三条実美

概要

 三条 実美(さんじょう さねとみ、旧字体:三條實美)天保八年丁酉(ひのととり34)二月七日(1837年3月13日)生誕- 明治二十四(1891)年2月18日薨去(五十三歳)は、公卿、政治家。位階勲等爵位は、正一位大勲位公爵。号は梨堂(りどう)。変名は梨木誠斉。

経歴

 天保八年丁酉(ひのととり34)二月七日(1837年3月13日)に公卿三条実万の三男として生まれる。幼名は福麿。正室山内紀子の子であったが、三男であったため、三条家庶流である花園公総の養子となる予定であった。幼い頃から聡明であると知られ、また福麿の教育係であった儒者富田織部の影響で、尊皇意識が高かった。

 安政元年(1854)年二月に次兄で三条家の嗣子であった三条公睦(さんじょうきんむつ)が早世した。公睦には嫡子公恭がおり、本来であれば公恭が継ぐはずであったが、富田織部の強い推挙によって、四月に実美が嗣子となった。

 実美は公武合体論者であったが、一向に攘夷に進まない幕府への不満をつのらせていた。この時期には平野国臣(ひらのくにおみ)の『培覆論』を筆写するなど、尊攘派の志士との交流を深めるようになっていた。公武合体派の公卿であった内大臣久我建通(こが たけみち)、岩倉具視を始めとする四奸二嬪を激しく攻撃し、失脚に追いやった。

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条ら急進的な尊攘派公家と長州藩を孝明天皇、薩摩藩・会津藩が朝廷から排除した事件(八月十八日の政変)で三条は失脚し、長州藩に逃れた。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に大政奉還が成立した。同年十二月八日(1868年1月2日)に五卿の赦免と復位が達成された。反幕派の大物である三条の復権は、朝廷内における薩摩・長州の力となった。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止された。

 明治四年(1871年)に三条は制度改革により、太政大臣となった。明治四年十一月二十一日(1872年1月1日)に岩倉使節団の派遣が行われ、実美は留守政府のトップとして様々な問題に取り組むこととなった。

 岩倉の帰朝後には征韓反対派と西郷らの争いはますます激しくなり、政府分裂を恐れた実美は、明治六年(1873)年十月十五日の閣議で西郷の案を決定した。しかし征韓反対派の岩倉・木戸孝允・大久保利通が辞表を提出し、いずれにしても政府の分裂は避けられなくなった。心身共に疲弊した実美は同年十月十八日朝に倒れた。

 明治六年(1873)年十月二十四日に宮中に影響力をもつ岩倉の意見が通り、西郷らは政府を去った。実美も辞意を伝えたが許されず、同年十二月二十三日には参内して辞表を提出したが却下され、引き続き太政大臣をつとめることとなった。

 明治七(1874)年四月二十七日に西郷なき政府の安定を図るため、保守派の重鎮である島津久光が左大臣となり、政府の欧化政策を批判・撤回させるべく動きを強めた。同年十月十九日に久光は実美を辞職させるよう上奏した。岩倉は実美を支持するべきであると奏上し、久光の弾劾は失敗に終わった。久光は辞表を提出したが岩倉によって差し戻され、同年十月二十五日の閣議で正式に免官となった。

 久光が去った後の政府は大久保の独壇場となり、実美はその方針をほとんど支持している。明治十一年(1878年)に大久保が暗殺されると、伊藤博文と大隈重信が実力者となったが、明治十四の政変で大隈が下野すると、伊藤の独壇場となった。

 明治二十四(1891)年二月十八日に三条実美は薨去。五十三年の生涯を終えました。

伝記・評伝

三条実美: 孤独の宰相とその一族

三条実美-維新政権の「有徳の為政者」 (中公新書)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
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三国志演義 Ⅰ

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