野村靖

概要

 野村靖(のむらやすし)天保十三年壬寅(みずのえとら39)八月六日(1842年9月10日)生誕 -明治四十二(1909)年一月十四日薨去(六十六歳)江戸時代末期の長州藩士、政治家。名は和作、靖之助とも。号を欲庵、香夢庵主。位階爵位は正二位子爵。

経歴

 天保十三年壬寅(みずのえとら39)八月六日(1842年9月10日)に長州藩の下級武士(足軽)入江嘉伝次の次男として誕生。兄・九一が入江氏を継承したため、親戚の野村氏を継承した。

 吉田松陰の松下村塾に入門して尊王攘夷に傾倒、老中・間部詮勝(まなべあきかつ)の暗殺計画が露見して兄と共に投獄される。文久二年(1862年)にイギリス公使館の焼き討ちに参加。第二次長州征討に参戦する。

 明治維新後、宮内大丞、外務大書記となり、岩倉使節団の一員として渡欧する。神奈川県権令及び県令・駅逓総監・逓信次官を歴任し、明治二十年(1887年)に子爵に叙せられる。明治二十一年(1888年)に枢密顧問官、明治二十四年(1891年)に駐仏公使を歴任した。

 明治二十七年(1894年)に第二次伊藤内閣の内務大臣に就任する。明治二十九(1896)年二月三日に辞任する。同年に第二次松方内閣の逓信大臣に就任する。

 明治四十二(1909)年一月十四日に野村靖は薨去。六十六年の生涯を終えました。


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伊藤忠兵衛 (初代)

概要

 初代 伊藤 忠兵衛 (しょだい いとう ちゅうべえ)天保十三年壬寅(みずのえとら39)七月二日(1842年8月7日)生誕 -明治三十六(1903)年七月八日逝去(六十一歳)は商人、実業家。伊藤忠商事と丸紅の2つの大手総合商社を創業し、多角的経営によって伊藤忠財閥を形成した。

経歴

 天保十三年壬寅(みずのえとら39)七月二日(1842年8月7日)は近江国犬上郡豊郷村(現、滋賀県犬上郡豊郷町)で五代目伊藤長兵衛の次男として誕生。生家は紅長(べんちょう)の屋号で耳付物という繊維品の小売をし、また1、2町の田地を自作する手作りの地主でもあった。伊藤家は、この初代伊藤忠兵衛と兄の六代目伊藤長兵衛が、近江湖東の犬上郡甲良郷八目村(犬上郡豊郷町八目)で安政五(1858)年五月に近江麻布類の持ち下り商を開業し、堺や紀州に行商したのにはじまる。伊藤忠も丸紅も、この年を創業年としている。

 兄の長兵衛は国元で仕入れに当たり、のちに博多新川端で伊藤長兵衛商店を開業した。弟の忠兵衛は、明治五(1872)年一月に大阪本町二丁目に呉服・太物店をはじめ紅忠(べんちゅう)と称して、麻布類・尾濃織物・関東織物を取り扱った。この2つが合併・分割を繰り返して現在の伊藤忠・丸紅につながっている。

 紅忠は開店と同時に店法を定め、利益三分主義をとった。これは、店の純利益は本家納め・本店積立金・店員配当に分かち、これを 5:3:2 の配分率にして「三つ割銀」といった。店員への配当を割くことによって勤労意欲を喚起したもので、これは伝統的な近江商法に拠ったものである。また忠兵衛は真宗の信仰に厚く、津村別院へ熱心に通い、「商売は菩薩の業」と説いて多数の人材を育て、財産を分かつことを商売繁盛の本道としていた。

 明治三十六(1903)年七月八日伊藤忠兵衛 (初代)は逝去。六十一年の生涯を終えました。


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野津道貫

概要

 野津道貫(のづ みちつら / どうがん)天保十二年辛丑(かのとうし38)十一月五日(1841年12月17日)生誕 -明治四十一(1908)年十月十八日薨去(六十六歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の陸軍軍人、貴族院議員、東部都督、教育総監、第四軍司令官を歴任。通称、七次。諱、道貫。最終階級、元帥陸軍大将正二位大勲位功一級侯爵。

経歴

 天保十二年辛丑(かのとうし38)十一月五日(1841年12月17日)に鹿児島城下高麗町の下級藩士・野津鎮圭の二男として生まれる。幼くして両親を亡くした。薬丸兼義に薬丸自顕流(やくまるじげんりゅう)を学ぶ。戊辰戦争六番小隊長として参加。その活躍がめざましく、鳥羽伏見の戦い、会津戦争、二本松の戦い、箱館戦争に参戦。

 明治十(1877)年二月に西南戦争で政府軍第二旅団参謀長として出征。同年五月から八月まで豊後国指揮官を務めた。その後、日本陸軍上層部の一人となる。明治十一(1878)年十一月に陸軍少将に昇進し陸軍省第二局長に就任。その後、東京鎮台司令長官、同鎮台司令官を歴任。明治十七(1884)年二月から翌年一月まで陸軍卿・大山巌の欧州出張に随行。同年7月、子爵を叙爵し華族となる。明治十八(1885)年二月から四月まで清国に出張。同年五月、陸軍中将に進み広島鎮台司令官に就任。

 明治二十一(1888)年五月に第五師団に親補され、明治二十七(1894)年八月に日清戦争に出征。さらに第一軍司令官に転じた。明治二十八(1895)年三月に陸軍大将となり、同年八月に伯爵を叙爵。十一月に近衛師団長に親補され、東京防禦総督部、東部都督、教育総監、軍事参議官を歴任する。

 明治三十七(1904)六月に第四軍司令官に就任し、日露戦争に参戦。明治三十九(1906)年一月に元帥の称号を戴く。明治四十(1907)年九月に侯爵に陞爵。同月より翌年十月まで、貴族院議員を務めた。明治四十一(1908)年十月六日に大勲位菊花大綬章を受ける。

 明治四十一(1908)年十月十八日に野津道貫は薨去。六十六年の生涯を終えました。


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伊藤博文

概要

 伊藤博文(いとうひろぶみ)天保十二年辛丑(かのとうし38)九月二日(1841年10月16日)生誕-明治四十二(1909)年十月二十六日薨去(六十八歳)は江戸時代末期の長州藩士。明治時代の政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。

経歴

 天保十二年辛丑(かのとうし38)九月二日(1841年10月16日)に周防国熊毛郡束荷村字野尻(現、山口県光市束荷字野尻)の百姓・林十蔵(のちに重蔵)の長男として誕生。母は秋山長左衛門の長女・琴子。嘉永二年(1849年)に父に呼び出され萩に移住した。父が長州藩の水井武兵衛の養子となり、武兵衛が安政元年(1854年)に周防佐波郡相畑村の足軽・伊藤弥右衛門の養子となって伊藤直右衛門と改名したため、十蔵・博文父子も足軽となった。

 安政四(1857)年二月に江戸湾警備のため相模に派遣されていたとき、上司として赴任してきた来原良蔵と昵懇となり、その紹介で吉田松陰の松下村塾に入門する。伊藤は友人の吉田稔麿の世話になったが、身分が低いため塾の敷居をまたぐことは許されず、戸外で立ったままの聴講に甘んじていた。

 文久三年(1863年)に井上馨の薦めで海外渡航を決意、五月十二日に井上馨・遠藤謹助・山尾庸三・野村弥吉(のちの井上勝)らとともに長州五傑の一人としてイギリスに渡航する。元治元(1864)年三月に米英仏蘭4国連合艦隊による長州藩攻撃が近いことを知ると、井上馨とともに急ぎ帰国した。

 元治元(1864)年十一月に長州藩が第一次長州征伐で幕府に恭順の姿勢を見せると、元治元年十二月十五日(1864年1月12日)に高杉らに従い力士隊を率いて挙兵した(功山寺挙兵(こうざんじきょへい)。このとき、高杉のもとに一番に駆けつけたのは伊藤だった。その後、奇兵隊も加わるなど各所で勢力を増やして俗論派を倒し、正義派が藩政を握った。

 明治維新後は伊藤博文と改名し、長州閥の有力者として、英語に堪能なことを買われて参与、外国事務局判事、大蔵少輔兼民部少輔、初代兵庫県知事(官選)、初代工部卿、宮内卿など明治政府のさまざまな要職を歴任する。これには木戸孝允の後ろ盾があり、井上馨や大隈重信とともに改革を進めることを見込まれていたからであった。

 明治四(1871)年十一月に岩倉使節団の副使として渡米。明治六(1873)年三月にはベルリンに渡り、ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世に謁見。宰相ビスマルクとも会見し、ビスマルクから強い影響を受けた。

 明治十八(1885)年十二月の内閣制度移行に際し、誰が初代内閣総理大臣になるかが注目された。衆目の一致する所は、太政大臣として名目上ながらも政府のトップに立っていた三条実美と、大久保の死後事実上の宰相として明治政府を切り回し内閣制度を作り上げた伊藤だった。伊藤の盟友であった井上馨は「これからの総理は赤電報(外国電報)が読めなくてはだめだ」と口火を切り、山縣有朋が「そうすると伊藤君より他にはいないではないか」と賛成。英語力が決め手となって伊藤は初代内閣総理大臣となったのである。以後、伊藤は4度にわたって内閣総理大臣を務めることになる。

 明治四十二(1909)年十月二十六日に伊藤博文はロシア蔵相ココフツォフと満州・朝鮮問題について非公式に話し合うため訪れたハルビン駅で、大韓帝国の民族運動家・安重根によって射殺され薨去。六十八年の生涯を終えました。


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藤田伝三郎

概要

 藤田傳三郎(ふじた でんざぶろう)天保十二年辛丑(かのとうし38)五月十五日(1841年7月3日)生誕 – 明治四十五(1912)年三月三十日逝去(七十歳)は、実業家。明治時代の大阪財界の重鎮で、藤田財閥の創立者。有能な経営者を多数育て、美術品の収集家、慈善事業家。号は香雪。

経歴

 天保十二年辛丑(かのとうし38)五月十五日(1841年7月3日)に長州藩・萩(現山口県萩市)の酒屋の四男に誕生。家業は醸造業のほか、藩の下級武士に融資をおこなう掛屋を兼営していた。高杉晋作に師事して奇兵隊に入隊した。

 明治二年(1869年)に長州藩が陸運局を廃止して大砲・小銃・砲弾・銃丸などを払い下げた時、藤田はこれらを一手に引き受け、大阪に搬送して巨利を得た。同年、大阪に出て革靴の製造からスタートし、建設業に手を広げた藤田は、明治十年(1877年)の西南戦争で陸軍に被服、食糧、機械、軍靴を納入、人夫の斡旋までして、三井・三菱と並ぶ利益をあげた。

 明治十一(1878)年十二月に各府県から政府に納められた国庫金の中から贋札が発見され、政府内は騒然となった。やがて明治十二(1879)年九月十五日に「ドイツ滞在中の井上馨と組んで現地で贋札を製造して秘かに持ち込んで会社の資金にしようと企てた」という疑惑によって藤田伝三郎ら7名は拘引され東京に移送される(藤田組贋札事件)。3年後の明治十五(1882)年九月二十日に医師兼画家工・熊坂長庵から2円紙幣の贋札(2000枚行使)815枚と用紙及び印刷器具が押収され、藤田伝三郎の冤罪が晴れた。

 贋札事件の直後は陸軍や大阪府からの発注が途絶え、苦境に立たされた。しかし明治十四年(1881年)にそれまでの藤田傳三郎商社を藤田組に組織替えして再出発を図った。藤田組は鉄道建設をはじめ、大阪の五大橋の架橋、琵琶湖疎水などの工事を請け負い、建設業で躍進すると共に明治十六年(1883年)に大阪紡績(東洋紡の前身)を立ち上げ、紡績業にも進出した。

 大阪の財界活動にそれなりの足跡を残した。特にもめ事の調停役として力を発揮した。大阪商法会議所(商工会議所)の設立では発起人となり、明治十八年(1885年)に五大友厚のあとの第二代目会頭となった。

 藤田は明治四十四(1911)年八月二十五日に民間人で初めて男爵に叙されたが、それは桂太郎と岩下清周の協力の賜物であった。藤田が集めた美術品は「藤田コレクション」として名高い。大阪市都島区網島町の旧藤田邸跡にある藤田美術館には、藤田と息子平太郎と徳次郎が集めた国宝9点、重要文化財51点を含む数千点が収納されている。藤田の大阪本邸は太閤園、東京別邸は椿山壮、箱根別邸は箱根小涌園、京都別邸はホテルフジタ京都に衣替えし、藤田観光が経営する。

 明治四十五(1912)年三月三十日藤田伝三郎は逝去。七十年の生涯を終えました。

伝記・評伝


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黒田清隆

概要

 黒田 清隆(くろだ きよたか)(旧字体:黑田 淸隆)天保十一年庚子(かのえね37)十月十六日(1840年11月9日)生誕-明治三十三(1900)年八月二十三日薨去(五十九歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の陸軍軍人、政治家。階級は陸軍中将。栄典は従一位大勲位伯爵。通称、仲太郎、了介。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)十月十六日に薩摩国鹿児島城下新屋敷町(現、鹿児島県鹿児島市新屋敷町)で薩摩藩士・黒田仲左衛門清行の長男として誕生。黒田家は家禄は4石の下級武士だった。

 黒田は示現流(じげんりゅう)門下でも有数の使い手で、後年宗家より皆伝を受けている。黒田は幕臣・江川英龍に学び、砲手になった。慶応四年(1868年)の鳥羽伏見の戦いでは薩摩藩の小銃第一隊長として戦った。同年三月、北陸道鎮撫総督・高倉永祜(たかくらながさち)の参謀に、山縣有朋とともに任命された。

 明治維新後、明治二(1869)年十一月二十二日に黒田は中山清(せい)と結婚した。樺太でのロシアの圧力が増したため、明治三(1870)年五月に樺太専任の開拓次官となった。七月から樺太に赴き、現地のロシア官吏との関係を調整し、北海道を視察して、帰京した。十月二十日に建議して、樺太は三年も保たないとし、北海道の開拓に本腰を入れなければならないと論じた。

 明治四(1871)年一月から五月まで、アメリカ合衆国とヨーロッパ諸国を旅行した。旅行中、米国の農務長官ホーレス・ケプロンが黒田に会って顧問に赴くことを承諾し、他多数のお雇い外国人の招請の道を開いた。帰国後、十月十五日に開拓長官東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が辞任した後は、次官のまま開拓使の頂点に立った。明治七(1874)年六月二十三日、陸軍中将となり、北海道屯田憲兵事務総理を命じられた。同年八月二日に参議兼開拓長官となった。黒田は榎本武揚ら箱館で降った旧幕臣を開拓使に登用した。

 醜聞と疑獄事件は後々まで人々に記憶され、黒田の名声を傷つけた。しかし薩摩閥の重鎮たることは変わらず、明治二十年(1887年)に第一次伊藤内閣の農商務大臣となり、伊藤の後をうけて明治二十一(1888)年四月に第二代内閣総理大臣となった。「政府は議会・政党の意思に制約されることなく独自性を貫くべき」とする主張、いわゆる超然主義を表明する超然主義演説を行っている。条約改正案に反対した井上馨への鬱積から、酒に酔ったまま井上邸内に忍び込むという事件(明治二十二(1889)年十二月十五日夜)を起こして政府内から非難を浴びて謹慎している。

 首相辞任後、黒田は枢密顧問官になった。明治二十五(1892)年八月八日に第二次伊藤内閣の逓信(ていしん)大臣になった。明治二十八年(1895年)に枢密院議長となった。明治二十六年(1893年)から体の不調が募り、仕事に支障をきたすことが多くなった。

 明治三十三(1900)年八月二十三日に黒田清隆は脳出血のため薨去。五十九年の生涯を終えました。


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岩村通俊

概要

 岩村通俊(いわむら みちとし)天保十一年庚子(かのえね37)六月十日(1840年7月8日)生誕 -大正四(1915)年二月二十日薨去(七十四歳)は、江戸時代末期の土佐藩士。明治時代の官僚、政治家。鹿児島県令や初代北海道庁長官などを務めた。号は貫堂。俳号は素水。栄典は正二位勲一等男爵。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)六月十日(1840年7月8日)に土佐藩陪審の岩村英俊を父に、長男として土佐国(現、高知県)宿毛で誕生。酒井南嶺の下で学問を学び岡田以蔵の下で剣術を学んだ。明治二年(1869年)に明治政府に出仕して聴訟司判事、箱館府権判事開拓判官を務める。

 開拓使の首席判官であった島義勇の後を受け、通俊は明治四年(1871年)に開拓判官として札幌の開発継続に着手する。区画を京都に倣い条・丁目とする。この間、開拓大判官に昇り、増えてきた移住者や土木作業員のために遊郭の設置に乗り出す。

 明治六(1874)年七月に佐賀県令に任命され、同地で治績を挙げる。中央に召還され工部省出仕となる。明治十年(1877年)に西南戦争が勃発し、通俊は鹿児島県令として赴任した。明治十五年(1882年)に沖縄県令となる。

 沖縄県令の後、通俊は司法大輔となり、北海道開拓の重要性を政府に説き、北海道庁設置を働き掛ける。これが認められ明治十九年(1886年)に北海道庁が設置されることとなり通俊が初代長官に任命される。旭川市を「北京」とする構想をした。

 明治二十一年(1888年)に元老院議官に就任する。農商務次官を経て明治二十二(1889)年十二月二十四日に第一次山縣内閣の農商務大臣に就任する。明治二十九(1896)年六月五日に功により男爵を叙爵し華族に列せられる。大正四(1915)年二月二十日薨去。岩村通俊は七十四年の生涯を終えました。


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島津忠義

概要

 島津 忠義(しまづ ただよし)天保十一年庚子(かのえね37)四月二十一日(1840年5月22日)生誕-明治三十(1897)年十二月二十六日薨去(五十七歳)は、江戸時代末期の薩摩藩十二代藩主。島津氏二十九代当主。位階・勲等・爵位は従一位勲一等公爵。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)四月二十一日(1840年5月22日)に島津氏分家の重富家当主・島津忠教(久光)の長男として生まれる。伯父・島津斉彬の養嗣子となり、安政五年(1858年)の斉彬没後、その遺言により跡を継ぐこととなった。

 十五代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を容れ、薩摩藩兵3千を率いて上洛した。そして王政復古の大号令に貢献し、議定に任ぜられた。鳥羽伏見の戦いでは薩長軍が徳川幕府軍に大勝利を納めた。

 明治四年(1871年)の廃藩置県後は、公爵となった。以後、政府の命により東京に在住する。西南戦争時も東京に留まり、ほぼ関わらなかった。明治二十一年(1888年)に政府の許可を受け鹿児島に帰郷した。明治二十三年(1890年)に帝国議会開設と同時に貴族院公爵議員となる。

 明治三十(1897)年十二月二十六日薨去。五十七年の生涯を終えました。


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久坂玄瑞

概要

 久坂玄瑞(くさか げんずい)天保十一年庚子(かのえね37)五月(1840年6月)生誕 -元治元年七月十九日(1864年8月20日)逝去(二十四歳)は、江戸時代末期の長州藩士。幼名は秀三郎、諱は通武(みちたけ)、通称は実甫、誠、義助(よしすけ)。妻は吉田松陰の妹、文。(後の、楫取美和子(かとりみわこ)。長州藩における尊王攘夷派の中心人物。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)五月(1840年6月)に長門国萩平安古(ひやこ)本町(現、山口県萩市)に父の萩藩医・久坂良迪、母の富子の三男・秀三郎として生まれる(二男は早世している)。幼少の頃から城下の私塾の松下村塾で四書の素読を受けた。

 藩の医学所・好生館に入学したが、十四歳の夏に母を亡くし、翌年には兄が病没した。そして、そのわずか数日後に父も亡くし、十五歳の春に秀三郎は家族全てを失った。こうして秀三郎は藩医久坂家の当主となり、医者として頭を剃り、名を玄瑞と改めた。十七歳の時に、成績優秀者は居寮生として藩費で寄宿舎に入れるという制度を利用して、玄瑞は藩の医学所である「好生館」の居寮生となった。

 安政四年(1857年)晩春に久坂は正式に吉田松陰に弟子入りした。安政四(1857)年十二月五日に松陰は自分の妹・文を玄瑞に嫁がせた。安政六(1859)年十月に安政の大獄によって松陰が刑死した。文久元(1851)年十二月に玄瑞は、松下村塾生を中心とした長州志士の結束を深めるため、一灯銭申合を創った参加者は二十四名だった。

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に京都御所の西辺である京都蛤御門(京都市上京区)付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突、ここに戦闘が勃発した。久坂玄瑞は寺島忠三郎と共に、鷹司邸内で互いに刺し違えて自害して果てた。久坂玄瑞は二十四年の生涯を終えました。


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渋沢栄一

概要

 渋沢 栄一(しぶさわ えいいち 旧字体:澁澤 榮一)天保十一年庚子(かのえね37)二月十三日(1840年3月16日)生誕 -昭和六(1931)年十一月十一日薨去(九十一歳)は、江戸時代末期の幕臣。明治時代の官僚、実業家、慈善家。位階勲等爵位は正二位勲一等子爵。雅号は青淵(せいえん)。

経歴

 天保十一年庚子(かのえね37)二月十三日(1840年3月16日)に、武蔵国樺沢郡血洗島村(現、埼玉県深谷市血洗島)に父・渋沢市郎右衛門元助、母・エイの長男として誕生。幼名は栄二郎。のちに、栄一郎、篤太夫、篤太郎を名乗る。

 渋沢は七歳の時に従兄の尾高惇忠の許に通い、四書五経や「日本外史」を学ぶ。剣術は、大川平兵衛から神道無念流を学んだ。十九歳の時(1858年)に惇忠の妹・尾高千代と結婚、名を栄一郎と改める。文久元年(1861年)に江戸に出て海保漁村の門下生となる。北辰一刀流の千葉栄次郎の道場(お玉が池の千葉道場)に入門し、剣術修行の傍ら勤皇志士と交友を結ぶ。

 渋沢は京都に出るが、八月十八日の政変直後であったため、勤皇派が凋落した京都での志士活動に行き詰まり、江戸遊学の折より交際のあった一橋家家臣・平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。仕官中は一橋家領内を巡回し、農兵の募集に携わる。

 一橋慶喜が十五代将軍に就任すると渋沢は幕臣となる。慶応二年(1867年)にパリ万国博覧会に将軍の名代として出席する慶喜の異母弟・徳川昭武の随員として、フランスへと渡航する。パリ万博とヨーロッパ各国訪問を終えた後、昭武はパリに留学するものの、大政奉還に伴い、慶応四年九月四日(1868年10月19日)にマルセイユから帰国の途につき、同年十一月三日(同年12月16日)に横浜港に帰還した。

 渋沢は明治二年(1869年)一月に静岡で商法会所を設立した。ところが大隈重信に説得され、同年十月に大蔵省に入省することとなる。予算編成を巡って、大久保利通や大隈重信と対立し明治六(1873)年五月十四日に井上馨と共に退官した。

 渋沢は退官後間もなく、官僚時代に設立を指導していた第一国立銀行(のちの第一銀行ならびに第一国立銀行(後の第一勧業銀行。現、みずほ銀行)の頭取に就任し、以後は実業界に身を置く。

 渋沢は東京瓦斯、東京海上火災保険(現、東京海上日動火災保険、王子製紙(現、王子ホールディングス、日本製紙)、田園都市(現、東急)、帝国ホテル、麒麟麦酒(現、キリンホールディングス)、サッポロビール(現、サッポロホールディングス)など、多種多様の企業の設立に関わり、その数は500以上といわれている。

 昭和六(1931)年十一月十一日に渋沢栄一は薨去。九十一年の生涯を終えました。

著書


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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