夷に傾倒、藩政を主導していた吉田東洋と対外方針を巡り討論する。谷は東洋の開国方針を悠長だと反発しながらもその度量に感服したが、東洋が暗殺された時は彼との対立関係から周囲に犯人だと疑われている。

 慶応四年一月三日(1868年1月7日)に鳥羽伏見の戦いが起こり戊辰戦争が始まると板垣退助と共に藩兵を率いて出動した。戊辰戦争では、板垣率いる迅衝隊(じんしょうたい)の小軍監(後に大軍監に昇格)として北関東・会津戦争で活躍する。三月は新選組から改名した甲陽鎮撫隊(こうようちんぶたい)を甲州勝沼の戦いで破る。

 明治四(1871)年七月の廃藩置県後に新政府の兵部省に出仕し翌、明治五(1872)年に陸軍裁判長に転任し陸軍少将に任命される。明治十(1877)年の西南戦争の際には、52日にわたって薩軍の攻撃から熊本城を死守し、政府軍の勝利に貢献した。

 明治四十四(1911)年5月13日に谷干城は七十四年の生涯を終えました。

伝記・評伝

谷干城―憂国の明治人 (中公新書)


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三条実美

概要

 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條實美)天保八年丁酉(ひのととり34)二月七日(1837年3月13日)生誕- 明治二十四(1891)年2月18日薨去(五十三歳)は、公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木誠斉。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)二月七日(1837年3月13日)に公卿三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。正室山内紀子の子であったが、三男であったため、三条家庶流である花園公総の養子となる予定であった。幼い頃から聡明であると知られ、また福麿の教育係であった儒者富田織部の影響で、尊皇意識が高かった。

 安政元年(1854)年二月に次兄で三条家の嗣子であった三条公睦(さんじょうきんむつ)が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、四月に実美が嗣子となった。

 実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣(ひらのくにおみ)の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた。公武合体派の公卿であった内大臣久我建通(こが たけみち)、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条ら急進的な尊攘派公家と長州藩を孝明天皇、薩摩藩・会津藩が朝廷から排除した事件(八月十八日の政変)で三条は失脚し、長州藩に逃れた。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に大政奉還が成立した。同年十二月八日(1868年1月2日)に五卿の赦免と復位が達成された。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止された。

 明治四年(1871年)に三条は制度改革により、太政大臣となった。明治四年十一月二十一日(1872年1月1日)に岩倉使節団の派遣が行われ、実美は留守政府のトップとして様々な問題に取り組むこととなった。

 岩倉の帰朝後には征韓反対派と西郷らの争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた実美は、明治六年(1873)年十月十五日の閣議で西郷の案を決定した。しかし征韓反対派の岩倉・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった。心身共に疲弊した実美は同年十月十八日朝に倒れた。

 明治六年(1873)年十月二十四日に宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷らは政府を去った。実美も辞意を伝えたが許されず、同年十二月二十三日には参内して辞表を提出したが却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった。

 明治七(1874)年四月二十七日に西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた。同年十月十九日に久光は実美を辞職させるよう上奏した。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、同年十月二十五日の閣議で正式に免官となった。

 久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。明治十一年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤博文と大隈重信が実力者となったが、明治十四の政変で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。

 明治二十四(1891)年二月十八日に三条実美は薨去。五十三年の生涯を終えました。

伝記・評伝

三条実美: 孤独の宰相とその一族

三条実美-維新政権の「有徳の為政者」 (中公新書)


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児島惟謙

概要

 児島 惟謙(こじま これかた、いけん)天保八年丁酉(ひのととり34)二月一日(1837年3月7日)生誕- 明治四十一(1908)年7月1日薨去(七十一歳)は、明治時代の司法官、政治家。後に貴族院議員、衆議院議員、錦鶏間祗候(きんけいのましこう)。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)二月一日(1837年3月7日)に伊予国宇和島城下で児島惟謙は宇和島藩士の金子惟彬の次男として出生したが、幼くして生母と生別したり、里子に出されたり、造酒屋で奉公したりと、安楽とはいえない幼少期を送った。

 少年期、惟謙は窪田清音(くぼたすがね)から免許皆伝を認められた窪田派田宮流剣術師範・田都味嘉門(たづみかもん)の道場へ入門、大阪財界の大立役者となる土居通夫と剣術修業に励む。慶応元年(1865年)に長崎に赴いて坂本龍馬や五大友厚らと親交を結んだ。慶応三年(1867年)に脱藩して京都に潜伏し、勤王派として活動した。戊辰戦争に参戦。

 明治元年(1868年)に惟謙は出仕し、新潟県御用掛、品川県少参事を経て、明治二(1870)年十二月に司法省に入省。名古屋裁判所長、長崎控訴裁判所長などを経て明治十六年(1883年)に大阪控訴院長となった。

 明治二十五(1892)年六月に向島の待合で花札賭博に興じていたとして、児島を含む大審院判事6名が告発され、懲戒裁判にかけられた。翌7月に証拠不十分により免訴になったが、児島は明治二十七(1894)年四月に責任を取らされる形で大審院を辞職した。

 辞職後、貴族院議員・衆議院議員を歴任し、児島惟謙は明治四十一(1908)年七月一日薨去。七十一年の生涯を終えました。

伝記・評伝

児島惟謙―大津事件と明治ナショナリズム (中公新書)

児島惟謙 大津事件手記


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