広沢真臣

広沢 真臣

概要

 広沢真臣(ひろさわさねおみ)天保四年甲午(きのえうま31)十二月二十九日(1834年2月7日)生誕 -明治四年辛未(かのとひつじは8)一月九日(1871年2月27日)薨去(三十七歳)は、江戸時代末期の長州藩士、政治家。初名は直温。障岳。号は向山。維新の十傑の一人。長州藩の旗手。

経歴

 天保四年甲午(きのえうま31)十二月二十九日(1834年2月7日)に長州藩士・柏村安利の四男として誕生しました。弘化元年(1844年)に長州藩士・波多野直忠の婿養子となって波多野金吾と称しました。

 元治元年(1864)年に長州藩は禁門の変、下関戦争、第一次長州征討と災難が続きました。藩内の政権闘争で主戦派(正義派)が恭順派(俗論派)に敗れた結果、波多野も投獄されたものの、正義派でなかったために処刑を免れました。慶応元年(1865年)に高杉晋作らの正義派(主戦派)がクーデターによって藩の実権を掌握すると、中間派であった波多野が政務役として藩政に参加することになりました。波多野は藩命によって広沢藤右衛門と改名し、さらに広沢兵助と改名しました。

高杉晋作

 慶応二年(1866年)の第二次征長の講和交渉では、広沢は幕府側の勝海舟と安芸厳島で交渉しました。同年に坂本龍馬や薩摩の五代友厚と会談して「商社示談箇条書」を作成し薩長国産貿易商社の設立に尽力しました。倒幕活動を推進した。

勝海舟
坂本龍馬
五代友厚

 維新政府の発足後は、参与や海陸軍、東征大総督参謀を務めました。その後、内国事務掛や京都府御用掛、参議を歴任しました。民部大輔や参議の要職を務めました。

 広沢真臣は明治四年一月九日(1871年2月27日)に東京府麹町富士見町私邸での宴会後の深夜、刺客の襲撃によって暗殺されました。三十七年の生涯を終えました。

広沢真臣日記 (復刻版)

参議暗殺 (双葉文庫)


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東久世通禧

東久世通禧

概要

 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ)天保四年甲午(きのえうま31)十一月二十二日(1834年1月1日)生誕 – 明治四十五(1912)年壬子(みずのえね49)一月四日薨去(七十八歳)は、江戸時代末期の公家。明治の政治家。

経歴

 天保四年甲午(きのえうま31)十一月二十二日(1834年1月1日)に東久世通徳(ひがしくぜみちなる)の子として京都で誕生しました。

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に八月十八日の政変によって、朝廷の実権が尊皇攘夷派から公武合体派に移りました。東久世通禧は三条実美らとともに長州に逃れました(「七卿落ち」)。元治元年(1864年)に長州から大宰府に移されました。

三条実美

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられました。通禧は復権を果たしました。慶応四年一月十七日(1868年2月10日)に外国事務総督となり、明治政府最初の外交問題である神戸事件の対応責任者となり伊藤博文と共に外国と協議しました。

明治天皇
伊藤博文

 慶応四年三月十九日(1868年4月11日)に横浜裁判所総督となりました。通禧の在任した半年の間に神奈川裁判所総督、神奈川府知事と名称が変遷しました。

 明治二年八月二十五日(1869年9月30日)に第二代開拓長官に任命されました。同年九月二十五日(同年10月25日)に開拓使吏員、農工民約200人をともない、イギリスの雇船テールス号で箱館に帰港しました。

 明治四年十月十五日(1871年11月27日)に侍従長に転じました。同年12月23日(同年11月12日)から岩倉使節団の理事官として随行しました。

  明治四十五(1912)年一月四日に東久世通禧は薨去。七十八年の生涯を終えました。

東久世通禧日記 上巻


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土方 久元

概要

 土方 久元(ひじかた ひさもと)天保四年癸巳(みずのとみ30)十月十二日(1833年11月23日)生誕-大正七(1918)年戊午(つちのえうま55)十一月四日薨去(八十四歳)は、土佐藩士、政治家。幼名は大一郎。通称、楠左衛門。号は秦山。栄典は正二位勲一等伯爵。

経歴

 天保四年癸巳(みずのとみ30)十月十二日(1833年11月23日)に土佐藩上士・土方久用(200石)の長男として誕生しました。

 安政四年(1857年)に江戸へ遊学して儒者・大橋 訥庵(おおはし とつあん)から尊王攘夷の思想を学びました。土佐に帰国後、武市瑞山(たけち ずいざん)らが結成した土佐勤王党に参加しました。

武市 瑞山(半平太)

 土方久元は文久三年(1863年)に藩命により京都に上洛しました。長州藩や諸藩の勤王の志士と交流しました。公家の三条実美の知遇を得て、徴士学習院出仕を命ぜられました。しかり同年に八月十八日の政変が起き、長州藩と三条らは失脚し京から追放されました。久元は「七卿落ち」の公家と共に長州へ下りました。

三条実美

 同じ土佐浪士の坂本龍馬や中岡慎太郎と連係し、薩長同盟の仲介に尽力しました。

坂本龍馬
中岡慎太郎

 明治維新後は新政府に仕え、東京府判事、鎮将府弁事に任命されました。その後、宮中職の履歴が多く、皇権伸張(天皇親政)を主唱し、宮中保守派と目せられました。

 明治十八年(1885年)の内閣制度発足に際して、第一次伊藤内閣の農商務大臣として入閣しました。明治二十(1887)年九月、宮内大臣に転じ、以後11年に渡って宮内大臣の職務にありました。

 晩年は帝室制度調査局総裁、皇典講究所長などを経た後、教育関連の仕事に従事しました。聖徳講話などを行い国民の教化に尽力し、國學院大學長、東京女子館長などを務めました。また、明治天皇が崩御後、臨時帝室編修局総裁の職に就き『明治天皇紀』の編纂に尽力しました。

明治天皇

 土方久元は大正七(1918)年十一月四日薨去。八十四年の生涯を終えました。

土方久元日記 明治十四年


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木戸孝允(桂小五郎)

木戸孝允(桂小五郎

概要

 木戸 孝允(きど たかよし)天保四年癸巳(みずのとみ30)六月二十六日(1833年8月11日)生誕 – 明治十(1877)年丁丑(ひのとうし14)五月二十六日薨去(四十三歳)は、江戸時代末期の長州藩士、革命家。和田 小五郎(わだ こごろう)、桂 小五郎(かつら こごろう)。明治維新の指導者として活動し、維新の三傑の一人。

経歴

 天保四年癸巳(みずのとみ30)六月二十六日(1833年8月11日)に長門国萩城下呉服町(現、山口県萩市)で藩医・和田昌景の長男として誕生しました。病弱で長生きしないと思われておりました。天保十一年(1840年)に向かいの桂家の末期養子となりました。

 嘉永元年(1848年)に元服して和田小五郎から大組士・桂小五郎となりました。嘉永二年(1849年)に吉田松陰から山鹿流兵学を学びました。松陰と師弟関係であると同時に親友関係となりました。

吉田松陰

 嘉永五年(1852年)に剣術修行を名目とする江戸留学を決意し、藩に許可され、5名の藩費留学生たちと他1名の私費留学生に随行し、私費で江戸に上府しました。江戸では三大道場の一つ、練兵館(神道無念流)に入門し、斎藤新太郎の指南を受けました。免許皆伝を得て、入門1年で塾頭となりました。藩命で帰国するまでの5年間練兵館の塾頭を務め、剣豪としての名を天下に轟かせました。

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)17時にアメリカ合衆国海軍東インド艦隊のマシュー・ペリーが率いる艦船4隻が浦賀沖に現れ、停泊しました。幕府は海防の必要性を実感し、雄藩に軍船の建造を要請しました。長州藩は大森海岸の警備を命じられており、その際に小五郎は藩主・毛利敬親の警固隊の一員に任じられました。

毛利敬親

 海外の脅威を目の当たりにした小五郎は、その後直ちに練兵館道場主の斎藤弥九郎を通して江川英龍に弟子入りし、海岸線の測量やお台場建設を見学し、兵学・砲術を学ぶことにしました。

 安政五年八月(1858年9月)に小五郎は、長州藩江戸藩邸の大検使役に任命されました。吉田松陰が人材登用のために小五郎を藩上層部に熱心に推薦しました。同年十月(同年11月)に結婚のため萩に戻りました。

 安政六年十月二十七日(1859年11月21日)に小五郎の師、吉田松陰がが処刑されました。小五郎は、伊藤博文らと共に遺体をひきとり、埋葬しました。

伊藤博文

 文久二年一月十五日(1862年2月13日)に坂下門外の変が起きました。その事件に関わるはずだったが遅刻して参加できなかった水戸浪士の川辺左治右衛門が小五郎のもとを訪ね、切腹死しました。坂下門外の変との関わりを幕府から追及された小五郎であったが、「航海遠略策」の提唱の長州藩士、長井雅樂の尽力によって釈放されました。

長井雅樂

 文久二年(1862年)に小五郎は、周布政之助、久坂玄瑞たちと共に、吉田松陰の「航海雄略論」を採用し、長井雅樂の「航海遠略策」を退けました。長州藩の藩論は開国攘夷に決定付けられました。異勅屈服開港しながらの鎖港鎖国攘夷という幕府の路線は論外として退けられました。

周布政之助
久坂玄瑞

 欧米への留学視察、欧米文化の吸収、その上での攘夷の実行という基本方針が長州藩開明派上層部において定着し、文久三年五月十二日(1863年6月27日)に長州藩から英国への伊藤博文を含む秘密留学生5名が横浜から出帆しました。

 孝明天皇の強い要望により徳川家茂は文久三年五月十日(1863年6月25日)をもっての攘夷実行を約束しました。それを受け、長州藩は馬関海峡(現、関門海峡)を通過する外国船への砲撃を実施しました。

孝明天皇
徳川家茂

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に、「八月十八日の政変」が起きました。三条実美ら急進的な尊攘派公家と長州藩士が京都から追放されました(七卿落ち)。長州藩士は京都留守居役3人を除いて在京を禁じられました。小五郎は変名を使い京都内を潜伏しながら情報収集と長州藩復権工作を続けました。しかし奏功せず一旦帰藩しました。

三条実美

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に京都から追放されていた長州藩勢力が京都守護職の松平容保らの排除を目的に、京都御所の西にある蛤御門付近で長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突し戦闘が勃発しました(禁門の変)。激しい戦闘の結果、長州藩勢力は敗北しました。その後会津藩による長州藩士の残党狩りが盛んになり、小五郎は但馬国出石(現、兵庫県出石町)に潜伏しました。

 元治元年八月五日(1864年9月5日)午後、四国連合艦隊は長府城山から前田・壇ノ浦にかけての長州砲台群に猛砲撃を開始しました。長州藩兵も応戦し善戦しましたが、火力の差が圧倒的であり、砲台は次々に粉砕、沈黙させられました。同年八月八日(同年9月8日)に戦闘で惨敗を喫した長州藩は講和使節の使者に高杉晋作を任じました。10日後、長州藩は四国連合艦隊の講和条件を受け入れ、講和が成立しました。

高杉晋作

 元治元年八月十三日(1864年9月13日)に 幕府が第一次長州征討を命じました。長州正義派は藩政権の座を降りました。不戦敗および三家老の自裁、その他の幹部の自決・処刑という対応で藩首脳部は責任を取りました。元治元年十二月二十七日(1865年1月24日)に征討軍総督の徳川慶勝は長州藩が恭順したため解兵令を発しました。

徳川慶勝

 その後、長州俗論派政権が正義派の面々を徹底的に粛清し始めました。しかし、高杉晋作率いる正義派軍部が反旗を翻し、軍事クーデターが成功したため、俗論派政権による政治が終わりました。出石より帰国した桂小五郎は長州藩の統率者として迎えられました。

 長州藩は土佐藩の坂本龍馬らに斡旋されて薩摩藩と秘密裏に薩長同盟を結びました。小五郎は長州の代表として薩摩の小松帯刀、大久保利通、西郷隆盛らと薩摩、長州でたびたび会談して同盟を不動のものにして行きました。

坂本龍馬
小松帯刀
大久保利通、
西郷隆盛

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊により屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、第二次長州征討が勃発しました。薩長同盟を介した秘密貿易で武器や艦船を購入し、近代的な軍制改革が施されていた長州軍の士気は、極めて高かった。

 慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に第二次長州征討に出陣し、大坂城にいた将軍・徳川家茂が急病のため、薨去されました。幕府軍は家茂の死を公にした上で朝廷に働きかけ、休戦の勅命を発してもらいました。

 慶応二年十二月二十五日( 1867年1月30日)に孝明天皇が崩御されました。慶応三年一月九日( 1867年2月13日)に睦仁親王が、満十四歳で践祚されました。慶応四年一月十五日(1868年2月8日)に元服し同年八月二十七日(同年10月12日)に即位を内外に宣明しました。

 慶応四年一月十五日(1868年2月8日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、新政府が成立しました。木戸孝允は戊辰戦争を経て、明治新政府の要職に就きました。

 木戸は明治四年十一月十二日(1871年12月23日)から明治六(1873)年九月十三日まで、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国を岩倉具視を団長とする使節団に副使として派遣されました。

 木戸孝允は明治十(1877)年五月二十六日に薨去。四十三年の生涯を終えました。

伝記・評伝

木戸孝允 (幕末維新の個性 8)

木戸孝允と幕末・維新: 急進的集権化と「開化」の時代1833~1877 (プリミエ・コレクション)


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矢嶋楫子

矢嶋楫子

概要

 矢島 楫子(やじま かじこ)天保四年癸巳(みずのとみ30)四月二十四日(1833年6月11日)生誕 – 大正十四(1925年)年乙丑(きのとうし2)六月十六日逝去(九十二歳)は、明治と大正の女子教育者、社会事業家。

経歴

 天保四年癸巳(みずのとみ30)四月二十四日(1833年6月11日)に肥後国上益城郡津森村杉堂(現、熊本県上益城郡益城町)の惣庄屋の父・矢島忠左衛門直明と母・鶴の1男7女の6女(末子)として誕生しました。かつと命名されました。

 三女・順子は横井小楠の高弟の竹崎茶堂と結婚し、熊本女学校校長となりました。順子のすぐ下の姉・久子も同じく横井小楠の高弟である徳富一敬と結婚して、湯浅初子、徳富蘇峰、徳富蘆花の兄弟を生んでいる。すぐ上の姉つせ子は横井小楠の後妻となりました。この姉妹4人は「肥後の猛婦」、「四賢婦人」と呼ばれました。

横井小楠
徳富蘇峰
徳富蘆花

 かつは後妻として横井小楠の弟子の林七郎と結婚しました。林は酒乱で家族へ乱暴をはたらきました。かつは林の乱暴に耐えられず、林の連れ子の達子と家出しました。

 かつは達子を置いて上京を決意しました。長崎発東京行きの蒸気船に乗船し、船上にて自ら「楫子」と改名しました。楫子は向学心から教員伝習所に入所しました。卒業後、訓導試験に合格した楫子は芝の桜川小学校(現、港区立御成小学校)に採用されました。

 楫子は妻子持ちの書生との間に女児を宿しました。楫子は妙子と名付け、練馬の農家に預けました。その頃、熊本に残してきた長子の治定がキリスト教徒になったのを知り驚きました。甥の横井時雄、徳富蘇峰、徳富蘆花もキリスト教徒になっておりました。彼らの一部は、京都の同志社に入学しました。楫子は寂しさでタバコを覚えました。悩める楫子にとってもキリスト教はわが子の信じる宗教であり、キリスト教に関心を寄せました。

 明治十一年(1878年)に楫子は後半生に多大な影響を受ける米国の宣教師で教育者のマリア・ツルー夫人と運命的に出会いました。築地居留地にある清栄女学校の教師に請われ、住み慣れた下宿を引き払い、同女学校寄宿舎舎監室に引っ越しました。

 矢島楫子は吸いかけのタバコによって、ぼや騒ぎを起こして禁煙を決意しました。明治十二年(1879年)に築地新栄教会で洗礼を受けましたる。同時期に三人の姉も洗礼を受けました。明治二十三年(1890年)に楫子は櫻井女学校と新栄女学校が合併して女子学院となり、初代院長に就任しました。

 楫子は婦人矯風運動(禁酒運動)に率先して参加するようになりました。明治十九年(1886年)に米国の禁酒運動家メアリー・レビット夫人来日を期に、東京キリスト教婦人矯風会を組織して初代会長に就きました。

 矯風事業に尽くす楫子の情熱は日本に止まらず日本国外にも向かい、明治三十九(1906年)に七十四歳で渡米して、万国矯風会第7回大会に出席しました。そのときにアメリカ25代大統領のセオドア・ルーズベルトと会見しました。楫子が八十九歳のときに、三度目の渡米を果たしました。

 矢島楫子は大正十四(1925年)年六月十六日に九十二年の生涯を終えました。

伝記・評伝

矢嶋楫子の生涯と時代の流れ (熊日新書)

三浦綾子 電子全集 われ弱ければ-矢嶋楫子伝

白いリボン―矢嶋楫子と共に歩む人たち


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大鳥圭介

大鳥圭介

概要

 大鳥圭介(おおとり けいすけ)天保四年癸巳(みずのとみ30)二月二十五日(1833年4月14日)生誕 – 明治四十四(1911)年辛亥(かのとい48)六月十五日薨去(七十八歳)は、江戸時代末期の幕臣、医師、蘭学者。明治時代の教育者、政治家。位階勲等爵位は正二位勲一等男爵。

経歴

 天保四年癸巳(みずのとみ30)二月二十五日(1833年4月14日)に播磨国赤穂郡赤松村(現、兵庫県赤穂郡上群町岩木丙石戸)の医師・小林直輔の子として誕生しました。幼名、慶太郎。

 閑谷学校(しずたにがっこう)で5年間、漢学、儒学、漢方医学を学びました。嘉永二年(1849年)に上郡に帰郷し、蘭方医・中島意庵の助手となりました。この頃名を圭介と改めました。圭介は嘉永五年五月二日(1852年6月19日)に上坂して緒方洪庵の適塾で蘭学と西洋医学を学びました。

閑谷学校
適塾

 安政元年(1854年)に圭介は適塾時代の仲間と共に江戸に出府しました。坪井塾で塾頭となり、軍学、工学に関心が移るようになりました。この間、西洋式兵学や写真術を学びました。同時期に勝海舟と出会いました。

勝海舟

 安政四年(1857年)に圭介は縄武館(江川塾)に兵学教授として招かれました。中浜万次郎に英語を学びました。安政五年(1858年)に服部元彰の紹介で故郷を領地とする尼崎藩で8人扶持で取り立てられ「藩士」となりました。安政六年(1859年)に蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)へ出仕しました。安政七年(1860年)『砲科新編』翻訳出版。日本で初の合金製活版を作りました。大鳥活字と呼ばれました。

中浜万次郎(ジョン万次郎)

 文久元年十二月(1862年1月)に圭介は江川英敏の推挙により、御鉄砲方附蘭書翻訳方出役として出仕しました。文久三年八月二十日(1863年10月2日)に海陸軍兵書取調方出役しました。開成所教授も兼務し、二院制議会の採用を幕府に建言しました。元治二年一月二十八日(1865年2月23日)に陸軍所に出仕した後は富士見御宝蔵番格として正式に「幕臣」に取り立てられ、旗本となりました。

 慶応三年一月(1867年2月)に圭介は幕府の勘定奉行・小栗忠順(おぐりただまさ)が主導する伝習隊に幕臣らとともに参加しました。圭介は歩兵隊長として士官教育を受けました。慶応四年二月二十八日(1868年3月21日)に陸軍の最高幹部である歩兵奉行に昇進しました。

小栗忠順

 江戸城が開城された慶応四年四月十一日(1868年5月3日)に圭介は伝習隊を率いて江戸を脱走し、仙台で榎本武揚と合流して蝦夷地に渡り、旧幕府軍の陸軍奉行となりました。明治二年五月十八日(1869年6月27日)に五稜郭で降伏したのち、東京へ護送され、軍務局糺問所へ投獄されました。

榎本武揚

 明治五年一月八日(1869年2月16日)に圭介は特赦により出獄後、新政府に出仕しました。左院少議官、開拓使5等出仕を経て、大蔵小丞の職を兼任しました。欧米各国を開拓機械の視察と公債発行の交渉の為に歴訪しました。

 圭介は明治七(1874)年三月に帰国後は、開拓使に戻りました。その後、陸軍大佐拝命を経て工部省四等出仕となりました。技術官僚として殖産興業政策に貢献しました。

 明治十年(1877年)に圭介は工部大学校が発足し校長に任命されました。明治十四(1881)年十二月三日に工部技監に昇進。勅任官となり技術者としては最高位になりました。明治十九(1886)年四月十日に学習院院長兼華族女学校校長に就任しました。

 明治二十二(1889)年六月三日に大鳥圭介は駐清国特命全権公使を拝命し、十一月に着任しました。明治二十六(1893)年七月に朝鮮公使を兼任し、翌年6月に朝鮮へ赴任しました。日清戦争開戦直前の困難な外交交渉に当たりました。明治二十七(1894)年十月十一日に公使解任。帰国後の同年寿一月十日に枢密顧問官に就任しました。明治三十三(1900)年五月九日に男爵を拝命しました。

 明治四十四(1911)年六月十五日に大鳥圭介は薨去。七十八年の生涯を終えました。


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小菅智淵

小菅智淵

概要

 小菅 智淵(こすげ ともひろ)天保三年壬辰(みずのえたつ29)十一月二十五日(1832年12月16日)生誕 – 明治二十一(1888)年戊子(つちのえね25)十二月十八日逝去(五十六歳)は、江戸時代末期の幕臣。明治時代の陸軍軍人。陸軍参謀本部初代陸地測量部長を務めました。

経歴

 天保三年壬辰(みずのえたつ29)十一月二十五日(1832年12月16日)に江戸牛込区山伏町(現、東京と新宿区市ヶ谷山伏町)で幕臣・関定孝の次男として生まれました。幼少時から昌平坂学問で学び、学問の他に武技も熱心に学びました。二十二歳の時、叔母の嫁ぎ先である旗本・小菅五郎兵衛の養子となりました。

昌平坂学問

 小菅は講武所に入り、士官としての軍事教育を受け幕府陸軍の歩兵差図役、同頭取となり、慶応四年三月十三日(1868年4月5日)に歩兵頭並に昇進し、工兵隊に転属となり、工兵頭並に転出しました。戊辰戦争では、幕臣として新政府軍と戦い、箱館戦争で捕縛されました。

 約1年の投獄後、小菅智淵は明治三年一月(1870年2月)恩赦により静岡藩引渡しとなりました。明治五年三月(1872年2月)に陸軍省八等出仕に任官し、陸軍築造局、陸軍兵学寮教授を経て、明治十(1877)年四月二十六日、陸軍少佐に任ぜられました。同年五月十七日に陸軍教導団教官兼任となりました。明治十二(1879)年十一月に参謀本部測量課長に任命されました。小菅は今日の5万分1地形図の全国整備の基礎を築くとともに、内務省大三角測量事業を併せ、全国測量事業を統一しました。

 明治二十一(1888)年十二月十八日に小菅智淵は逝去。五十六年の生涯を終えました。


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中村正直

中村正直

概要

 中村正直(なかむらまさなお)天保三年壬辰(みずのえたつ 29)五月二十六日(1832年6月24日)生誕- 明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)六月七日逝去(五十八歳)は明治時代の啓蒙思想家、教育者。通称、敬太郎。字は敬輔、号は敬宇、鶴鳴、梧山。洗礼名はジョン(John)

経歴

 天保三年壬辰(みずのえたつ 29)五月二十六日(1832年6月24日)に江戸麻布の幕府同心の中村武兵衛の長男として誕生しました。幼名は釧太郎。

 弘化三年(1846年)に築地の井部香山の塾で漢学を学び、翌年桂川甫周(かつらがわほしゅう)から蘭学を学びました。嘉永元年(1848年)に昌平坂学問所の寄宿寮に入りました。佐藤一斎から儒学を学び、箕作奎吾から英語を学びました。。文久二年(1862年)に幕府の御用儒者となりました。

昌平坂学問所
佐藤一斎

 中村は幕府のイギリス留学生監督として慶応二年十月二十六日(1866年12月2日)に横浜港を出帆してロンドンに渡りました。明治元年六月(1868年7月)に幕府瓦解のため、帰国しました。

 明治元年八月(1868年9月)静岡市大岩町の臨済寺に家を借りました。同年九月(同年10月)に静岡学問所の教授に就任しました。

 中村正直は静岡学問所教授時代の明治三年十一月九日(1870年12月30日)に、サミュエル・スマイルズの『Self Help』を、『西国立志編』(別訳名『自助論』)の日本語訳で出版し100万部以上を売り上げました。序文にある‘Heaven helps those who help themselves’を「天は自ら助くる者を助く」と訳しました。

サミュエル・スマイルズ
Self Help

 明治六年(1873)年三月に 中村は大蔵省退官。退官後に小石川の私邸に同人社を開設して英学を教えました。同人社は、三田の慶應義塾と攻玉社と並び三大義塾と称されました。

慶應義塾

 明治六年(1873年)に中村は「明六社」の設立に参加しました。主要メンバーとして啓蒙思想の普及に努め、機関誌「明六雑誌」の執筆を行いました。

明六雑誌

 1874(明治7)年12月25日 に中村は養子の一吉と共にコクランから洗礼を受け、カナダ・メソジスト教会の日本人最初の信徒になりました。洗礼名はジョン(John)。

 中村正直は 明治二十四(1891)年六月七日に五十八年の生涯を終えました。


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寺島宗則

寺島宗則

概要

 寺島宗則(てらしまむねのり)天保三年壬辰(みずのえたつ29)五月二十三日(1832年6月21日)生誕- 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)六月六日薨去(六十歳)は、江戸時代末期の通訳兼医師。明治時代の政治家。

経歴

 天保三年壬辰(みずのえたつ29)五月二十三日(1832年6月21日)に薩摩国出水群出水郷脇本村字槝之浦(現、阿久根市脇本字槝之浦)の郷士・長野成宗の次男として誕生しました。(幼名、徳太郎。後に藤太郎)。

 5歳のとき、跡継ぎがいなかった伯父で蘭方医の松木宗保の養嗣子となり、長崎で蘭学を学びました。弘化二年(1845年)に江戸に出府して伊東玄朴と川本幸民から蘭学を学びました。安政二年(1855年)に中津藩江戸藩邸の蘭学塾(慶應義塾の前身)で講義しました。安政三年(1856年)に蕃書調所(蛮書調所 / ばんしょしらべしょ)手伝となった後、帰郷し薩摩藩主・島津斉彬の侍医となりました。

伊東玄朴
島津斉彬

 松木弘安(寺島宗則)は再度江戸へ出て蕃書調所に復帰しました。蕃書調所で蘭学を教える傍ら、安政四年(1857年)から英語を独学しはじめ、安政六年(1859年)から本格的に英語を学びました。文久元年(1861年)に英語力が買われて幕府の遣欧使節団の西洋事情探索要員として福沢諭吉とともに抜擢されました。

福沢諭吉

 文久二年(1862年)に幕府の第1次遣欧使節(文久遣欧使節)に通訳兼医師として加わりました。欧州でオランダ語がまったく重要視されていないことを知り、英学派に転じました。翌年に帰国して鹿児島に戻りました。

 文久三年七月二日(1863年8月15日)に勃発した薩英戦争で弘安は五大友厚とともにイギリス軍の捕虜となりました。慶応元年(1865年)に薩摩藩遣英使節団(さつまはんけんえいしせつだん)に参加し欧州を再訪しました。渡欧中にはイギリス外務省との外交交渉などを行いました。

五大友厚

 明治維新後に遣欧使節での経験を生かして外交官となりました。慶応三年十一月(1867年12月)に全国の土地と人民を朝廷に返還するよう求める版籍奉還の建白書を藩主の島津忠義に提出しました。明治五年(1872年)に初代の在イギリス日本公使となりました。

島津忠義

 明治六年(1873年)に寺島宗則は参議兼外務卿となりました。政府の財政難から関税時自主権回復を目指し、諸外国との条約改正に臨み、アメリカとの交渉は良好に進むがイギリスの反対やドイツ船ヘスペリア号事件などもあって条約改正への希望を挫折せざるを得なくなり、明治十二年(1879年)に外務卿を辞職しました。その後、文部卿、元老院議長、在アメリカ日本公使、枢密顧問官、枢密院副議長などを歴任しました。

  明治二十六(1893)年六月六日に寺島宗則は薨去。六十年の生涯を終えました。 

伝記・評伝

寺島宗則―日本電気通信の父

寺島宗則 (人物叢書)


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大木喬任

大木喬任

概要

 大木喬任(おおきたかとう)天保三年壬辰(みずのえたつ29)三月二十三日(1832年4月23日)生誕– 明治三十二(1899)年己亥(つちのとい36)六月二十六日薨去(六十七歳)は江戸時代末期の佐賀藩士。明治時代の政治家。通称、幡六、民平。

経歴

 天保三年壬辰(みずのえたつ29)三月二十三日(1832年4月23日)に肥後国佐賀赤松町(現、佐賀市水ヶ江三丁目)で父が佐賀藩・大木知喬と母シカ子の長男として誕生しました。喬任が十歳のときに父知喬が逝去しました。

 藩校の弘道館で学び、嘉永三年(1850年)に枝吉神陽が主宰した義祭同盟結成に副島種臣と共に参加しました。後に江藤新平や大隈重信らも加わり藩論を尊王攘夷へと導くことを図りました。万延元年(1860年)に藩校弘道館から選ばれて江戸遊学に出ました。

枝吉神陽
副島種臣
江藤新平
大隈重信

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられました。新政府が樹立されると大木喬任は大隈重信、副島種臣、江藤新平らとともに出仕しました。参与、軍務官判事、東京府知事などを務めました。明治四年(1871年)に民部卿、文部卿として学制を制定しました。明治九年(1876年)の神風連の乱と萩の乱の事後処理に当たりました。

 戸籍編成の主導権を巡り大蔵省の大隈と対立。大久保利通の側近となり、民舞大輔として戸籍法制定を行いました。民部卿に任命されるが、民部省は大蔵省に統合されました。民法編纂総裁として法典編纂に関わりました。元老院議長、参議の要職を歴任しました。

大久保利通

 明治三十二(1899)年六月二十六日に大木喬任は薨去。六十七年の生涯を終えました。

伝記・評伝

大木喬任 (佐賀偉人伝)


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