吉村虎太郎

概要

 吉村 虎太郎(よしむら とらたろう)天保八年丁酉(ひのととり34)(1837年4月18日)生誕 -文久三年九月二十七日(1863年11月8日)逝去(二十六歳)は、江戸時代末期の土佐藩出身の志士。諱は重郷。一般には「寅太郎」と記されることが多い。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)(1837年4月18日)に土佐国高岡郡芳生野村(現、高知県高岡郡津野町)の里正(庄屋)吉村太平の長男として生まれる。十二歳で父の跡を継いで北川村庄屋となった。後に須崎郷浦庄屋となり、転村の庄屋広田家の娘お明と結婚。同地で郡役人の間崎哲馬(まさきてつま)に学問を、また城下に出て武市半平太(たけちはんぺいた)に剣術を学び尊攘思想に傾倒するようになった。

 安政六年(1859年)に檮原村の大庄屋に移り、よく働き治績を残したという。文久元年(1861年)に武市半平太が土佐勤王党を結成するとこれに加盟。文久二(1862)年二月、武市の命で長州へ赴き久坂玄瑞(くさか げんずい)に武市の手紙を渡した。

 薩摩藩国父・島津久光の率兵上京とこれに合わせた浪士たちによる挙兵計画(伏見義挙)を聞く。吉村は急ぎ土佐へ戻り、土佐勤王党も脱藩して参加することを説くが、武市の考えは挙藩勤王であり、これを許さなかった。やむなく虎太郎は脱藩を決行。吉村の脱藩に触発される形で沢村惣之丞や坂本龍馬らが続いて脱藩している。

 吉村は宮地宜蔵とともに長州の久坂玄瑞を頼り、海路大坂へ入り、長州藩邸での志士らと合流した。上方には平野国臣ら有力な浪士たちが集結して、島津久光の上洛を待ちわびていた。平野らは久光の上洛を倒幕挙兵のためのものと勝手に考えていたが、久光の真意は全く異なり公武合体であった。浪士の動きを知った久光は驚き鎮撫を命じ、文久二年四月二十三日(1862年5月21日)に発生した過激尊攘派藩士の粛清を断行し、挙兵計画は失敗した(寺田屋事件)。吉村らの身柄は土佐藩に引き渡されて、国元へ送還された。

 文久三年(1863)年二月に吉村は藩から自費遊学の許可を得て京へ上る。同月、将軍・徳川家茂が上洛し、朝廷から同年五月十日(1863年6月25日)をもって攘夷決行をするよう約束させられる。同日、長州藩は攘夷を実行して関門海峡を通過する外国船を砲撃した。。同年六月(7月)に米仏艦隊が来襲し、長州藩は敗退した(下関戦争)。

 文久三年八月十七日(1863年9月29日)に吉村は尊王攘夷派浪士の一団(天誅組)が公家・中山忠光を主将として大和国で決起し、後に幕府軍の討伐を受けて壊滅した事件を首謀する。天誅組は五条天領を「天朝直轄地」とすると布告し、「御政府」を称し、中山忠光を主将、吉村、松本、藤本を総裁とする職制を定めた。しかし翌日、京都では八月十八の政変が起こり政局は一変し、大和行幸を計画した三条らの急進的尊攘派公卿は失脚、長州藩も京都からの撤退を余儀なくされた。大和行幸の詔は偽勅とされ、天誅組はその活動を正当化する根拠を失い、天誅組は孤立してしまった。吉村らは協議を行い、京の政変は天皇の意に反する会津や薩摩などの逆臣による策謀であり、一時的なものと予測し、倒幕の軍事行動を継続することとなった。

 吉村は、古来尊王の志の厚いことで知られる十津川郷士に募兵を働きかけるために十津川郷に赴き、川津村で郷士・野崎主計らと会談した。京の政変をまだ知らなかった郷の幹部は、吉村の丁寧な要請により募兵に応じることに決め、十津川郷内59カ村から約1000人が集まった。

 天誅組は五條襲撃直後から近隣諸藩に使者を送って兵糧の供出などを約束させていたが、京都での政変を知った高取藩は態度を翻してこれを拒否したため、天誅組は高取城攻撃を決定する。高取城を奇襲して占拠し、籠城して討伐軍に抗戦する計画であった。中山忠光率いる本隊が高取城に向かい、吉村は別働隊を率いて大口峠に布陣して 郡山藩に備えた。翌朝まで大口峠で警戒していたが討伐軍は姿を現さなかったため、吉村は高取方面に引き返した。統率力を失った主将・忠光の元から去る者も出始めて天誅組の士気は低下し、追討軍が迫ると十津川郷へ退却する。

 文久三年九月二十七日(1863年11月8日)に吉村虎太郎は鷲家口村外れの炭小屋に潜伏していたところ、津藩兵に発見される。吉村は自刃しようとしたが、その前に一斉射撃を浴びせられて絶命した。吉村虎太郎は二十六年の生涯を終えました。

伝記・評伝

勤王志士の花街道

天誅組 (講談社文芸文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

土地建物無料査定