久坂玄瑞

概要

 久坂玄瑞(くさか げんずい)天保十一年庚子(かのえね37)五月(1840年6月)生誕 -元治元年七月十九日(1864年8月20日)逝去(二十四歳)は、江戸時代末期の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。(後の、楫取美和子(かとりみわこ)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)五月(1840年6月)に長門国萩平安古(ひやこ)本町(現、山口県萩市)に父の萩藩医・久坂良迪、母の富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾で四書の素読を受けた。

 藩の医学所・好生館に入学したが、十四歳の夏に母を亡くし、翌年には兄が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、十五歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。十七歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。

 安政四年(1857年)晩春に久坂は正式に吉田松陰に弟子入りした。安政四(1857)年十二月五日に松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。安政六(1859)年十月に安政の大獄によって松陰が刑死した。文久元(1851)年十二月に玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った参加者は二十四名だった。

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に京都御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて自害して果てた。久坂玄瑞は二十四年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定