富岡鉄斎

概要

 富岡鉄斎(とみおかてっさい)天保七年丙申(ひのえさる33)十二月十九日(1837年1月25日)生誕- 大正十三(1924)年十二月三十一日逝去(八十七歳)は、江戸時代末期、明治・大正期の文人画家・儒学者。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)十二月十九日(1837年1月25日)に京都三条通新町東の法衣商十一屋伝兵衛富岡維叙の次男として誕生。幼名は不明。通称、猷輔、のちに道昴・道節と称し、明治のはじめ頃、一時名を鉄斎としたが、しばらくのち百錬に改名。字を無倦、号を鉄斎。別号に鉄人、鉄史、鉄崖など。

 鉄斎は耳が少し不自由であったが、幼少の頃から勉学に励み、はじめ富岡家の家学である石門心学(せきもんしんがく)を、十五歳頃から学ぶ。さらに国学・勤王思想・漢学・陽明学・詩文などを学ぶ。

 安政二年(1855年)、十八歳頃に、鉄斎は女流歌人大田垣蓮月(おおたがきれんげつ)尼に預けられ薫陶を受ける。翌年、南北合派の窪田雪鷹、大角南耕に絵の手ほどきを受け、南画を小田海僊(おだかいせん)に、大和絵を浮田 一蕙に学んだ。文久元年(1861年)に長崎に遊学した。文久二年(1862年)に画業で生計を立て始めた。

 明治維新後の三十歳から四十代半まで鉄斎は大和国石上神宮や和泉国大鳥神社の神官(宮司)を務めた。この頃、大和国の式内社加夜奈留美命神社を復興している。座右の銘である「万巻の書を読み、万里の道を往く」を実践し、日本各地を旅した。

 三十歳で鉄斎は中島華陽の娘と結婚。長女が生まれるが妻とは死別。のちに再婚し長男を授かる。明治十四年(1881年)に兄伝兵衛の死に伴い京都薬屋町に転居し、終の住処とする。明治二十六年(1893年)に京都美術学校で教員に就任し、明治三十七年(1904年)まで修身を教える。

 大正十三(1924)年十二月三十一日に富岡鉄斎は八十七年の生涯を終えました。

伝記・評伝

月刊目の眼 2019年3月号 (鉄斎さんと京都をあるく)


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出口なお

概要

 出口 なお(でぐち なお)天保七年丁酉(ひのととり34)十二月十六日(1837年1月22日)生誕 -大正七( 1918)年十一月六日逝去(八十一歳)は、新宗教「大本」の教祖。大本では開祖と呼ばれている。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)十二月十六日(1837年1月22日)に大工の父・桐村五郎三郎と母・みの長女として福知山藩領の丹波国天田郡上紺屋町(現、福知山市字上紺屋町)に誕生。桐村家は五郎三郎の放蕩により没落。五郎三郎はなおが十一歳(十歳とも)の時コレラで急死した。なおは下女奉公に出て働くようになる。

 安政元年(1854年)に綾部の出口ゆり(なおの叔母)の強い要望により、養女となって出口家を相続するが、最初から財産争いに巻き込まれた。安政二年二月三日(1855年3月20日)に宮大工の四方豊助(婿養子となり出口政五郎の名を襲名)と結婚する。政五郎は弟子達に慕われる名大工だったが楽天家で浪費家という欠点があり、資産家だった出口家は数年で没落した。なおは出稼ぎや饅頭屋などの内職をして家計を支えた。明治二十(1887)年三月に負傷して寝たきりになっていた政五郎が死亡する。

 なおの住む丹波・綾部町は宗教色の強い土地で、明治に入ると従来の神道や仏教に加え天理教、黒住教、妙霊教、金光教、キリスト教が進出していた。当時の綾部は郡是製糸が明治二十九年(1896年)に綾部製糸が大正二年(1913年)にそれぞれ製糸工場を作っており、半農半商の田舎町から蚕糸を中心とする資本主義的商品経済の町へ急速に転換していた。

 三女・久を治癒したのが金光教亀岡教会長・大橋亀吉であり、これがなおと金光教の出会いとなる。明治二十五(1892)年一月三十日(辰年旧正月元旦)に五十六歳のなおは『艮の金神、元の国之常立神(くにのとこたちのかみ)』と宣言する神と出会う霊夢を見た。明治二十五(1892)年二月三日(旧正月五日)に本格的に『艮(うしとら)の金神』が帰神(神懸かり)した。この直に帰神(神懸り)した艮の金神こそ、この世界を創造・修理固成した元の親神である国常立尊である。大本では、この日を開教の日としている。

 明治三十一(1898)年八月、事前に幾度か啓示されていた上田喜三郎(王仁三郎)と初体面する。後に王仁三郎は大本事件における精神鑑定で『それは偉い人と思ひました、非常に人を圧する様な偉い人で、そして何とも言えない神様が憑いて居ると思ひました』となおの印象を語っている。

 大正七(1918)年十一月五日に出口なおは親しい信者数名に「今夜が峠」と呟き、遅くまで談笑した。翌日早朝に倒れ、大正七( 1918)年十一月六日午後十時三十分に逝去。八十一年の生涯を終えました。

伝記・評伝

出口なお――女性教祖と救済思想 (岩波現代文庫)

大本神諭・伊都能売神諭 他 (惟神叢書)

大本神諭火の巻 (東洋文庫)

出口なお・王仁三郎:世界を水晶の世に致すぞよ (ミネルヴァ日本評伝選)


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川村純義

概要

 川村純義(かわむら すみよし)天保七年丙申(ひのえさる33)十一月十一日(1836年12月18日)生誕 -明治三十七(1904)年八月十二日薨去(六十七歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の海軍軍人。階級は海軍大将。栄典は勲一等伯爵。通称は与十郎。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)十一月十一日(1836年12月18日)に父・薩摩藩士・川村与十郎の長男として生まれる。川村純義の妻・春子は椎原国幹の娘であり、椎原国幹の姉は西郷隆盛の母(政佐)であった。川村は西郷から実弟のように可愛がられたという。

西郷隆盛

 安政二(1855)年に江戸幕府が新設した長崎海軍伝習所へ一期生として、五大友厚などと共に薩摩藩より選抜されて入所。西郷との縁もあって重用され、慶応四(1868)年一月にはじまった戊辰戦争では薩摩藩四番隊長として各地に転戦。特に会津戦争に奮戦した。

五大友厚

 明治維新後は、明治政府の海軍整備に尽力、明治七年(1874年)に海軍ナンバー2である海軍大輔、海軍中将に任ぜられる。主要ポストを薩長閥が握る中で、川村は海軍の実質的指導者として諸事を取り仕切り、海軍創始期を担った。

 西南戦争にあたっては、私学校党の火薬庫襲撃直後、鹿児島に入り、県令・大山綱良と会談、制止に努めたが、私学校党幹部による妨害もあって不首尾に終わり帰京する。西南戦争後、参議・海軍卿に就任し、海軍整備を継続した。明治天皇からの信任が篤く、皇孫(後の昭和天皇)の養育を任じられた。

明治天皇
昭和天皇

 明治三十七(1904)年八月十二日に川村純義は薨去。六十七年の生涯を終えました。逝去後海軍大将に昇進。日本海軍で、戦死でなく死後大将に昇進したのは川村が唯一の例である。

伝記・評伝

川村純義・中牟田倉之助伝―明治海軍の創始者 (1944年)


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榎本武揚

概要

 榎本 武揚(えのもと たけあき)天保七年丙申(ひのえさる33)八月二十五日(1836年10月5日)生誕 -明治四十一(1908)年十月二十六日薨去(七十二歳)は、江戸時代末期の幕臣。化学者、外交官、政治家。通称、釜次郎、号は梁川(りょうせん)。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)八月二十五日(1836年10月5日)に江戸下谷御徒町柳川横町(現、東京都台東区浅草橋付近)で西丸御徒目付・榎本武規の次男として誕生。近所に住んでいた田辺石庵に入門し儒学を学んだ後、嘉永四年(1851年)に昌平坂学問所に入学。嘉永六年(1853年)に修了。

 安政元年(1854年)に榎本は箱館奉行・堀利煕(ほりとしひろ)の従者として蝦夷地箱館(現、北海道函館市)に赴き、蝦夷地・樺太巡視に随行。安政二年(1855年)に昌平坂学問所に再入学する(翌年七月退学)。同年長崎海軍伝習所の聴講生となった後、安政四年(1857年)に第二期生として入学。海軍伝習所では、カッテンディーケやポンペらから機関学、化学などを学んだ。カッテンディーケは伝習所時代の榎本を高く評価していた。安政五年(1858年)に海軍伝習所を修了し、江戸の築地軍艦操練所教授となる。また、この頃、ジョン万次郎の私塾で英語を学び、大鳥圭介と出会う。

ジョン万次郎
大鳥圭介

 文久元(1861)年十一月に幕府はアメリカに蒸気軍艦3隻を発注するとともに、榎本・津田真道・西周らをアメリカへ留学させることとした。しかし、南北戦争の拡大によりアメリカ側が断ったため、文久二(1862)年三月にオランダに蒸気軍艦1隻(開陽丸)を発注することとし、留学先もオランダへ変更となった。

津田真道
西周

 慶応二年七月十七日(1866年8月26日)に開陽丸が竣工し、同年十月二十五日(1866年12月1日)に榎本ら留学生は開陽丸とともにオランダ・フリシンゲン港を出港、リオデジャネイロ・アンボイナを経由して、慶応三(1867)年三月二十六日に横浜港に帰着した。

 慶応三年五月十日(1867年4月30日)に榎本は幕府に召し出され、100俵15人扶持、軍艦役・開陽丸乗組頭取(艦長)に任ぜられる。同年七月八日(1867年8月7日)に軍艦頭並となる。同年九月十九日(1867年10月6日)に軍艦頭となり、和泉守を名乗る。同年、たつと結婚した。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いが勃発。榎本は富士山丸に乗り、同年一月十二日(1868年2月5日)に大阪湾を出港、同年一月十五日(同年2月8日)に江戸に到着した。同年一月二十三日(同年2月16日)に榎本は海軍副総裁に任ぜられる。榎本は徹底抗戦を主張したが、恭順姿勢の徳川慶喜は採り上げず、海軍総裁の矢田堀も慶喜の意向に従い、榎本派が旧幕府艦隊を支配した。

徳川慶喜

 慶応四年八月十五日(1868年9月30日)に徳川家達が駿府に移り移封が完了すると、榎本は同年八月十九日(同年10月4日)、抗戦派の旧幕臣とともに開陽丸他、8艦からなる旧幕府艦隊を率いて江戸を脱出し、奥羽越列藩同盟の支援に向かった。この艦隊には彰義隊や遊撃隊の生き残りら総勢2,000余名が乗船していた。江戸脱出に際し、榎本は「檄文」と「徳川家臣大挙告文」という趣意書を勝海舟に託している。

徳川家達
勝海舟

 榎本は明治二年五月十七日(1869年6月26日)に榎本ら旧幕府軍幹部は亀田八幡宮近くの民家で黒田清隆らと会見し降伏約定を取り決め、同年五月十八日(1869年6月27日)朝、亀田の屯所に出頭し降伏した。

黒田清隆

 明治五年一月六日(1872年2月14日)に榎本は特赦により出獄。親類宅で謹慎する。同年三月六日(同年4月13日)に放免となり、同年同月八日(同年同月15日)に黒田が次官を務めていた開拓使に四等出仕として任官、北海道鉱山検査巡回を命じられた。

 明治十八(1885)年十二月二十二日、内閣制度が発足。榎本は第一次伊藤内閣の逓信大臣に就任する。明治二十(1887)年五月二十四日に勲功をもって子爵に叙される。明治二十一(1888)年四月三十日に黒田内閣が誕生すると、逓信大臣に留任するとともに、それまで黒田が務めていた農商務大臣を井上馨が後任となる同年七月二十五日まで兼任した。同年に電気学会を設立、初代会長となる。

 明治四十一(1908)年十月二十六日に榎本武揚は七十二年の生涯を終えました。

伝記・評伝

榎本武揚 作品全集

榎本武揚と明治維新――旧幕臣の描いた近代化 (岩波ジュニア新書)

人生を二度生きる――小説 榎本武揚 (祥伝社文庫)

合本 武揚伝 決定版(上中下) (中公文庫)


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川田小一郎

概要

 川田小一郎(かわだこいちろう)天保七年丙申(ひのえさる33)八月二十四日(1836年10月4日)生誕 -明治二十九(1896)年十一月十七日逝去(六十歳)は、実業家、政治家。男爵。三菱の創設者のひとり。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)八月二十四日(1836年10月4日)に 、土佐国土佐郡旭村(現、高知県高知市)で土佐藩郷士・川田家に誕生。正規の教育はまったく受けていないが、小一郎は理財の才を認められ、藩の会計方に登用される。藩営土佐商会で勧業・鉱山・通商の事務を担当する。

 明治三年(1870年)に小一郎は藩営の海運業社九十九商会の民営化に伴い、高級幹部(管事)として、石川七財と共に社主の岩崎弥太郎を補佐した。高島炭鉱など鉱山開発、共同運輸との海運業の覇権を巡る抗争など、常に先頭に立って三菱を率いた。

岩崎弥太郎

 明治十八年(1885年)の弥太郎死後、小一郎は新たに三菱を率いた岩崎弥之助を助け、鉱山業、造船業など基幹産業への集中投資を推進するなど、今日に至る繁栄の礎を築いた。のち、岩崎久弥がアメリカ留学を終えて副社長職に就任するや、世代交代の必要性を唱えて経営の第一線から退く。

岩崎弥之助

 明治二十二(1889)年九月三日に小一郎は松方正義の推薦で第三代日本銀行総裁に就任。川田の日銀総裁としての権勢は絶大で、「日銀の法王」と呼ばれた。株主総会の日以外は出勤せず、行員を牛込の私邸に呼びつけ、当時大蔵大臣であった渡辺国武も私邸に呼びつけたといわれる。明治二十三年(1890年)の経済恐慌を乗り切るなど、日銀の中央銀行としての機能を確立し、日清戦争時には財政・金融の維持に尽力した。帝国議会成立に際しては貴族院勅撰議員を兼任した。明治二十八(1895)年十月三十一日に男爵に叙せられた。

 明治二十九(1896)年十一月十七日に川田小一郎は六十年の生涯を終えました。


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加藤弘之

概要

 加藤 弘之(かとう ひろゆき)天保七年丙申(ひのえさる33)六月二十三日(1836年8月5日)生誕 -大正五(1916)年二月九日薨去(七十九歳)は江戸時代末期の幕臣。明治時代の政治学者、教育者。学位は文学博士・法学博士。旧名・誠之(あきゆき)、通称・弘蔵(こうぞう)。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)六月二十三日(1836年8月5日)に但馬国出石藩(現、兵庫県豊岡市)の藩士として同藩家老を務めた加藤家の加藤正照と、妻・錫子の長男として誕生。幼名は土代士(とよし)。

 藩校弘道館で学んだ後、長崎英語伝習所(ながさきえいごでんしゅうじょ:済美館)や致遠館(ちえんかん)でグイド・フルベッキの門弟として学ぶ。維新後は新政府に仕える身となる。

グイド・フルベッキ

 外務大丞、元老院議官、勅撰貴族院議員などを歴任、獨逸語学教会学校の第二代校長、旧東京大学法・理・文3学部の綜理を務め、のち帝国大学(現・東京大学)第二代総長を務めた。大日本教育会名誉会員。明六社会員。男爵、初代帝国学士院院長、枢密顧問官。

獨逸語学教会学校
帝国大学

 大正五(1916)年二月九日に加藤弘之は薨去。七十九年の生涯を終えました。

伝記・評伝

<優勝劣敗>と明治国家 加藤弘之の社会進化論

進化学より見たる哲学


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山岡鉄舟

概要

 山岡 鉄舟(鐵舟:やまおか てっしゅう)天保七年丙申(ひのえさる33)六月十日(1836年7月23日)生誕-明治二十一(1888)年七月十九日薨去(五十一歳)は、江戸時代末期の幕臣。明治時代の政治家、思想家。剣・禅・書の達人。「幕末の三舟」のひとり。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)六月十日に江戸本所で父・小野高福、母・塚原磯の四男として誕生。九歳より久須美閑適斎より神陰流(直心影流)剣術を学ぶ。弘化二年(1845年)に飛騨郡代となった父に従い、幼少時を飛騨高山で過ごす。弘法大師流入木動(じゅぼくどう)五十一世の岩佐一亭に書を学び、十五歳で五十二世を受け継ぎ、一楽斎と号す。

 嘉永五年(1852年)に父の死に伴い江戸へ帰る。井上清虎の援助により安政二年(1855年)に講武所に入り、千葉周作らに剣術、山岡静山に忍心流槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれて、静山の妹・英子(ふさこ)と結婚し山岡家の婿養子となる。

高橋泥舟

 山岡鉄舟は江戸幕府により浪士組が結成され、取締役となる。文久三年(1863年)に徳川家茂の先供として上洛するが、間もなく清河の動きを警戒した幕府により浪士組は呼び戻され、これを引き連れ江戸に帰る。清河暗殺後は謹慎処分。

徳川家茂

 鉄舟は慶応四年(1868年)に新たに設立された精鋭隊歩兵頭格となる。江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、徳川慶喜の使者として三月九日官軍の駐留する駿府(現、静岡市葵区)の松崎屋源兵衛宅で西郷と面会して交渉する。大枠を妥結して、江戸無血開城の立役者となった。

勝海舟
西郷隆盛
徳川慶喜

 明治維新後、鉄舟は徳川家達に従い、駿府に下る。 明治四年(1871年)に廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡県大参事、茨城県参事、伊万里県権令を歴任した。明治五年(1872年)に宮中に出仕し、侍従として明治天皇に仕える。区内大丞、宮内少輔を歴任した。

 山岡鉄舟は明治二十一年(1888)年七月十九日九時十五分、皇居に向かって結跏趺坐(けっかふざ)のまま絶命。五十一年の生涯を終えました。

伝記・評伝

山岡鉄舟〈決定版〉

活学新書 山岡鉄舟 修養訓

山岡鉄舟 (禅ライブラリー)

山岡鉄舟の武士道 (角川ソフィア文庫)


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荒井郁之助

概要

 荒井 郁之助(あらい いくのすけ)天保七年丙申(ひのえさる33)四月二十九日(1836年6月12日)生誕 -明治四十二(1909)年七月十九日逝去(七十三歳)は、江戸時代末期の幕臣。明治期の官僚。初代中央気象台長。幼名は幾之助。諱は顕徳(あきのり)、後に顕理(あきよし)。

経歴

 天保七年丙申(ひのえさる33)四月二十九日(1836年6月12日)に 江戸・湯島天神下上手代町(現、東京都文京区)の組屋敷に生まれる。父は幕府御家人で後年に関東群代付の代官を務めた荒井清兵衛(顕道)の長男として誕生。荒井家には曾祖母・祖父母・2人の叔父、一人の叔母が同居する大家族であった。

 郁之助は七歳より隣家に住む六笠弘太郎や叔父の矢田堀景蔵(鴻)を師として漢学・儒学を学び、素読を始める。内山の私宅で素読を行う。十四歳で湯島の昌平坂学問所に入学する。十二歳より叔父の薦めで、下谷御徒町に道場を持つ直心影流の石川瀬平治に剣術を学び、日置流・伴道雪派と言われる鵜殿十郎左衛門から弓術を学び、神田橋の渡辺半十郎から高麗流八条家の馬術を学ぶ。十八歳より西洋砲術を学びはじめ、二十歳で幕府出仕(100俵10人扶持)。郁之助は蘭学を修めた後、軍艦操練所教授を命じられた。

昌平坂学問所

 郁之助は航海術・測量術・数学を学ぶ。文久二(1862)年九月に軍艦操練所頭取に就任。元治元(1864)年四月に講武所頭取を命じられたため海軍職を一時離れ、慶応元年(1865年)に歩兵差図役頭取となり、横浜で大鳥圭介と共にフランス式軍事伝習を受け、慶応三(1867)年五月に歩兵頭並に進級した。

大鳥圭介

 慶応四(1868)年一月に郁之助は軍艦頭を命じられて海軍職に復帰、海軍副総裁榎本武揚らと共に新政府軍支配下に置かれた江戸を脱出、箱館戦争に参戦する。箱館政権(俗に蝦夷共和国)では海軍奉行となり、宮古湾海戦および箱館湾海戦で戦う。降伏後は死刑を免れて榎本らと共に開拓使の役人として新政府に出仕し、明治九(1876)年六月に辞任して開拓使仮学校・女学校校長を勤める。

榎本武揚

 気象学・翻訳に励み、後に明治二十年(1887年)に新潟県の永明寺山(現、新潟県三条市)において皆既日食の観測を行う観測隊を率い、観測隊に参加した杉山正治が日本で初めて太陽コロナの写真撮影を成功させている。明治二十三(1890)年八月に初代中央気象台長に就任した。

 明治四十二(1909)年七月十九日に荒井郁之助は七十三年の生涯を終えました。

伝記・評伝

荒井郁之助 (人物叢書)

荒井郁之助伝―北海道教育の先駆者 (1967年)


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松平容保

概要

 松平 容保(まつだいら かたもり)天保六年丙申(ひのえさる33)十二月二十九日(1836年2月15日)生誕-明治二十六(1893)年十二月五日薨去(五十七歳)は、江戸時代末期の会津藩主。京都守護職。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十二月二十九日(1836年2月15日)に江戸四谷土手三番丁の高須藩邸で藩主・松平義建の六男(庶子)として誕生。母は側室の古森氏。幼名は銈之允。

 弘化三(1846)年四月二十七日に実の叔父(父の弟)にあたる会津藩第八代藩主・容敬の養子となり、和田倉門内、会津松平家上屋敷に迎えられる。「お子柄がいい」と会津家の男女が騒ぐほど美貌の少年だったという。

 藩主容敬より会津の家風に基づいた教育を施されることになる。それは神道(敬神崇祖における皇室尊崇)、儒教による「義」と「理」の精神、そして会津藩家訓による武家の棟梁たる徳川家への絶対随順から成り立っており、のちの容保の行動指針となった。

 万延元年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外の変が起こる。老中久世広周・安藤信正は尾張と紀伊に水戸家問罪の兵を出させようとしたが、容保はこれに反対し、徳川御三家同士の争いは絶対不可なるを説き、幕府と水戸藩との調停に努めた。問題となっていた水戸家への直接の密勅の返還問題に着手する。家臣を水戸に派遣し、容保は委細を幕府に言上し言いなだめ、一滴の血も流さずして勅書を返上せしめ、解決に至らせた。

 松平容保は京都守護職就任を打診されたが断り続けた。政治総裁職松平春嶽や幕臣たちは日夜勧誘に来た上で、会津藩家訓を持ち出し「土津公(保科正之)ならばお受けしただろう」と言って詰めより、辞する言葉もなくなり奉命を決心する。文久二年閏八月一日(1862年9月24日)に京都守護職に就任する。

松平春嶽

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に徳川慶喜が明治天皇へ政権返上を奏上した。翌十五日に天皇が奏上を勅許した(大政奉還)。大政奉還を受け、慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より「王政復古の大号令」が発せられ、江戸幕府が廃止となる。この勅をもって守護職と京都所司代は廃止され、容保に帰国が命じられた。

徳川慶喜
明治天皇

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に、鳥羽伏見の戦いが勃発する。同年一月六日(同年1月30日)に徳川慶喜が戦線から離脱し、夜に紛れて幕府軍艦で江戸へ下った。容保は慶喜の命により、これに随行することになる。同年二月四日(同年2月26日)に容保は大坂脱出の責任を取るため藩主を辞任し、家督を養子である喜徳(慶喜の実弟)に譲る。

 慶応四年二月十六日(1868年3月9日)に会津・桑名を朝敵とする勅命が下り、慶喜より江戸城登城の禁止と江戸追放を言い渡される。容保は江戸を発し、会津へ向かう。江戸詰めの藩士や婦女子も、会津の人間のほとんどが江戸を後にした。同年二月二十二日(同年3月15日)、会津に到着する。容保は謹慎して朝廷の命を待つ。会津は武装防衛と降伏嘆願の2方向へ動く。

 明治元年九月二十二日(1868年11月6日)に会津藩降伏、鶴ヶ城開城。容保は妙国寺へ移される。同年十月十九日(同年12月2日)に容保、会津を発し江戸へ護送され、池田邸に永預けとなる。

 明治二年六月三日(1869年7月11日)に容保の実子、慶三郎(容大)が生まれる。同年十一月四日(同年12月6日)に容大に家名相続が許され、華族に列し子爵を授かり、陸奥国三万石の支配を命じられる。同年十二月七日(1870年1月8日)、容保は和歌山藩へ預け替えとなる。

 明治3年五月十五日(1870年6月13日)に容大が斗南藩知事に任じられ、五戸(現、青森県)へ向かうこととなる。明治四年(1871年)に容保も斗南藩に預け替えとなり、七月から八月の約一カ月間、田名部にて居住するが、その後東京へ移住する。明治五年一月(1872年2月)蟄居を許される。

 明治十三(1880)年二月に容保は日光東照宮の宮司に任じられる。三月、上野東照宮祠官を兼務する。明治二十六(1893)年十二月五日に松平容保は五十七年の生涯を終えました。

伝記・評伝

幕末会津藩 松平容保の慟哭―北方領土を守った男たちの最期

会津の義 幕末の藩主松平容保 (集英社文庫)

幕末の悲劇の会津藩主 松平容保 (新人物文庫)


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五代友厚

概要

 五代友厚(ごだい ともあつ)天保六年丙申(ひのえさる33)十二月二十六日(1836年2月12日)生誕-明治十八(1885)年九月二十五日逝去(四十九歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士。明治時代の実業家。

経歴

 天保六年乙未(きのとひつじ32)十二月二十六日(1836年2月12日)に薩摩藩士記録奉行である父五代直左衛門秀尭の次男として薩摩国鹿児島城下で誕生。質実剛健を尊ぶ薩摩の気風の下に育てられ、八歳になると児童院の学塾に通い、十二歳で聖堂に進学して文武両道を学ぶ。

 十四歳のとき、琉球交易係を兼ねていた父親が奇妙な地図を広げて友厚を手招いた。見せたものは、藩主・島津斉興(しまづなりおき)がポルトガル人から入手した世界地図だった。友厚は父からこの世界地図の複写を命じられる。友厚は地図を2枚複写しそのうちの1枚を自分の部屋に貼った。

 安政元年(1854年)にマシュー・ペリーが浦賀沖に来航し天下は騒然となる。その折、五代は「男児志を立てるは、まさにこのときにあり」と奮いたったと記されてある。兄が鎖国論者にも関わらず、開国論者の立場に立つ。その翌年、長崎海軍伝習所へ藩伝習生として派遣され、オランダ士官から航海術を学ぶ。

マーシュ・ペリー

 文久二年(1862年)に友厚は水夫として幕府艦千歳丸に乗船し上海に渡航する。藩のために汽船購入の契約をした。文久三年七月(1867年8月)に生麦事件によって発生した薩英戦争では、3隻の藩船ごと松木洪庵(寺島宗則)と共にイギリス海軍の捕虜となる。友厚は横浜において、小舟にてイギリス艦を脱出し江戸に入府する。しばらく潜伏生活をし、長崎で出会った同じ薩摩藩士の野村盛秀の取り成しによって帰国を許された。

松木洪庵(寺島宗則)

 慶応元年(1865年)に藩命により寺島宗則や森有礼らとともに薩摩藩遣英使節団として英国に出発し、さらに欧州各地を巡歴した。慶応2年(1866年)に帰国した。御小納戸奉公格に昇進し薩摩藩の商事を一手に握る会計係に就任。長崎のトーマス・グラバーと合弁で長崎小菅にドックを開設するなど実業家の手腕を発揮し始めた。

森有礼
トーマス・グラバー

 明治元年(1868年)に明治新政府の参与職外国事務掛となる。外国官権判事、大阪府権判事兼任として大阪に赴任し、外交処理にあたった。また、大阪に造幣寮(現・造幣局)を誘致。初代大坂税関長となり、大阪税関史の幕を開ける。

 明治二年(1869年)の退官後、硬貨の信用を高めるために金銀分析所を設立。紡績業・鉱山業・製塩業・製藍業などの発展に尽力する。薩長藩閥政府との結びつきが強く、明治八年(1875年)に大久保利通、木戸孝允、板垣退助らが料亭に集って意見の交換を行った「大阪会議」や、黒田清隆が批判を浴びた開拓使官有物払下げ事件(明治十四年の政変)に関わり、政商といわれた。

大久保利通
木戸孝允
板垣退助
黒田清隆

 五代友厚は明治十八(1885)年九月二十五日に逝去。四十九年の生涯を終えました。

伝記・評伝

五代友厚 (河出文庫)

新・五代友厚伝 近代日本の道筋を開いた富国の使徒

五代友厚 士魂商才 (ハルキ文庫)

五代友厚――蒼海を越えた異端児 (潮文庫)


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