島義勇

島義勇

概要

 島義勇(しまよしたけ)文政五年壬午(みずのえうま19)九月十二日(1822年10月26日)生誕-明治七(1874)年四月十三日逝去(五十一歳)は、江戸時代末期から明治にかけての佐賀藩士、官吏。札幌市の都市開発に関わり、「北海道開拓の父」と呼ばれている。佐賀の七賢人の一人。

経歴

 文政五年壬午(みずのえうま19)九月十二日(1822年10月26日)に島義勇は肥前国佐賀城下の精小路(現、佐賀県佐賀市与賀町)で佐賀藩士の父・島市郎右衛門と母つねの長男として誕生する。母つねの妹の喜勢は、枝吉神陽と副島種臣の母に当たる。

枝吉神陽
副島種臣

 文政十三年(1830年)に藩校弘道館で学ぶ。天保十五年(1844年)に家督を継ぐ。諸国を遊学して佐藤一斎、藤田東湖、林桜園(はやしおうえん)らに学ぶ。

佐藤一斎
藤田東湖

 安政四年(1856年)年に藩主の鍋島直正の命で、箱館奉行の堀利煕(ほりとしひろ)の近習となり、蝦夷地と樺太を探検調査して『入北記』という記録を残す。安政五年(1858年)年に帰藩して御蔵方、同組頭から香焼島守備隊長となる。

鍋島直正

 明治二年五月十八日(1869年6月27日)に箱館戦争が終結する。新政府は佐賀藩主の鍋島直正を蝦夷開拓督務に任命する。島義勇は蝦夷地に通じているということで蝦夷開拓御用掛に任命され、開拓判官に就任する。ほぼ無人の原野の札幌に「五州第一の都」(世界一の都)を造るという壮大な構想を描き、京都や故郷の佐賀などを念頭に置いて、碁盤の目のような整然とした町並みを目指し工事が進められた。

 義勇は明治天皇の詔により東京で北海道鎮座神祭が行われ、北海道開拓の守護神として開拓三神が鎮祭され、祭政一致の建前から神を祀る事を命ぜられる。義勇は北海道に渡る際、神祗官から開拓の三神を授けられ、単身開拓三神を背負って陸路札幌に向かい、到着後札幌市内に仮宮殿を設けた。神社予定地は札幌市北5条東1丁目に仮宮殿を設け開拓三神を祀り一の宮とした。

 明治二年八月二十五日(1869年9月30日)に鍋島直正に代わり東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)が2代目開拓長官に就任する。。厳冬酷寒の雪国での都市建設は多額の費用と労力と困難を要した。義勇は東久世通禧と予算をめぐり衝突した。結局、義勇は明治三年一月十九日(1870年2月19日)に志半ばで職を解任される。

東久世 通禧

 明治七年(1874年)に佐賀に帰郷する。憂国党の党首に担がれ、江藤新平と共に佐賀の乱を起こす。義勇の憂国党は佐賀の乱で敗れる。鹿児島の島津久光を頼り、大久保利通に助命の旨を取り次いでもらうが受け入れられなかった。明治七(1874)年四月十三日に斬首される。島義勇は五十一年の生涯を終えた。

島津久光
大久保利通

伝記・評伝

島義勇 (佐賀偉人伝)

島義勇伝

小説島義勇―サッポロを創った男


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枝吉神陽

枝吉神陽

概要

 枝吉神陽(えだよししんよう)文政五年壬午(みずのえうま19)五月二十四日(1822年7月12日)生誕 -文久二年八月十四日(1862年9月8日)逝去(四十歳)は、江戸時代末期の佐賀藩の思想家。国学者。藩校弘道館の教諭。本名は経種。

経歴

 文政五年壬午(みずのえうま19)五月二十四日(1822年7月12日)に枝吉神陽は佐賀藩の藩校・弘道館の教授であった父・枝吉南濠種彰の長男として誕生する。副島種臣は実弟。

副島種臣

 神陽は二十歳のときに江戸の昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)に学ぶ。儒教や朱子学の教えに疑問を抱いており、国学を学ぶことを志す。

昌平坂学問所

 神陽は二十六歳で帰郷してから、弘道館の教諭や什物方などを務める傍ら、父・南濠の唱えた「日本一君論」を受け継ぎ勤王運動を行う。天皇を中心とした政治体制である律令制などの知識を伝授するなど、藩論を尊王倒幕に導く。藩主の鍋島直正の賛同を得られず失敗した。

鍋島直正

 嘉永三年(1850年)に神陽は「義祭同盟」を結成する。実弟の枝吉次郎(副島種臣)、大隈重信、江藤新平、大木 喬任、島義勇、久米邦武ら明治維新に大きな影響を与えた人材を多数輩出した。神陽は「佐賀の吉田松陰」とも称され、水戸の藤田東湖と並び「東西の二傑」と称されている。

吉田松陰
藤田東湖

 神陽の妻がコレラに罹患して看病するうち、自身も罹患して文久二年八月十四日(1862年9月8日)に枝吉神陽は逝去。四十年の生涯を終えた。

関連書籍

枝吉神陽先生遺稿


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小笠原長行

小笠原長行

概要

小笠原長行(おがさわらながみち)文政五年壬午(みずのえうま19)五月十一日(1822年5月11日)生誕-明治二十四(1891)年一月二十五日逝去(六十八歳)は、江戸時代の肥前国唐津藩の世嗣(藩主とする資料もある)。江戸幕府老中。外国事務総裁。

経歴

 文政五年壬午(みずのえうま19)五月十一日(1822年5月11日)に小笠原長行は唐津城二の丸で肥前国唐津藩初代藩主の父・小笠原長昌の長男として誕生する。幼名は行若(後に敬七郎)。

唐津城

 文政六年九月二十九日(1822年11月1日)に父・小笠原長昌が逝去する。後継の藩主に四代続けて養子が迎えられ、幼少の長行は庶子として扱われる。

 長行は幼少から明敏であったので、天保九年(1838年)に江戸に出府して佐藤一斎と並ぶ名声の朝川善庵(あさかわぜんあん)に師事した。安政四年(1857年)に小笠原長国の養嗣子となり、藩政にも携わって名声を高める。

 文久二年(1862年)に世嗣の身分ので奏者番(そうじゃばん)から若年寄、同年九月十一日(同年11月2日)に老中格となり老中へと出世した。

 文久二年八月二十一日(1862年9月14日)に発生した生麦事件で事態を早急に終結させるため、文久三年五月九日(1863年6月24日)に賠償金10万ポンドをイギリスに支払う。

 文久三年六月(1863年7月)に長行は京都で人質同然となっていた十四代将軍徳川家茂の奪還のため、幕府陸軍1500人を率いて大坂に向う。水野忠徳は攘夷派を軍事力でもって粉砕することを主張した。しかし在京幕閣の猛反対にあい、家茂からも上京差し止めを命じられるにおよび、長行は上京計画を断念した。同年六月十日(同年7月25日)に長行は老中職を罷免される。

徳川家茂
水野忠徳

 慶応元年九月四日(1865年10月23日)に長行は再び老中格、さらに老中に再任される。慶応二年六月七日(1866年7月18日)に周防大島で第二次長州征討の戦闘が始まる。

 幕府側の敗色は濃厚となる中、慶応二年七月二十日(1866年8月29日)に将軍徳川家茂が薨去された。家茂の薨去を機に長行は事態を収拾する事なく戦線を離脱した。敗戦責任を問われた長行は老中を罷免される。しかし徳川慶喜の強い意向により老中を再任された。

徳川慶喜

 将軍家茂の後継問題に当たり、長行は板倉勝静と共に慶喜を次期将軍に推す。慶応二年十二月五日(1867年1月10日)に慶喜が十五代将軍に就任する。長行は慶喜政権において、外交担当老中として欧米公使との折衝を担当する。

板倉勝静

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に十五代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に奏上し、翌日勅許した。新政府と旧幕府との緊張が高まる中、江戸にいた長行は非戦を主張する。

 慶応四年一月三日(1868年1月27日)に鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争が勃発した。唐津藩も新政府軍の討伐対象となったが、藩主小笠原長国は世嗣の長行との養子関係を義絶して新政府に降伏する。

 大坂から逃げ帰り恭順の意を決していた将軍慶喜に対し、長行は徹底抗戦を主張するが遠ざけられ、慶応四年二月十日(1868年3月3日)に老中を辞任する。

 上野戦争で幕府勢力は敗北し、新政府軍が会津へ迫ると長行は棚倉から会津へ入り、新政府軍に抗戦した。奥羽越列藩同盟が結成されると板倉勝静と共に参謀とる。会津藩が破れると仙台から榎本武揚の軍艦開陽丸に乗船し箱館に向う。榎本の箱館政権には参画しなかった。

榎本武揚

 明治五(1872)年四月東京に戻り、七月に新政府に自首する。小笠原長国らの赦免運動もあって同年八月四日に赦される。その後、東京駒込動坂の小邸に隠棲した。明治二十四(1891)年一月二十五日に小笠原長行は逝去。六十八年の生涯を終えた。

伝記・評伝

開国の騎手 小笠原長行

流離の譜


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久世広周

久世 広周

概要

 久世広周(くぜひろちか)文政二年己卯(つちのとう16)四月十二日(1819年5月5日)生誕-元治元年六月二十五日(1864年7月28日)逝去(四十五歳)は、江戸時代末期の下総関宿藩主。老中。

経歴

 文政二年己卯(つちのとう16)四月十二日(1819年5月5日)に久世広周は旗本の大草高好(おおくさたかよし)の次男として誕生する。文政十三年十月十二日(1830年11月26日)に広周が十一歳のとき関宿藩主久世広運(くぜひろたか)の末期養子(まつごようし)として家督を継ぐ。天保三年十月一日(1832年10月24日)に十一代将軍徳川家斉に拝謁する。

関宿城
徳川家斉

 嘉永四年十二月二十一日(1852年1月12日)に広周は老中に就任する。老中首座の阿部正弘らと共に諸外国との折衝に当たる。

阿部正弘

 井伊直弼が大老となり、一橋派への弾圧が始まる(安政の大獄)。広周は直弼の強圧的な処罰方針に老中の中でただひとり反対した。安政五年十月二十七日(1858年12月2日)に広周は直弼の怒りを買って老中を罷免される。

井伊直弼

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に井伊直弼が桜田門外で暗殺される。万延元年閏三月一日(1860年4月21日)に広周は老中の安藤信正の推挙を受けて再度老中に就任する。信正と共に公武合体政策を推進した。

安藤信正

 万延元年四月二十八日(1860年6月17日)に広周は老中首座に就く。政情不安が進む政局の安定化に努める一方で、長州藩士の長井雅樂による「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」の支援なども行なう。

長井雅樂

 文久二年一月十五日(1862年2月13日)に老中の安藤信正が尊攘派の水戸浪士6人に襲撃され負傷する(坂下門外の変)。安藤は老中を罷免される。文久二年六月二日(1862年6月28日)安藤の連座および安政の大獄で井伊直弼の暴挙を止められなかったことと、公武合体または外交方針である航海遠略策の失敗などの責任を問われ、老中を罷免され失脚する。

 文久二年十一月二十日(1863年1月9日)に永蟄居を命じらる。元治元年六月二十五日(1864年7月28日)に久世広周は逝去。四十五年の生涯を終えた。

伝記・評伝

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中御門経之

中御門経之

概要

 中御門経之(なかのみかどつねゆき)文政三年辛巳(かのとみ18)十二月十七日(1821年1月20日)生誕-明治二十四(1891)年八月二十七日薨去(七十歳)は、江戸時代末期から明治期にかけての公卿。華族。

経歴

 文政三年辛巳(かのとみ18)十二月十七日(1821年1月20日)に中御門経之は父・坊城俊明の五男として誕生する。中御門資文の養嗣子となる。

 安政五年三月十二日(1858年4月25日)に通商条約勅許問題が起こる。経之は88人の反対グループ、廷臣八十八卿(ていしんはちじゅうはちきょう)の一人となる。経之は岩倉具視と手を結んで討幕派公卿の一人となる。

岩倉具視

 慶応二年(1866年)に佐幕派の関白・二条斉敬(にじょうなりゆき)と久邇宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)を弾劾する。親王を厚く信任していた孝明天皇が経之を閉門処分に処す。

二条斉敬
久邇宮朝彦親王
孝明天皇

 慶応二年十二月二十五日(1867年1月30日)に孝明天皇が三十五歳の若さで崩御される。慶応三年一月九日(1867年2月13日)に明治天皇が践祚され、経之は罪を許されて宮中に復帰した。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に「討幕の密勅(とうばくのみっちょく)」が薩摩藩と長州藩に下される。経之は密勅の作成などに参加した。慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に明治天皇より王政復古の大号令が発せられ、江戸幕府が廃止となる。

 明治二十四(1891)年八月二十七日に中御門経之は薨去。七十年の生涯を終えた。


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正親町三条実愛

正親町三条実愛

概要

 正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)文政三年辛巳(かのとみ18)十二月五日(1821年1月8日)生誕-明治四十二(1909)年十月二十日薨去(八十八歳)は、江戸時代末期から明治期の公卿。政治家。維新後、嵯峨実愛と改名する。

経歴

 文政三年辛巳(かのとみ18)十二月五日(1821年1月8日)に正親町三条実愛は父・正親町三条実義(おおぎまちさんじょうさねよし)と信濃松本藩七代藩主の松平光年(まつだいらみつつら)の娘の母・松姫の子として誕生する。実愛は嘉永元年(1848年)に従三位参議となって公卿に列した。

 老中の堀田正睦は目付岩瀬忠震を伴い、安政五年二月五日(1858年3月19日)に入京し朝廷に対し条約勅許に尽力したが、同年三月十二日(同年4月25日)実愛や岩倉具視など中級、下級公家88人が抗議の座り込みを行うなど攘夷派の公家が抵抗した(廷臣八十八卿列参事件:ていしんはちじゅうはちきょうれっさんじけん)。孝明天皇は同年三月二十日(同年5月3日)に勅許を拒否する。

岩倉具視
孝明天皇

 実愛は薩摩藩が主導する公武合体運動を支持しており、「航海遠略策」に賛同したため尊王攘夷派の志士から敵視された結果、文久三年(1863年)に失脚する。

 文久三年八月十八日(1863年9月30日)に孝明天皇、会津藩、薩摩藩など幕府への攘夷委任(通商条約の破棄、再交渉)を支持する勢力が攘夷親征(過激派主導の攘夷戦争)を企てる三条実美ら急進的な尊攘派公家と背後の長州藩を朝廷から排除した政変が起きる(八月十八日の政変)。

 八月十八日の政変により朝廷に復帰した実愛は、薩摩藩に接触して討幕派公卿の一人として朝廷を主動した。明治元年(1868年)新政府の議定に就任する。

 明治四十二(1909)年10月20日に正親町三条実愛は薨去。八十八年の生涯を終えた。

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上杉斉憲

上杉斉憲

概要

 上杉斉憲(うえすぎなりのり)文政三年庚辰(かのえたつ17)五月十日(1820年6月20日)生誕-明治二十二(1889)年五月二十日薨去(六十八歳)は、江戸時代末期の出羽国米沢藩十二代藩主。

経歴

 文政三年庚辰(かのえたつ17)五月十日(1820年6月20日)に上杉斉憲は米沢藩十一代藩主の父・上杉斉定と畠山義周の娘の母の長男として誕生する。

 天保七年十月二十三日(1836年12月1日)に従四位下、侍従兼式部大輔に叙任する。天保十年四月三日(1839年5月15日)に家督を継ぐ。

 安政六年(1859年)に斉憲は種痘を藩内に推奨する。文久三年(1863年)年に十四代将軍徳川家茂の京都上洛に御供して二条城を警護した。元治元年五月一日(1864年6月4日)に従四位上に昇叙する。左近衛権中将兼弾正大弼如元となる。

徳川家茂

 斉憲は藩政改革に努め軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなど、藩政に大きな成功を収め、慶応二年(1866年)にこの功績を賞され3万石の加増を受ける。開明的な人物で開国にも積極的だった。

 慶応四年一月二日(1868年1月25日)夕方に幕府の軍艦2隻が兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃する。事実上戊辰戦争が開始した。

 当初、斉憲は新政府の意向に従って恭順を考えていた。しかし仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となり、新政府軍と戦った。米沢軍は一時、新政府軍を圧倒したが、新発田藩の寝返りもあり新政府軍の猛攻を受け敗走した。斉憲はやむなく新政府軍に降伏する。

 明治元年十二月七日(1869年1月19日)に家督を長男の成憲に譲り隠居する。明治二十二(1889)年五月二十日に上杉斉憲は薨去。六十八年の生涯を終えた。


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安藤信正

安藤信正

概要

 安藤信正(あんどうのぶまさ)文政二年庚辰(かのえたつ17)十一月二十五日(1820年1月10日)生誕-明治四年十月八日(1871年11月20日)逝去(五十一歳)は、江戸時代末期の陸奥国磐城平藩五代藩主。対馬守系安藤家十代。老中。

経歴

 文政二年庚辰(かのえたつ17)十一月二十五日(1820年1月10日)に安藤信正は磐城平藩江戸藩邸で磐城平藩四代藩主の父・安藤信由と大河内松平信明の娘の母の嫡男として誕生する。

 天保六年三月十五日(1835年4月12日)に十一代将軍・徳川家斉に御目見した。天保六年十二月十六日(1836年2月2日)に従五位下伊勢守に叙任される。後に長門守、対馬守と改める。

徳川家斉

 弘化四年八月二日(1847年9月11日)に父の死により家督を継ぐ。弘化五年一月二十三日(1848年2月27日)に奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)に就任する。安政五年八月二日(1858年9月8日)に寺社奉行を経て、大老井伊直弼の下で若年寄に就任した。

井伊直弼

 安政七年三月三日(1860年3月24日)に桜田門外で井伊直弼が暗殺された。安藤は直弼により罷免されていた久世広周(くぜひろちか)を老中に再任させて以後、安藤と久世が幕政を事実上取り仕切る最高権力者となる。

久世 広周

 安藤は井伊直弼の強権による政策を改めて穏健政策を取ることで朝廷と幕府の関係を深めていこうと考える(公武合体派)。安藤の公武合体策の実績は孝明天皇の妹和宮が十四代将軍徳川家茂への降嫁を実現させたことだった。

和宮
徳川家茂

 文久二年一月十五日(1862年2月13日)に江戸城坂下門外で尊攘派の水戸浪士6人が安藤を襲撃して負傷させた(坂下門外の変)。一部の老中から「背中に傷を受けるというのは、武士の風上にも置けない」と非難の声が上がる。

 文久二年四月十一日(1862年5月9日)に安藤は老中を免職され、江戸城の溜間詰格となる。同年八月十六日(同年9月9日)に隠居謹慎処分となり、同年十一月二十日(1863年1月9日)に永蟄居処分を言い渡される。

 慶応三年十月十四日(1867年11月9日)に江戸幕府第十五代将軍・徳川慶喜は日本の統治権返上を明治天皇に奏上する。翌日十五日(10日)に勅許される(大政奉還)。

徳川慶喜

 慶応三年十二月九日(1868年1月3日)に雄藩5藩(薩摩藩、越前藩、尾張藩、土佐藩、安芸藩)はクーデターを起こし朝廷を掌握、公家の岩倉具視が「王政復古の大号令」を発し、幕府廃止と新体制樹立を宣言した。

岩倉具視

 安藤は奥羽越列藩同盟(おううえつれっぱんどうめい)に加わり、新政府軍と戦ったが敗れた。安藤は降伏し、謹慎を余儀なくされた。明治二年九月十日(1869年10月14日)に永蟄居の処分が解かれた。

 明治四年十月八日(1871年11月20日)に安藤信正は逝去。五十一年の生涯を終えた。

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阿部正弘

阿部正弘

概要

 阿部正弘(あべまさひろ)文政二年己卯(つちのとう16)十月十六日(1819年12月3日)生誕 -安政四年六月十七日(1857年8月6日)薨去(三十七歳)は、江戸時代末期の備後福山藩第七代藩主。江戸幕府の老中首座。

備後福山城

経歴

 文政二年己卯(つちのとう16)十月十六日(1819年12月3日)に阿部正弘は江戸西の丸屋敷で福山藩第五代藩主の阿部正精(あべまさきよ)の五男として誕生する。

江戸西の丸

 文政九年六月二十日(1826年7月24日)に父の正精が逝去して兄の阿部正寧(あべまさやす)が家督を継ぐ。正寧は病弱だったため、天保七年十二月二十五日(1837年1月31日)に正弘に家督を譲って隠居した。

 天保八年(1837年)に正弘は福山へお国入りする。正弘が国元へ帰ったのは最初で最後だった。

 天保九年九月一日(1838年10月18日)に正弘は奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)に任じられる。天保十一年五月十九日(1840年6月18日)に寺社奉行見習となり、同年十一月(同年12月)に寺社奉行に就任する。大奥と僧侶が第十一代将軍・徳川家斉の時代に乱交を極めていた事件が家斉没後に寺社奉行となった正弘の時代に露見した。正弘は家斉の非を表面化させることを恐れて僧侶の日啓や日尚らを処断し、大奥の処分はほとんど一部だけに限定した。この裁断により第十二代将軍・徳川家慶から高い評価を得た。

                   徳川家斉
徳川家慶

 天保十四年閏九月十一日(1843年11月2日)に正弘は二十五歳の若さで老中となる。正弘が老中在任中に度重なる外国船の来航や中国でのアヘン戦争勃発など対外的脅威が深刻化したため、その対応に追われる。

 天保十五年五月(1844年6月)に江戸城本丸焼失事件が起こる。老中首座の土井利位はその再建費用として諸大名からの献金を充分には集められなかったことから将軍家慶の不興を買い、弘化元年六月二十一日(1844年8月4日)に水野忠邦が老中首座に復帰する。

水野忠邦

 正弘は一度罷免された水野が復帰するのに反対した。水野が復帰すると天保の改革時代に不正などを行っていた南町奉行の鳥居耀蔵(とりいようぞう)、後藤三右衛門、渋川敬直らを処分した。弘化二年二月二十二日(1845年3月29日)に老中首座の水野忠邦を天保の改革の際の不正を理由にその地位を奪った。正弘は水野に代わり老中首座となる。

 弘化二年(1845年)に海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)を設置して外交と国防問題を強化する。薩摩藩主の島津斉彬や水戸藩主の徳川斉昭など諸大名から幅広く意見を求める。

島津斉彬
徳川斉昭

 人材育成のため、嘉永六年(1853年)年に自らが治める備後福山藩の藩校「弘道館」(当時は新学館)を「誠之館」と改め、身分にかかわらず教育を行う。

 弘化三年閏五月二十六日(1846年7月19日)にアメリカ東インド艦隊司令官ジェームズ・ビドルが相模国浦賀に来航して通商を求めたが、正弘は鎖国を理由に拒絶した。嘉永六年六月三日(1853年7月8日)にマーシュ・ペリー率いる東インド艦隊がアメリカ第13代大統領フィルモアの親書を携えて浦賀へ来航した。同年七月十八日(同年8月22日)にペリーに遅れること1ヵ月半後に、ロシアのエフィム・プチャーチンが率いる旗艦パルラダ号以下4隻の艦隊が長崎に来航して通商を求めた。

ジェームズ・ビドル
マーシュ・ペリー
アメリカ第13代大統領フィルモア
エフィム・プチャーチン

 この国難を乗り切るため正弘は朝廷を始め、外様大名を含む諸大名や市井からも意見を募る。結局有効な対策を打ち出せなかった。結果的に幕府の権威を弱める一方で雄藩の発言力の強化及び朝廷の権威の強化につながった。

 正弘は積極的な政策を見出せないまま事態を穏便にまとめる形で、嘉永七年一月十六日(1854年2月13日)のペリーの再来を受け、同年三月三日(同年3月31日)に日米和親条約を締結する。約200年間続いた鎖国政策は終わりを告げた。

 安政二年八月四日(1855年9月14日)に攘夷派である徳川斉昭の圧力により開国派の松平乗全と松平忠優を老中から罷免する。開国派の反発で正弘は孤立を恐れ、安政二年十月九日(1855年11月18日)に開国派の堀田正睦(ほったまさよし)に老中首座を譲り、攘夷派と開国派の融和をはかる。正弘は幕府の分裂を回避した。

堀田 正睦

 このような情勢下で正弘は、江川英龍、勝海舟、大久保忠弘、永井尚志、高島秋帆らを登用して海防の強化に努める。講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設した。

江川英龍
勝海舟
大久保忠弘
永井尚志
高島秋帆

 安政四年六月十七日(1857年8月6日)に阿部正弘は病気により薨去。三十七年の生涯を終えた。

伝記・評伝

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長井雅楽

長井雅楽

概要

 長井雅楽(ながいうた)文政二年己卯(つちのとう16)五月一日(1819年6月22日)生誕-文久三年二月六日(1863年3月24日)逝去(四十三歳)は、江戸時代末期の長州藩士。役職は直目付。一般的な呼び名である雅楽は通称。諱は時庸(ときつね)。

経歴

 文政二年己卯(つちのとう16)五月一日(1819年6月22日)に長井雅楽は萩城下で長州藩士大組士中老の父・長井次郎右衛門泰憲の長男として誕生する。四歳の時に父が病死したため、家督を継ぐ。

 長井は藩校明倫館で学び、長州藩の第十三代藩主毛利敬親(慶親)の小姓、奥番頭となる。聡明な長井は敬親から厚い信任を受け、敬親の世子である毛利定広の後見人となった。安政五年(1858年)に長州藩の重役である直目付となる。

明倫館
毛利敬親(慶親)

 長井は開国論者であったため、文政元年(1861年)に公武一和に基づいた「航海遠略策(こうかいえんりゃくさく)」を藩主に建白した。朝廷や幕府の公武合体派にこれを歓迎され正式に幕府に建白して公武の周旋を依頼される。

 長井は藩内の吉田松陰とその門下生が主流である尊王攘夷派とは対立関係にあった。安政の大獄により松陰が捕縛され、江戸護送に対して強硬な対抗策を取らなかったため、後に松陰の弟子である久坂玄瑞(くさかげんずい)や前原一誠らに暗殺を計画される。

吉田松陰
久坂玄瑞
前原一誠

 文久二年一月十五日(1862年2月13日)に老中の安藤信正が尊攘派の水戸浪士6人により襲撃され負傷した(坂下門外の変)。この事件により公武合体を進めていた老中の安藤信正と同じく老中の久世広周(くぜひろちか)が失脚して藩内で攘夷派が勢力を盛り返し、長井の排斥運動が激しくなる。

安藤信正
久世 広周

 長井は坂下門外の変から2カ月後の文久二年三月(1862年4月)に上洛して朝廷に航海遠略策を説明したが、岩倉具視らの工作により長井の説は朝廷を誹謗するものとして聞き入れなかった。長井は敬親により帰国謹慎を命じられ、切腹を命じられた。その後藩論が二分され、内乱が起きることを憂いて長井は切腹を受け入れた。

岩倉具視

 文久三年二月六日(1863年3月24日)に萩城下で土原(ひじはら)の自邸にて切腹を果す。長井雅楽は四十三年の生涯を終えた。

伝記・評伝

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