伊地知正治

概要

 伊地知正治(いじちまさはる / しょうじ)文政十一年戊子(つちのえね25)六月十日(1828年7月21日) -明治十九(1886)年五月二十三日薨去(五十七歳)は、江戸時代末期の薩摩藩士、政治家。伯爵。諱は季靖。通称、竜右衛門。後に正治。号は一柳。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)六月十日(1828年7月21日)に伊地知正治は鹿児島城下千石馬場町で薩摩藩士の伊地知季平の次男として誕生する。幼い頃に大病を患ったために片目と片足が不自由となる。

 伊地知は剣術を薬丸自顕流の薬丸兼義に学ぶ。合伝流兵学を石沢六郎と法亢宇左衛門に学んで奥義を極める。合伝流の弟子に西郷従道らがいる。藩校・造士館の教授となる。

西郷従道

 安政六年(1859年)に伊地知は精忠組に参加する。文久二年(1862年)に島津久光の上洛に従って京都に上った功績により軍奉行となる。伊地知は稀有な軍略家であり、禁門の変や戊辰戦争で大きな功績を挙げた。 

島津久光

 伊地知は廃藩置県後はに薩摩閥の有力者として太政官政府に入る。征韓論を支持して、板垣退助と派兵計画を立てた。朝鮮派遣延期の意見が通り、西郷隆盛の辞表は受理されて明治六年政変に至たる。伊地知は対立していた左院議長の後藤象二郎が下野したことで、同副議長から議長に就任したために下野しなかった。

板垣退助
西郷隆盛
後藤象二郎

 西南戦争後は帰郷して郷里の復興に尽力する。明治十七(1884)年七月十七日に伯爵を叙爵する。明治十九(1886)年五月二十三に伊地知正治は薨去。五十七年の生涯を終えた。

伝記・評伝

伊地知正治小伝(復刻版)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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西村茂樹

西村茂樹

概要

 西村茂樹(にしむらしげき)文政十一年戊子(つちのえね25)三月一日(1828年4月26日)生誕 – 明治三十五(1902)年八月十八日薨去(七十四歳)は、啓蒙思想家、教育者、文学博士。道徳振興団体「日本弘道会」創設者。号は泊翁。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)三月一日(1828年4月26日)に西村茂樹は江戸の佐野藩邸で佐倉藩支藩の佐野堀田家に仕える側用人(そばようにん)の父・西村芳郁の子として誕生する。通称は平八郎、名は芳在、後に茂樹と改める。

 西村は十歳で佐倉藩の藩校の成徳書院(現、千葉県立佐倉高等学校の前身)に入り、藩が招いた安井息軒から儒学を学ぶ。嘉永三年(1850年)に大塚同庵(おおつかどうあん)から砲術を学ぶ。翌年、佐久間象山から砲術を学ぶ。

安井息軒
佐久間象山

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にマシュー・ペリー率いるアメリカ海軍東インド艦隊の艦船4隻が浦賀沖に来航する。西村は黒船来航に驚き、下総国佐倉藩五代藩主・堀田正篤に意見書を提出する。老中首座の阿部正弘には海防策を献じた。安政三年十月十七日(1856年11月14日)に堀田正篤改め正睦が老中首座兼外国御用取扱に就く。西村は貿易取調御用掛に任じられ、外交上の機密文書を担当する。

マシュー・ペリー
堀田正睦

 明治維新の明治六年(1873年)に福沢諭吉、森有礼、西周、中村正直、加藤弘之らと啓蒙活動を目的として明六社を結成する。

福沢諭吉
森有礼
西周
中村正直
加藤弘之

 明治八年(1875年)から天皇、皇后の進講を約10年間務める。華族女学校の校長を務める。文部省編輯局長として教科書の編集や教育背戸の確立に尽力する。修身の必要性を訴え、明治九年(1876年)に修身学社(現、社団法人日本弘道会)を創設する。

 明治二十年(1887年)に西村の主著として知られる『日本道徳論』を刊行する。西村の思想は「伝統的な儒教を基本としてこれに西洋の精密な学理を結合させるべきと説き、国家の根本は制度や法津よりも国民の道徳観念にあるとして勤勉、節倹、剛毅、忍耐、信義、進取、愛国心、天皇奉戴の8条を国民像の指針」である。

 明治三十五(1902)年八月十八日に西村茂樹は薨去。七十四年の生涯を終えた。

著作

日本道徳論 (岩波文庫)


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
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三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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吉井友実

            吉井友実

概要

 吉井友実(よしいともざね)文政十一年戊子(つちのえね25)二月二十六日(1828年4月10日)生誕 – 明治二十四(1891)年四月二十二日薨去(六十三歳)は、薩摩藩士、官僚。通称を仁左衛門、中介、後に幸輔。変名を山科兵部。

経歴

 文政十一年戊子(つちのえね25)二月二十六日(1828年4月10日)に吉井友実は鹿児島城下加治屋町で薩摩藩士の父・吉井友昌の長男として誕生する。西郷隆盛、大久保利通、税所篤らとは幼少期からの親友だった。

西郷隆盛
大久保利通
税所篤

  薩摩藩十一代藩主・島津斉彬の藩政改革では、吉井友実は安政三年(1856年)に大坂薩摩藩邸留守居役などを務めて諸藩の志士との交流を重ねた。安政五年七月十六日(1858年8月24日)に斉彬が急病で薨去された。大久保利通や税所篤ら同志40名と共に脱藩を企てたものの十二代藩主・島津忠義に遺留される。

島津斉彬
島津忠義

 元治元年(1864年)に吉井は流罪に処されていた西郷の復帰を嘆願した。同年の禁門の変で長州藩を撃退した。第一次長州征討では征討軍総督の徳川慶勝に長州処分を委任され、戦後処理に努める。

 慶応三年五月二十一日(1867年6月23日)に中岡慎太郎の仲介によって、吉井、西郷らは京都の小松帯刀邸で土佐藩士・板垣退助、谷干城らと武力討幕の薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ。

中岡慎太郎
小松帯刀
板垣退助
谷干城

 維新後は参与、弾正少弼、民部大丞を歴任する。明治四年(1871年)に大久保の推挙で宮内少輔に就任して宮中改革に尽力した。明治六(1873)年九月十三日に岩倉使節団が帰国する。留守政府での朝鮮出兵を巡る征韓論で、吉井は大久保に協力して西郷らの征韓派と対立し、西郷らを失脚させる。

  明治十(1877)年九月二十四日に西南戦争で敗北した西郷が薨去された。翌年、明治十一(1878)年五月十四日に大久保が暗殺される。伊藤博文が大久保の後を継ぎ内務卿として実質的な政府首班に就任する。吉井は元田永孚らと天皇に親政実行を直訴する。しかし政府は天皇親政を採用しなかった。

伊藤博文
元田永孚

 明治十二(1879)年三月に政府により工部小輔兼任とされ工部省へ異動となる。明治十三(1880)年六月に工部大輔に昇進したが、明治十四年(1881年)に日本鉄道会社への転出が決まり、明治十五(1882)年一月に工部大輔を辞任して二月に日本鉄道社長に就任する。

 明治十七(1884)年七月に日本鉄道社長を辞職する。その後、明治天皇の任命で宮内大輔として宮中に復帰する。明治十九年(1886年)に宮内次官に任命される。明治二十一年(1888年)に枢密顧問官を兼任した。大日本帝国憲法の審議に参加する。

 明治二十四(1891)年四月二十二日に吉井友実は薨去。六十三年の生涯を終えた。

関連書籍

手紙 038 慶応二年十月五日 吉井友実あて


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
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阿部正外

阿部正外

概要

 阿部正外(あべまさと/まさとう)文政十一年戊子(つちのえね25)一月一日(1828年2月15日)生誕-明治二十(1887)年四月二十日逝去(五十九歳)は、江戸時代末期の旗本、老中、陸奥国白河藩七代藩主。旗本だったが、後に本家を継いで大名となり、幕府の要職を歴任する。

経歴

 文政十一年(戊子つちのえね25)一月一日(1828年2月15日)に阿部正外は旗本の父・阿部正蔵の次男として誕生する。

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老に拝命され就任する。阿部は井伊から重用され、安政六年(1859年)に公武合体推進のため和宮親子内親王の江戸下向を朝廷と工作する禁裏付に任命される。上洛して京都所司代の酒井忠義と共に朝廷工作に尽力した。

井伊直弼
和宮親子内親王

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に大老井伊直弼が桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。阿部は直弼が暗殺された後も引き続き朝廷と打ち合わせを進め、和宮親子内親王の下向の目途が付く。

 文久元年十一月十一日(1860年3月24日)に神奈川奉行に転任する。文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に生麦事件が起こる。阿部は生麦事件の対応に尽力した。同年閏八月四日(同年9月27日)に外国奉行に就任する。文久三年四月二十三日(1863年6月9日)に北町奉行に就任した。

 元治元年三月四日(1864年4月9日)に幕命により白河藩を相続する。阿部は10万石の大名に出世した。同年六月二十四日(同年7月27日)に老中に就任する。

 上洛反対派の老中を失脚させ徳川家茂が3度目の上洛に随行する。慶応元年閏五月十二日(1865年7月14日)に家茂とともに朝廷に参内した。派兵を命じた白河藩兵が約1200人、陸路と海路に分かれて大坂城に集結した。

徳川家茂

 慶応元年九月二十三日(1865年11月11日)にイギリス、フランス、オランダの3ヶ国から要請されていた兵庫開港と大坂開市をめぐって兵庫で交渉を開始する。阿部は他の老中や家茂と協議の上で、やむをえず無勅許で開港を許すことに決めた。しかし勅許を得るため外国との交渉延期を主張した一橋慶喜の意見が通り3か国交渉の結果延期と決まる。朝廷は阿部と松前崇広の違勅を咎め、両名の官位を剥奪して謹慎の勅命を下す。

一橋慶喜

 慶応元年十月一日(1865年11月11日)家茂は阿部正外と松前崇広を老中職から外して官位召し上げ、国元謹慎処分にする(兵庫開港要求事件)。阿部は同年十一月八日(同年12月25日)に白河へ到着して謹慎する。慶応二年六月十九日(1866年7月30日)に隠居、蟄居を命じられ、長男の正静が家督を継ぐ。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に王政復古の大号令が発せられ、慶応四年一月二日(1868年1月26日)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。阿部家は奥羽越列藩同盟と組んで明治新政府軍と戦う。正静の守る白河城が新政府軍に落とされ、残兵と正外らは保原の藩分領に逃走した。阿部家は保原陣屋で新政府軍に降伏する。藩領は6万石から4万石に減らされた。

 明治二十(1887)年四月二十日に阿部正外は逝去。五十九年の生涯を終えた。


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西郷隆盛(南洲)

西郷隆盛

概要

 西郷隆盛(さいごうたかもり)(旧字体:西鄕隆盛)文政十年戊子(つちのえね25)十二月七日(1828年1月23日)生誕-明治十(1877)年九月二十四日薨去(四十九歳)は、薩摩藩士、政治家。通称、吉之助。号は南洲(なんしゅう)

経歴

 1828年1月23日(文政10年12月7日)戊子(つちのえね25)に西郷隆盛は薩摩国鹿児島城下加治屋町山之口馬場で御勘定方小頭の父・西郷九郎隆盛の長男として誕生する。

 天保十年(1839年)に西郷は喧嘩の仲裁に入いり、上組の郷中が抜いた刀が右腕内側の神経を切り、刀を握れなくなったため武術を諦めた。西郷は学問で身を立てようと志す。伊藤茂右衛門に陽明学、島津家の菩提寺の福昌寺の無参和尚に禅を学ぶ。

 『近思録』を輪読する会を大久保利通、税所篤(さいしょあつし)、吉井友実らとつくる。このメンバーが精忠組の基礎となる。

大久保利通
税所 篤
吉井友実

 嘉永四年二月二日(1851年3月4日)に薩摩藩十代藩主の島津斉興(しまづなりおき)が隠居して島津斉彬が十一代薩摩藩主となる。西郷は嘉永五年(1852年)須賀と結婚する。安政元年 (1854年)に斉彬の江戸参勤に際し、中御小姓・定御供・江戸詰に任ぜられ、西郷は江戸に赴く。

島津斉彬

 西郷は下級藩士であったが、藩主の島津斉彬に抜擢され「御庭方役」となりる。西郷は斉彬から直接教えを受けるようになる。水戸藩士の藤田東湖に会い、国事について教えを受けた。越前藩士の橋本左内が来訪し、国事を話し合う。

藤田東湖
橋本左内

 鹿児島では西郷家の貧窮の苦労を見かねた妻の実家の伊集院家が西郷家から須賀を引き取ってしまう。以後、二弟の吉二郎が一家の面倒を見ることになる。

 安政三年七月(1856年8月)に西郷は斉彬の密書を水戸藩主の徳川斉昭に届ける。同年十一月(同年12月)に第十三代将軍・徳川家定と斉彬の養女・篤姫(敬子)が結婚する。斉彬の考え方は篤姫を通じて一橋慶喜を十四代将軍にして賢侯の協力と公武親和によって幕府を中心とした中央集権体制を作り、開国して富国強兵をはかって露英仏など諸外国に対処しようとするものだった。

徳川斉昭
徳川家定
篤姫
一橋慶喜

 安政五年四月二十三日(1858年6月4日)に溜詰筆頭の井伊直弼が大老に就任する。同年八月四日(同年6月25日)に十四代将軍が徳川家茂に決定した。直弼は徳川斉昭らの一橋派および尊王攘夷の志士を弾圧する(安政の大獄)。

井伊直弼
徳川家茂

 斉彬は井伊の弾圧に対し、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画する。鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に発病して安政五年七月十六日(1858年8月24日)に急病で薨去する。西郷は京都で斉彬の訃報を聞き、斉彬の遺志を継ぐことを決意する。

 近衛家から保護を依頼された尊王攘夷派の僧侶・月照は平野国臣に伴われ鹿児島に来る。幕府の追及を恐れた藩当局は月照らを日向国へ追放することに決定した。西郷は月照と平野らとともに乗船したが、西郷は前途を悲観して、月照とともに入水する。すぐに平野らが救助したが、月照は死亡し、西郷は運良く蘇生した。藩当局は幕府の目を隠すために西郷の職を免じて奄美大島に潜居させることにした。

 島では美玉新行の家を借りて自炊する。この間、龍家の一族の佐栄志の娘・とま(のち愛加那と改める)を島妻とした。万延二年一月二日(1861年2月11日)に愛加那との間に菊次郎が誕生する。

 文久元年十月(1861年11月)に十二代薩摩藩主の父・島津久光は公武周旋に乗り出す決意をする。大久保利通らの進言で西郷に召還状を出す。西郷は召還状を受け取ると、奄美大島で世話になった人々への挨拶を済ませ、愛加那の生活が立つようにしたのちに文久二年二月十二日(1862年3月12日)に鹿児島へ到着した。

島津久光

 西郷は下関の白石正一郎宅で平野国臣から京大坂の緊迫した情勢を聞いた。西郷は大坂へ向けて出航し、激派志士たちの京都焼き討ちや挙兵の企てを止めようと試みる。姫路に着いた久光は西郷が待機命令を破ったこと、志士を煽動していると報告を受けたことから激怒して西郷、村田、森山の捕縛命令を出す。

 西郷は大島吉之助に改名させられ、徳之島へ遠島を命ぜられる。江戸へ上府していた島津久光は、家老たちが西郷を徳之島へ在留という軽い処罰に留めている事を知り、沖永良部への島替えのうえ牢込めにして決して開けてはならぬと厳命した。

 イギリスは文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に起こった生麦事件の解決と補償を迫る。文久三年七月二日(1863年8月15日)にイギリス艦隊は薩摩藩兵と鹿児島湾で激突した。この戦闘を通じて薩摩藩とイギリスの双方に相手方のことをより詳しく知ろうとする機運が生まれ、以後両者が一転して接近していく契機となる。

 薩英戦争後の公武周旋に動く人材の不足のため、久光は大久保利通や小松帯刀らの勧めもあり西郷を赦免召還することを決める。元治元年二月二十八日(1864年4月4日)に西郷は鹿児島に帰藩する。同年三月十四日(同年4月19)に京都に到着して軍賦役(軍司令官)に任命される。

小松帯刀

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に禁門の変が勃発する。長州藩勢は敗北して尊王攘夷派は急進的指導者の大半を失う。尊王攘夷派はその勢力を大きく後退させることとなる。同年七月二十三日(同年8月24日)に長州藩追討の朝命が禁裏御守衛総督の一橋慶喜から発せられた。

一橋慶喜

 西郷は元治元年九月十一日(1864年10月11日)に大坂で軍艦奉行の勝海舟と会談した。海舟の案で長州に対して強硬策をとるのを止め、緩和策で臨むことにする。同年十月十二日(同年11月11日)に西郷は征長軍参謀に任命される。同年十月二十四日(同年11月23日)に大坂で征長総督・徳川義勝にお目見えして意見を具申したところ長州処分を委任された。

勝海舟
徳川義勝

 西郷は慶応元年一月(1865年2月)に鹿児島へ帰り、藩主父子に報告を済ませる。同年一月二十八(同年2月23日)に小松帯刀の媒酌で家老座書役・岩山八太郎直温の二女・イト(絲子)と結婚する。

 慶応二年一月二十一日(1866年3月7日)に京都の小松帯刀邸で坂本龍馬を介して薩摩藩の西郷、小松と長州藩の桂小五郎(木戸孝允)が6か条の同盟を締結する。

桂小五郎(木戸孝允)

 慶応二年六月七日(1866年7月18日)に幕府艦隊が屋代島(周防大島)への砲撃が始まり、戦闘が開始された。長州側は山口の藩政府の合議制により作戦が指揮された。同年七月二十日(同年8月29日)に十四代将軍・徳川家茂が大坂城で急病により薨去される。幕府軍は将軍の死去を公にして朝廷に休戦締結の勅許を成功させる。

 慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に徳川慶喜が将軍宣下を受け十五代将軍に就任する。慶喜は将軍在職中一度も畿内を離れず、多くの幕臣を上洛させるなど実質的に政権は畿内でおこなわれた。慶喜の将軍就任から20日後の同年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が崩御される。’慶応三年一月九日(1867年2月13日)に睦仁親王が践祚して明治天皇として皇位継承された。

孝明天皇
明治天皇

 慶応三年三月二十五日(1867年4月29日)に西郷は久光を奉じ、薩摩の精鋭700名(城下1番小隊から6番小隊)を率いて上京する。同年五月二十一日(1867年6月23日)に中岡慎太郎の仲介によって、西郷らは京都の小松帯刀邸にて、土佐藩士・板垣退助、谷干城らと武力討幕の薩土討幕の密約(薩土密約)を結ぶ。

中岡慎太郎
板垣退助
谷干城

 薩土討幕の密約(薩土密約)を締結した一ヶ月後の慶応三年六月二十二日(1867年7月23日)に今度は坂本龍馬、後藤象二郎らが西郷と会談して武力討幕によらない大政奉還のための薩土盟約を締結する。

後藤象二郎

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が明治天皇へ政権返上をして、翌日天皇が奏上を勅許する(大政奉還)。大政奉還の目的は、内戦を避けて幕府独裁制を修正し、徳川宗家を筆頭とする諸侯らによる公議政体論を樹立することにあった。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)18時頃から、赦免されたばかりの岩倉具視らが参内して御所内・小御所にて明治天皇臨席のもと、最初の三職会議が開かれた。山内容堂ら公議政体派は徳川慶喜の出席が許されていないことを非難し、慶喜を議長とする諸侯会議の政体を主張する。岩倉らのペースで会議は進められ「王政復古の大号令」を発し、新体制の樹立を決定した。

岩倉具視
山内容堂

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に大坂の旧幕軍が上京を開始して幕府の先鋒隊と薩長の守備隊が衝突し、鳥羽伏見の戦いが始まる。西郷はこの日に伏見の戦線、一月五日(1月29日)に八幡の戦線を視察して戦況が有利になりつつあるのを確認する。翌日の一月六日(1月30日)に徳川慶喜は松平容保、松平定敬、老中、大目付、外国奉行ら少数を伴い、大坂城を脱出して軍艦「開陽丸」に搭乗して江戸へ退去した。新政府は慶喜追討令を出し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督(征討大総督)に任じ、東海・東山・北陸三道の軍を指揮させ、東国経略に乗り出す。

松平容保
松平定敬
有栖川宮熾仁親王

 西郷と勝海舟の会談後、慶応四年四月十一日(1868年5月3日)にイギリスは日本との貿易に支障が出ることを恐れて江戸総攻撃に反対していたため、「江戸城明け渡し」が実行される。同年五月十五日(同年7月4日)上野戦争が始まり、旧幕府軍は敗退する。

 明治二年五月十八日(1869年6月27日)に榎本武揚ら幹部は亀田の屯所へ改めて出頭して昼には五稜郭が開城される。郭内にいた約1,000名が投降し、その日のうちに武装解除も完了した。箱館戦争及び戊辰戦争は終結した。

榎本武揚
五稜郭

 明治四年七月二十九日(1871年9月13日)頃に新政府は以下のような顔ぶれとなる。太政大臣・三条実美。右大臣兼外務卿・岩倉具視。参議・西郷隆盛。同・木戸孝允。同・板垣退助。同・大隈重信。大蔵卿・大久保利通。文部卿・大木 喬任。兵部大輔・山縣有朋。大蔵大輔・井上馨。文部大輔・江藤新平。工部大輔・後藤象二郎。司法大輔・佐々木高行。宮内大輔・万里小路博房。外務大輔・寺島宗則。

 明治四年十一月十二日(1871年12月23日)に特命全権大使・岩倉具視、副使・木戸孝允、大久保利通、伊藤博文、山口尚芳ら外交使節団が条約改正のために横浜から欧米各国へ出発する。使節団と留守政府は重大な改革を行わないと合意する。

 李氏・朝鮮問題は明治元年(1868年)に李朝が明治新政府の国書の受け取りを拒絶したことが発端だった。進展しない原因とその対策を知る必要があって西郷、板垣退助、副島種臣らは調査のため、明治五(1872)年八月十五日に清国、ロシア、朝鮮に探偵を満洲と釜山に派遣した。参議・板垣退助は居留民保護を理由に派兵し、その上で使節を派遣することを主張した。西郷は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。

 明治五(1872)八月十六日に西郷は三条の元を訪れ、岩倉の帰国前に遣使だけは承認するべきと強く要請する。このため翌日の十七日の閣議で西郷の遣使は決定された。明治天皇に決定を奏上したが、「岩倉の帰国を待ってから熟議するべき」という回答が下される。

 明治六(1873)年九月十三日に岩倉具視が帰国する。木戸孝允と大久保利通はいずれも内治優先の考えをもっていた。大物である西郷を失うことになる遣使に反対する声が西郷に近い薩摩派の中にあった。大久保は維新前からの盟友である西郷と対決する意志を固め、子供たちに当てた遺書を残す。一方、西郷は明治六(1873)年十月十一日に決定が変更されるならば自殺すると、半ば脅迫的な書簡を三条宛に提出した。翌日十三日に大久保と征韓派の副島種臣が参議に復帰する。

 明治六(1873)年十月十四日に岩倉は閣議の席で遣使の延期を主張する。板垣、江藤、後藤、副島らは遣使の延期について同意する。西郷は即時派遣を主張した。翌日十五日の閣議で、板垣、江藤、後藤、副島らは西郷を支持し、即時遣使を要求する。

 明治六(1873)年十月十八日に三条は病に倒れる。同年十月二十二日に岩倉が太政大臣摂行に就任して西郷、板垣、副島、江藤の四参議が岩倉邸を訪問し、明日にも遣使を発令するべきであると主張したが、岩倉は自らが太政大臣摂行となっているから、三条の意見ではなく自分の意見を奏上するとして引かなかった。

 岩倉は明治六(1873)年十月二十三日に参内し、閣議による決定その経緯、さらに自分の意見を述べた上で明治天皇の聖断で遣使を決めると奏上する。岩倉と大久保らは宮中工作を行っており、西郷ら征韓派が参内して意見を述べることはできなかった。この日、西郷は参議などを含む官職からの辞表を提出して帰郷の途についた。

 下野した西郷は明治六(1873)年十一月十日に鹿児島に帰着する。以来、大半を武村の自宅で過ごす。明治七(1874)年三月一日に佐賀の乱で敗れた江藤新平が来訪して翌日、西郷は指宿まで見送る。

 西郷の下野に同調した軍人や警吏が相次いで帰県した明治六年末以来、鹿児島県下は無職の血気多き壮年者がのさばり、それに影響された若者に溢れる状態になる。有志者が西郷に相談して県令・大山綱良の協力を得て、明治七(1787)年六月頃に旧厩跡に私学校がつくられる。

 明治九(1876)年三月に廃刀令が出される。八月に金禄公債証書条例が制定されると、士族とその子弟で構成される私学校党の多くは徴兵令で代々の武人であることを奪われたことに続き、帯刀と知行地という士族最後の特権をも奪われたことに憤慨した。

 明治十(1877)年一月二十日頃、西郷はこの時期に私学校生徒が火薬庫を襲うなどとは夢にも思わず、大隅半島の小根占で狩猟をしていた。一方、政府は鹿児島県士族の反乱が間近かと見て、同年一月二十八日に山縣有朋が熊本鎮台に電報で警戒命令を出す。

 薩摩軍は募兵と新兵教練を明治十(1877)年二月十三日に終わり大隊編制が行われる。翌十四日に私学校本校横の練兵場で西郷による正規大隊の閲兵式が行われる。十五日に薩摩軍の一番大隊が鹿児島から先発して西南戦争が始まる。

 明治十(1877)年二月二十日に別府晋介の大隊が川尻に到着する。熊本鎮台偵察隊と衝突し、これを追って熊本へ進出した。同年三月一日から始まった田原をめぐる戦いは激戦で、篠原国幹ら勇猛の士が次々と戦死した。二十日に兵の交替の隙を衝かれ、田原を政府軍に奪われる。

 明治十(1877)年五月三十一日に桐野利秋が新たな根拠地としていた軍務所(もと宮崎支庁舎)に着く。ここが新たな本営となる。この軍務所では、桐野の指示で薩摩軍の財政を立て直すための大量の軍票(西郷札)がつくられた。

 明治十(1877)年八月十五日に和田峠を中心に布陣し、政府軍に対し西南戦争最後の大戦を挑む。早朝、西郷が初めて陣頭に立ち、自ら桐野、村田、池上、別府ら諸将を随えて和田峠頂上で指揮した。薩摩軍が大敗して延岡の回復はならず、長井村へ退ぞく。

 明治十(1877)年九月一日に薩摩軍は鹿児島に入り、城山を占拠した。一時、薩摩軍は鹿児島城下の大半を制したが、上陸展開した政府軍が3日に城下の大半を制して九月六日に城山包囲態勢を完成させた。

 明治十(1877)年九月二十四日午前4時に政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋、村田新八ら将士40余名は洞前に整列して岩崎口に進撃する。島津応吉久能邸門前で西郷は股と腹に被弾する。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座して遙かに東に向かって拝礼しながら、別府に首を打たせる形で自害した。西郷隆盛は四十九年の生涯を終えた。

伝記・評伝

西郷隆盛 新装版 (角川文庫)

素顔の西郷隆盛 (新潮新書)

西郷隆盛:人を相手にせず、天を相手にせよ (ミネルヴァ日本評伝選)


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三国志演義 Ⅰ

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税所篤

                      税所篤

概要

 税所篤(さいしょあつし)文政十年丁亥(ひのとい24)十一月五日(1827年12月22日)生誕- 明治四十三(1910)年六月二十一日薨去(八十二歳)は、薩摩藩士、官僚。子爵。通称は喜三左衛門、容八、長蔵。号は巌舎、鵬北。初名は篤満、後に篤信とも名乗る。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)十一月五日(1827年12月22日)に税所篤は薩摩藩士の父・税所篤倫の次男として誕生する。改革派である精忠組の創設メンバーとして幼少期からの親友だった西郷隆盛や大久保利通、吉井友実らと行動を共にした。

西郷隆盛
大久保利通
吉井友実

 藩主・島津斉彬に認められて勘定所郡方、次いで三島方蔵役に任じられる。幕府がオランダ海軍士官を招いて長崎海軍伝習所をつくると斉彬は薩摩藩から十数名の藩士を選抜して派遣した。税所はその内の一人に選ばれた。薩摩藩からは川村純義(かわむらすみよし)や五代友厚(ごだいともあつ)なども派遣された。

島津斉彬
川村 純義
五代友厚

  安政五年十一月十六日(1858年12月20日)に西郷隆盛が僧の月照と共に鹿児島湾に入水した際に蘇生した西郷が意識を取り戻すまで税所は西郷の枕頭で看病をした。月照の四九日法要は吉祥院で営まれて以来しばしば吉祥院は有志たちの密談所として利用されるようになる。

 税所は大久保利通の建白書と精忠組の名簿を差し挟んだうえで、兄・乗願を通じて島津久光に献上した。税所の助力を通じて大久保は久光の知遇を得ることとなり、以来藩の要職に抜擢されることとなる。奄美大島に流されていた西郷の召還が実現したのは久光の信任を得ていた税所や大久保らの進言に依る所があった。

島津久光

 元治元年七月十九日(1864年8月20日)に禁門の変が勃発する。税所は小松帯刀率いる薩摩軍の参謀として一隊を率いて参戦し、武功をあげた。第一次長州征討では西郷隆盛、吉井友実と3人で長州藩三家老の処分を申し入れるなど活躍した。

小松帯刀

 新政府では大久保の推薦を受ける形で内国事務権判事や当時まだ政情不安定であった西日本各地の県令、知事を歴任する。明治六年の政変以降は基本的に政府側および大久保寄りの行動をとる。政治家としての税所は一貫して天皇家の権威高揚および京都、奈良等における伝統文化の保護育成に重点を置いた。

 明治四十三(1910)年六月二十一日に税所篤は薨去。八十二年の生涯を終えた。


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山内容堂(豊信)

山内 容堂( 豊信

概要

 山内容堂 ・ 豊信(やまうちようどう ・ とよしげ)文政十年丁亥(ひのとい24)十月九日(1827年11月27日)生誕-明治五年六月二十一日(1872年7月26日)薨去(四十四歳)は、土佐藩十五代藩主。諱は豊信。号は容堂。

                   高知城

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)十月九日(1827年11月27日)に山内容堂は高知城で父・山内豊著と母・平石氏の長男として誕生する。

 十四代藩主・山内豊熈が藩主在職わずか12日という短さで急死したため、山内家は断絶の危機に瀕する。豊熈の妻・智鏡院が実家の島津藩をとおして老中首座の阿部正弘に豊信を十五代藩主に就任させることを働きかけた。豊信の生家である南邸山内家が分家五家の中での序列は一番下であったが、豊信の藩主就任が決定した。

                     阿部正弘

 藩主の座に就いた豊信は、革新派グループ「新おこぜ組」の中心人物である吉田東洋を起用する。嘉永六(1853年)に東洋を新たに設けた「仕置役(参政職)」に任じて家老を押しのけて西洋軍備採用、海防強化、財政改革、藩士の長崎遊学、身分制度改革、文武官設立などの藩政改革を断行する。東洋は後に藩の参政となる後藤象二郎と福岡孝弟を起用した。

吉田東洋
後藤象二郎
福岡孝弟

 豊信は福井藩主・松平春嶽、宇和島藩主・伊達宗城、薩摩藩主・島津久光と交流を持ち幕末の四賢侯(ばくまつのしけんこう)と称された。四賢侯は老中首座の阿部正弘に幕政改革を訴える。

松平春嶽
                     伊達宗城
島津斉彬

 阿部正弘死去後、井伊直弼が大老に就任する。将軍継嗣問題については豊信をふくむ四賢侯が十四代将軍に一橋慶喜を推薦した。井伊直弼が紀伊藩主の徳川慶福を推し、慶福が十四代将軍に決定する。豊信は十四代藩主・山内豊熈の弟の豊範に藩主の座を譲り、隠居する。

 井伊直弼
      
                    一橋慶喜
徳川家茂

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に大老・井伊直弼が桜田門外で暗殺される(桜田門外の変)。その後尊王攘夷が主流となる。土佐藩でも武市半平太(たけちはんぺいた)を首領とする土佐勤皇党が公武合体派の吉田東洋と対立した。文久二年四月八日(1862年5月6日)に土佐勤皇党が東洋を暗殺する。

武市 半平太

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に京都で会津藩と薩摩藩による長州藩追い落としのための朝廷軍事クーデター(八月十八日の政変)が勃発する。容堂は謹慎を解かれ土佐藩に帰藩して藩政を掌握した。

 容堂は東洋を暗殺した政敵の土佐勤王党の大弾圧に乗り出して党員を捕縛、投獄した。慶応元年閏五月十一日(1865年7月3日)に首領の武市半平太は切腹を命じられ土佐勤王党は壊滅する。

 慶応二年一月二十二日(1866年3月8日)に土佐の志士、坂本龍馬の仲介により、薩長同盟が成立した。容堂は薩摩藩主導で設置された四侯会議(しこうかいぎ)に参加するが、幕府権力の削減を図る薩摩藩の主導を嫌った。四侯会議は短期間で崩壊する。

坂本龍馬

 「幕府が委託されている政権を朝廷に返還する案」および「船中八策(せんちゅうはっさく)」を坂本龍馬より聞いていた後藤は容堂にこの案を進言する。容堂はこれを妙案と考えて十五代将軍・徳川慶喜に建白した。慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に慶喜は朝廷に政権を返還する(大政奉還)。

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に小御所会議において薩摩、尾張、越前、芸州の各藩代表が集まり会議は容堂を無視して天皇を中心とする公議政体派、討幕強行派のペースで進み明治天皇より王政復古の大号令が発せられた。

明治天皇

 容堂は明治維新後、内国事務総裁に就任する。明治二年(1869年)に辞職した。明治五年六月二十一日(1872年7月26日)に山内容堂は薨去。四十四年の生涯を終えた。

伝記・評伝

鯨海酔侯 山内容堂 (中公文庫)

山内容堂 (人物叢書)

酔って候 (文春文庫)


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重野安繹

重野安繹

概要

 重野安繹(しげのやすつぐ)文政十年丁亥(ひのとい 24)十月六日(1827年11月24日)生誕- 明治四十三(1910)年十二月六日逝去(八十三歳)は江戸時代末期から明治初期の漢学者、歴史家。日本で最初に実証主義を提唱した日本歴史学研究の泰斗、また日本最初の文学博士の一人。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい 24)十月六日(1827年11月24日)に重野安繹は薩摩国鹿児島郡鹿児島近在坂元で誕生する。

 天保十年(1839年)に薩摩藩の藩校・造士館(ぞうしかん)に入学する。嘉永元年(1848年)に江戸へ遊学して昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に入門する。塩谷宕陰(しおのやとういん)、安井息軒(やすいそっけん)から学ぶ。

昌平坂学問所
塩谷宕陰
安井息軒

 安政三年(1857年)に薩摩に帰国した。同僚の金の使い込みにより奄美大島へ潜居される。奄美大島では西郷隆盛と出会う。文久三年(1863年)に赦免されて薩摩に戻りる。

西郷隆盛

 維新後は外務職を勧められた。しかし重野は学問の道に進む。明治元年(1868年)に大坂で私塾成達書院(せいたつしょいん)を開塾した。当時の進歩的な若者たちに大きな影響を与えた。成達書院の門下生に岩崎弥太郎がいた。

岩崎弥太郎

 明治四年(1871年)に上京する。明治八年(1875年)以降、太政官正院修史局・修史館で修史事業に関わる。明治十一年(1879年)に帝国学士院会員となる。明治十四年(1881年)に『大日本編年史』編纂に参加する。清代考証学派に範をとる歴史学方法論を主張した。これに基づき児島高徳(こじまたかのり)の実在や楠木正成の逸話を否定し「抹殺博士」の異名をとる。このような主張は川田甕江(かわた/かわだおうこう)ら国学系・水戸学系歴史学者との対立を激化させた。

川田甕江

 明治二十一年(1888年)に帝国大学文科大学(のちの東京帝国大学文学部)教授に就任する。明治二十二年(1889年)に「史学会」初代会長に就任した。明治二十三年(1890年)に星野恒(ほしのひさし)、久米邦武(くめくにたけ)と共に『国史眼』を執筆する。同年九月二十九日に貴族院勅選議員となる。

東京帝国大学

 明治四十三(1910)年十二月六日に重野安繹は逝去。八十三年の生涯を終えた。

著作・伝記・評伝

明治文學全集 78 明治史論集(二)

重野安繹と久米邦武―「正史」を夢みた歴史家 (日本史リブレット人)

重野安繹における外交・漢文と国史: 大阪大学懐徳堂文庫西村天囚旧蔵写本三種 (関西大学東西学術研究所資料集刊)


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小栗忠順

                     小栗忠順

概要

 小栗忠順(おぐりただまさ)文政十年丁亥(ひのとい24)六月二十三日(1827年7月16日)生誕-慶応四年閏四月六日(1868年4月28日)逝去(四十歳)は、江戸時代末期の幕臣、勘定奉行、江戸町奉行、外国奉行。通称は又一。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)六月二十三日(1827年7月16日)に小栗忠順は江戸駿河台の屋敷で旗本の父・小栗忠高の子として誕生する。幼名は剛太郎。8歳から小栗家の屋敷内にあった安積艮斎(あさかごんさい)の私塾「見山楼」に入門する。成長するに従って文武に抜きん出た才能を発揮した。

 天保十四年(1843年)に十七歳になり登城する。文武の才を注目されて若くして両御番となる。嘉永二年(1849年)に林田藩、前藩主・建部政醇(たけべまさあつ)の娘・道子と結婚する。

 嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にアメリカ合衆国東インド艦隊司令長官のマーシュ・ペリーが率いる4隻の艦隊が浦賀沖に来航する。小栗はこの頃から外国との積極的通商を主張して造船所を作るという発想を持った。安政二年(1855年)に父・忠高が死去して家督を相続した。

マーシュ・ペリー

 嘉永七年三月三日(1854年3月31日)に日米和親条約が締結された。安政五年六月十九日(1858年7月29日)に日米修好通商条約が締結された。批准書の交換はワシントンで行うと定められた。小栗は目付として使節団に加わり、安政七年一月十八日(1860年2月9日)に品川沖でポーハタン号に乗船して米国に向かう。 

 サンフランシスコに到着後に小栗は「目付とはスパイのことだ。日本(徳川幕府)はスパイを使節として同行させているのか。」という嫌疑を受ける。その際に「目付とはCensor(監察官)である」と主張する。帰国後に外国奉行に就任する。

 文久二年(1862年)に勘定奉行に就任して名乗りを小栗豊後守から小栗上野介に変更する。文久三年(1863年)に小栗は製鉄所建設案を幕府に提出する。十四代将軍・徳川家茂は製鉄所建設案を承認した。慶応元年十一月十五日(1866年1月1日)に横須賀製鉄所(後の横須賀海軍工廠)の建設が開始される。

徳川家茂

 小栗は横須賀製鉄所の首長としてフランスのフランソワ・レオンス・ヴェルニーを任命する。これは幕府公認の事業では初の事例だった。職務分掌、雇用規則、残業手当、社内教育、洋式簿記、月給制など、経営学や人事労務管理の基礎が日本に導入された。

 小栗は更なる軍事力強化のため幕府陸軍をフランス軍人に指導させることを計画する。慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還する。翌年慶応四年(1867年)に鳥羽伏見の戦いの後、戊辰戦争が始まる。

徳川慶喜

 小栗は榎本武揚、大鳥圭介らと徹底抗戦を主張した。慶喜と勝海舟は恭順論を主張した。慶応四年一月十五日(1868年2月8日)に江戸城にて御役御免及び勤仕並寄合となる沙汰を申し渡される。同年一月二十八日(同年2月21日)に「上野国群馬郡権田村(現、群馬県高崎市倉渕町権田)への土着願書」を提出する。

 小栗は一家揃って権田村の東善寺に移り住む。慶応四年閏四月四日(1868年4月26日)に小栗は東善寺にいるところを捕縛される。捕縛から2日後の慶応四年閏四月六日(1868年4月28日)に斬首された。小栗忠順は四十年の生涯を終えた。

伝記・評伝

小説 小栗上野介 日本の近代化を仕掛けた男 (集英社文庫)

小栗忠順のすべて

覚悟の人 小栗上野介忠順伝 (角川文庫)

小栗忠順従者の記録―幕末遣米使節


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楠本イネ

楠本イネ

概要

 楠本イネ(くすもといね)文政十年丁亥(ひのとい24)五月六日(1827年5月31日)生誕-明治三十六 (1903)年八月二十六日逝去(七十六歳)は、日本人女性で初めての産科医。

経歴

 文政十年丁亥(ひのとい24)五月六日(1827年5月31日)に楠本イネは長崎県長崎市銅座町で父・フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトと、母・瀧(お滝)の間に私生児として誕生する。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
長崎県長崎市銅座町

 父・シーボルトは文政十一年(1828年)に国禁となる日本地図や、数多くの日本国に関するオランダ語翻訳資料の国外持ち出しが発覚して(シーボルト事件)国外追放となる。

 シーボルトからイネの養育を託された二宮敬作は、天保元年(1833年)に宇和郡卯之町で町医者となりイネを呼び寄せ養育する。安政五年(1858年)に敬作は再び長崎へと赴き、開業医となる。イネは敬作から医学の基礎を学ぶ。石井宗謙から産科を学ぶ。長崎で軍艦製造の研究を行っていた村田蔵六(後の大村益次郎)からオランダ語を学ぶ。後年、益次郎が襲撃された後、蘭医ボードウィンの治療方針のもとで大村を看護して最期を看取る。

二宮敬作
大村益次郎

 安政六年(1859年)に父・シーボルトが再来日する。イネは長崎で父と再会して西洋医学(蘭学)を学ぶ。明治維新後の明治四年(1871年)に異母弟にあたるシーボルト兄弟(兄アレクサンダー、弟ハインリヒ)の支援で東京の築地に開業する。福沢諭吉の紹介で宮内省御用掛となる。

 イネは晧台寺(こうたいじ)墓所を守るため、東京の医院を閉鎖して長崎に帰郷する。イネは生涯独身だったが、石井宗謙との間に儲けた娘・高子(タダ)がいた。六十二歳の時に娘・高子一家と同居のため長崎の産院を閉鎖して再上京した。弟ハインリヒの世話となり余生を送る。

 明治三十六(1903)年八月二十六日に楠本イネは逝去。七十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

幕末の女医 楠本イネ-シーボルトの娘と家族の肖像

黎明のマルス: 幕末に生きた日本史上初の女医、楠本イネの軌跡

出島生まれのおイネさん―出島物語異聞


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