タウンゼント・ハリス

タウンゼント・ハリス

概要

 タウンゼント・ハリス(Townsend Harris)1804年10月3日甲子(きのえね1)生誕 -1878年2月25日逝去(73歳)は、アメリカ合衆国の外交官。初代駐日アメリカ合衆国弁理公使。

経歴

 1804年10月3日甲子(きのえね1)にタウンゼント・ハリスはニューヨーク州ワシントン郡サンデーヒル(後のハドソン・フォールズ)で父ジョナサン・ハリスの六男として誕生する。小学校・中学校を卒業後、父や兄と陶磁器輸入業で働く。図書館を利用して独学でフランス語、イタリア語、スペイン語を習得する。

 独学の結果、1846年にニューヨーク市の教育局長となる。1847年に高等教育機関「フリーアカデミー(現、ニューヨーク市立大学シティカレッジ)」を創設する。ハリス自らフランス語、イタリア語、スペイン語を教え、貧困家庭の子女の教育向上に尽くす。

ニューヨーク市立大学シティカレッジ

 1849年にハリスはサンフランシスコで貨物船の権利を購入し、貿易業を開始する。清、ニュージーランド、インド、マニラなど太平洋を中心に各地を航行する。1853年に日本への第1次遠征を行っていたが、アメリカ東インド艦隊司令長官のマーシュ・ペリーが清に滞在していた。上海にいたハリスはペリーに対して日本への同乗を望むが、軍人でないために許可を得ることができなかった。

マーシュ・ペリー
アメリカ東インド艦隊

 ハリスは1854年3月に台湾に関するレポート「台湾事情申言書」を提出する。4月に寧波市の領事に任命される。1855年にフランクリン・ピアース大統領から初代駐日領事に任命される。ハリスは日本を平和的に開国させ、諸外国の専制的介入を防いでアメリカの東洋における貿易権益の確保を目的に、日本との通商条約締結のための全権委任を与えられる。イギリスの駐日公職者は母国政府から派遣されたエリート出身者がほとんどだったが、アメリカはハリスのような在住の商人らに駐日領事を任命する事があった。1856年8月21日(安政三年七月二十一日)にハリスは伊豆の下田港に到着した。

 ハリスは下田玉泉寺に領事館を設置した。大統領親書の提出のために江戸出府を望むが、攘夷論者が反対して江戸出府は留保された。1857年6月17日(安政四年五月二十六日)に下田協定が調印された。

 ハリスは江戸出府を要請し続けました。1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、幕府は江戸へ直接回航されることを恐れてハリスの江戸出府、江戸城への登城、将軍との謁見を許可した。1857年10月に下田を出発し江戸に入った。1857年12月7日(安政四年十月二十一日)に登城する。13代将軍徳川家定に謁見して親書を読み上げる。

徳川家定

 1858年(安政5年)に大老・井伊直弼が京都の朝廷の勅許無しで通商条約締結に踏み切り、日米修好通商条約が締結される。ハリスは初代駐日公使となり下田の領事館を閉鎖して、1859年7月7日(安政六年六月八日)に江戸の元麻布善福寺に公使館を設置した。

井伊直弼

 1861年1月14日(万延元年十二月四日)に通訳兼書記官のヒュースケンが殺害される事件が起こる。1861年5月2日(文久元年三月二十三日)に14代将軍徳川家茂名での「七年間の両都・両港の開市・開港の延期を要求する直書」が各国公使に出される。ハリスはヒュースケン後任のアントン・ポートマンに翻訳させて同年5月8日(同年三月二十九日)付けでアメリカ本国へ報告した。

14代将軍徳川家茂

 1861年8月1日(文久元年六月二十五日)付けでエイブラハム・リンカーン大統領、ウィリアム・ヘンリー・スワード国務長官から徳川家茂宛の書簡がハリスに届く。ヒュースケン殺害の補償の合意がなければ、開市延期を含む一切の譲歩はしないという内容だった。ハリスは幕府と交渉して補償の合意を取り付けた後、同年12月6日に家茂に面会してリンカーンの親書を直接手渡し、同年12月14日(文久元年十一月十三日)に幕府からヒュースケン殺害の補償が実行された。

エイブラハム・リンカーン大統領
ウィリアム・ヘンリー・スワード国務長官

1862年(文久二年)に病気を理由に辞任の意向を示し、幕府は留任を望んだがアメリカ政府の許可を得て同年4月に5年9か月の滞在を終えて帰国した。帰国後は特に公職には就かず、動物愛護団体の会員などになった。1876年に保養地のフロリダ州に移住して1878年2月25日に逝去。タウンゼント・ハリスは73年の生涯を終えた。

伝記・評伝

タウンゼンド・ハリス ―教育と外交にかけた生涯 (有隣新書42)

タウンゼント・ハリスと堀田正睦―日米友好関係史の一局面


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二宮敬作

二宮敬作

概要

 二宮敬作(にのみやけいさく)文化元年甲子(きのえね1)五月十日(1804年6月17日)生誕-文久二年三月十二日(1862年4月10日)逝去(五十七歳)は、江戸時代後期の蘭学者、医学者。

経歴

 文化元年甲子(きのえね1)五月十日(1804年6月17日)に二宮敬作は伊予国宇和郡磯崎浦(現、愛媛県八幡浜市保内町磯崎)で誕生する。文政二年(1819年)に医師を志し長崎へ留学する。蘭語、蘭方医学を学んだ後、文政六年(1823年)にフィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルトの門弟となり鳴滝塾で学ぶ。

フィリップ・フランツ・バルタザール・フォン・シーボルト
鳴滝塾

 文政九年(1826年)にシーボルトの江戸行きに同行して測量器を用い、富士山の高度を日本で初めて測量する(シーボルトの恩師への報告によると測量結果は4982mで誤差1206m)。

 文政十一年(1828年)にシーボルト事件が起き、シーボルトがオランダへ帰還する際にシーボルトの娘イネの養育を託される。その後、敬作は事件に連座し半年の入獄ののち、江戸立ち入り禁止をされ長崎からも追放される。敬作は故郷の磯崎に戻る。

楠本イネ

 天保元年(1833年)に宇和郡卯之町で町医者となり、イネを呼び寄せ養育した。安政五年(1858年)に再び長崎へ行き、開業医となる。安政六年(1859年)に長崎に再来日したシーボルトと再会する。シーボルトは産科医を開業している娘イネをみて、養父の敬作に感謝した。

 文久二年三月十二日(1862年4月10日)に長崎で逝去する。二宮敬作は五十七年の生涯を終えた。

関連書籍

黎明のマルス: 幕末に生きた日本史上初の女医、楠本イネの軌跡


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芳野金陵

芳野金陵

概要

 芳野金陵(よしのきんりょう)享和二年癸亥(みずのとゐ60)十二月二十日(1803年1月13日)生誕 -明治十一(1878)年八月五日逝去(七十五歳)は、江戸時代後期の儒者。名は成育。字は叔果。通称、愿三郎(げんざぶろう)、のち立蔵。金陵のほか匏宇(ほおう)と号する。

経歴

 享和二年癸亥(みずのとゐ60)十二月二十日(1803年1月13日)に芳野金陵は下総国葛飾郡松ケ崎村(現、千葉県柏市)の儒医の芳野南山の次男として、小浮気村(現、千葉県成田市)にある母の実家で誕生する。父を師として論語や史記、漢籍等の学問を修める。

 文政六年(1823年)に父の許しを得て江戸に遊学する。当時の高名な儒学者の亀田鵬斎(かめだほうさい)へ入門を希望したが、鵬斎が高齢のため、その子の綾瀬(りょうらい)に入門する。亀田綾瀬は下総国関宿藩の儒官を勤めていた。

 文政九年(1826年)に浅草福井町(現、東京都台東区浅草橋1・2丁目)に私塾「逢原堂」を開塾する。その門人帳「執贄録」「登門録」に記載された入門者は、1400人に上った。

 弘化四年八月(1847年9月)に駿河田中藩の儒員に就任する。嘉永六年(1853年)にアメリカのペリー提督が軍艦4隻を率いて浦賀に来航すると、日本中は大混乱に陥った。文久二年(1862年)に福井藩主松平春嶽(まつだいらしゅんがく)が幕府の政事総裁につくと、金陵は政策や人材の推挙等で意見を述べるようになり、その見識が評価された。生麦事件による薩摩藩とイギリス艦隊の交戦など、朝廷や尊王攘夷派の動きが急を告げていた時期だった。金陵は幕府の公式学問所である昌平坂学問所の儒官として招かれる。

ペリー提督
ペリー艦隊
松平春嶽
昌平学校(旧、昌平坂学問所)

 金陵は「欧米列強のうちアメリカは南北戦争の渦中にある。ロシアもクリミア戦争の痛手が残っており、オランダもこれまでの関係から日本には手を出さないであろう。従って我が国が真剣に対策を立てるべきはイギリスとフランスである。」という意見を述べた。藤田東湖(ふじたとうこ)や藤森弘庵(ふじのもりこうあん)、安井息軒、塩屋宕陰といった当代一流の学者たちとも親しく付き合い、海防論議を重ねた。

藤田東湖
安井息軒

 明治元年十二月(1869年1月)より昌平学校(旧、昌平坂学問所)教授に就任する。明治三年(1870年)に昌平学校が廃校後は引退し、大塚に隠居して余生を送り、精力的に四書五経等の著述をした。明治十一(1878)年八月五日に芳野金陵は七十五年の生涯を終えた。

著作

金陵文抄 : 譚故書餘(キンリョウ ブンショウ : タンコ ショヨ)1881(明治14)年3月出版 

金陵遺稿( キンリョウ イコウ1,2) 1888(明治21)7月年出版

出典 国立国会図書館デジタルコレクション


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安井息軒

安井息軒

概要

 安井息軒(やすいそっけん)寛政十一年己未(つちのとひつじ56)一月一日(1799年2月5日)生誕 – 明治九(1876)年九月二十三日逝去(七十七歳)は江戸時代の儒学者。名は衡、字は仲平、息軒は号。

経歴

 寛政十一年己未(つちのとひつじ56)一月一日(1799年2月5日)に安井息軒は飫肥藩士(おびはんし)安井滄洲の次男として、清武郷中野(現、宮崎市)に誕生する。幼少の頃天然痘に罹り、顔面の疱瘡痕で片目が潰れた容貌となる。息軒は学者の父の影響を受けて学問を志し、文化七年(1810年)に江戸昌平坂学問所(しょうへいざかがくもんじょ)で学ぶ。

安井息軒旧宅
宮崎県宮崎市清武町加納甲3378-1
昌平坂学問所
東京都文京区湯島1-4-25 

 文政十年(1827年)に息軒は飫肥藩主伊東祐相(いとうすけとも)に呼ばれ清武郷に帰り侍読となり、川添佐代と結婚した。郷校「明教堂」と藩校「振徳堂」で助読に任ぜられた。息軒は藩政に参与するようになる。

伊東 祐相

 藩主が息軒を重用して進める藩政改革に反対する保守派の排除により、天保八年(1837年)に息軒が四十歳の時に江戸に出る。芝増上寺の僧寮に入り、ここで礼楽(らいがく)、兵制、刑法について深く学ぶ。天保九年(1838年)に家族を江戸に呼び移住した。息軒は私塾「三計塾」を開く。「一日の計は朝にあり。一年の計は春にあり。一生の計は少壮の時にあり。」は三計塾の設立主旨となる。文久二年(1862年)に幕府に招かれて塩谷宕陰、芳野金陵とともに昌平坂学問所の儒官となる。

増上寺
東京都芝公園4丁目7-35
塩谷宕陰
芳野金陵

 明治元年(1868年)に息軒は明治維新により身分は飫肥藩籍に戻る。飫肥藩江戸屋敷で塾生の教育に尽力したが、明治五年(1872年)の学制発布により塾生は激減した。息軒門下からは谷 干城や陸奥宗光など延べ2000名に上る逸材が輩出された。明治九(1876)年九月二十三日に安井息軒は七十七年の生涯を終えた。

谷 干城
陸奥宗光

伝記・評伝

瓦全―息軒小伝 (みやざき文庫 37) (みやざき文庫 (37))

青春の息吹 安井息軒『志濃武草』読解と紀行 (みやざき文庫)

日本の思想家30 松崎慊堂・安井息軒 (叢書・日本の思想家 儒学編)


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高野長英

高野長英

概要

高野長英(たかのちょうえい)文化元年甲子(きのえね1)五月五日(1804年6月12日)生誕 – 嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)逝去(四十六歳)は、江戸時代後期の医者、蘭学者。通称、悦三郎。諱(いみな)は譲(ゆずる)。号は瑞皐(ずいこう)。

経歴

 文化元年甲子(きのえね1)五月五日(1804年6月12日)に高野長英は陸奥国仙台藩の一門、水沢領主水沢伊達家家臣、後藤実慶の三男として誕生する。養父の叔父、高野玄斎は江戸で杉田玄白から蘭法医術を学んだ。養父所蔵の蘭書が多くあり、長英は幼いころから蘭学に強い関心を持つようになる。

杉田玄白

 文政三年(1820年)に長英は江戸に赴き、杉田伯元や吉田長淑に師事した。江戸生活で吉田長淑に才能を認められ、師の長の文字を貰い受けて「長英」を名乗る。同年、長崎に留学してフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの鳴滝塾に入塾する。医学や蘭学を学ぶ。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
鳴滝塾

 鳴滝塾ではその抜きん出た学力から塾頭となる。文政十一年(1828年)にシーボルト事件が起き、二宮敬作や高良斎など主だった弟子が捕まり厳しい詮議を受けたが、長英はこのとき巧みに逃れた。後日、広瀬淡窓に弟子入りしたという説がある。この間、義父玄斎が亡くなり、長英は故郷から帰郷を求められるが、考えたすえに家督を捨てた。長英は武士の身分を失う。

二宮敬作

 天保元年(1830年)に江戸に戻り、麹町に町医者として蘭学塾を開業する。三河田原藩重役、渡辺崋山と出会い、崋山に長英の能力を買われて田原藩のお雇い蘭学者として蘭学書の翻訳に当たる。わが国で初めて、ピタゴラス、ガリレオ・ガリレイの近代科学、ジョン・ロック、などの西洋哲学史を要約する。

渡辺崋山

 天保三年(1832年)に紀州藩儒官の遠藤勝助の主宰する天保の大飢饉の対策会である「尚歯会(しょうしかい)に入り、崋山や藤田東湖らとともに中心的役割を担った。長英の『救荒二物考』などの著作はこの成果であった。

藤田東湖

 天保十年(1839年)に蛮社の獄が勃発する。長英も幕政批判のかどで捕らえられ、永牢終身刑判決が下り、伝馬町牢屋敷に収監された。牢内では服役者の医療に努め、また劣悪な牢内環境の改善なども訴えた。弘化元年六月三十日(1844年)に牢屋敷の火災に乗じて長英は脱獄する。硝酸で顔を焼いて人相を変えながら逃亡生活を続け、「沢三伯」の偽名を使って町医者を開業した。

伝馬町牢屋敷

 嘉永三年十月三十日(1850年12月3日)に江戸の青山百人町(現、東京都南青山)に潜伏していたところを何者かに密告され、町奉行所に捕縛される。何人もの捕方に十手で殴打され、縄をかけられた時には既に半死半生だったため、やむを得ず駕籠で護送する最中に絶命した。高野長英は四十六年の生涯を終えた。

著作・伝記・評伝

ゆめもの語 (国会図書館コレクション)

評伝高野長英―1804ー50

日本開国の道標―開国へ先鞭をつけた渡辺崋山と高野長英

長英逃亡(上) (新潮文庫)

日本の名著〈25〉渡辺崋山・高野長英 (中公バックス)


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間部詮勝

間部詮勝

概要

 間部詮勝(まなべあきかつ)文化元年甲子(きのえね1)二月十九日(1804年3月30日)生誕-明治十七(1884)年十一月二十八日逝去(八十歳)は、江戸時代後期の大名。越前鯖江藩第七代藩主。間部家八代。老中首座。

経歴

 文化元年甲子(きのえね1)二月十九日(1804年3月30日)に間部詮熙(まなべ あきひろ)の五男として江戸の鯖江藩邸で誕生する。幼名は鉞之進(えつのしん)。

 文化十一年(1814年)に間部は鯖江藩主となり、十一代将軍の徳川家斉の側近として奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)、寺社奉行、大坂城代、京都所司代などを歴任した。天保十一年(1840年)に家斉の推薦で西ノ丸老中となったが、水野忠邦に奢侈好みだった家斉の最晩年の側近だったと疎まれ、天保十四年(1843年)に老中を辞任する。

11代将軍 徳川家斉
水野忠邦

 安政五年六月(1858年7月)に間部は南紀派の大老井伊直弼の下で再び老中に復帰し、財政を担当する勝手御入用掛と外交を担当する外国御用取扱を兼務した。その後、勝手掛老中に上る。間部は一橋派や尊王攘夷派を弾圧する安政の大獄を進めた。こうした動きに対し、吉田松陰は間部の暗殺を企てる。

大老 井伊直弼
吉田松陰

 安政六年三月(1859年4月)に江戸に戻ると井伊直弼と対立するようになる。条約の勅許を得るといった成果をあげたことで、間部は幕政の主導権を握ろうとした。その結果、同年十二月(1860年1月)に免職となる。間部詮勝は明治十七(1884)年十一月二十八日逝去。八十年の生涯を終えた。

関連書籍

「志」が人と時代を動かす! 吉田松陰の人間山脈 (青春新書インテリジェンス)


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伊藤 圭介

伊藤 圭介

概要

 伊藤圭介(いとうけいすけ)享和三年癸亥(みずのとゐ60)一月二十七日(1803年2月18日)生誕 -明治三十四(1901 )年一月二十日逝去(九十七歳)は、幕末から明治期に活躍した理学博士。男爵。名は舜民、清民。 字は戴堯、圭介。号は錦窠。

経歴

 享和三年癸亥(みずのとゐ60)一月二十七日(1803年2月18日)に伊藤圭介は町医者の西山玄道の次男として名古屋呉服町に誕生する。文政三年(1820年)に町医の資格を得て開業する。文政四年(1821年)に京都に遊学し、藤林泰助から蘭学を学ぶ。文政十年(1827年)に長崎でフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトから「本草学」を学ぶ。文政十一年(1828年)に名古屋に帰還の際、にシーボルトからカール・ツンベルクの『日本植物誌』を受け取り、これを翻訳して文政十二年(1829年)に『泰西本草名疏』を刊行した。嘉永五年(1852年)に尾張藩から種痘法取調を命ぜられる。

フィリップ・フランツ・フォン・シーボルト
カール・ツンベルクの『日本植物誌』
泰西本草名疏

 明治維新後、明治三年(1870年)に圭介は名古屋を離れて東京に移住して明治政府に任官する。明治十四年(1881年)に東京大学教授に就任する。明治二十一年(1888年)に日本初の理学博士の学位を授与される。明治三十四(1901 )年一月二十日に逝去する。伊藤圭介は九十八年の生涯を終えた。

東京大学

著作

近世植物・動物・鉱物図譜集成〈第45巻〉伊藤圭介稿植物図説雜纂〈20〉 (諸国産物帳集成)

近世植物・動物・鉱物図譜集成〈第33巻〉伊藤圭介稿 植物図説雜纂〈8〉 (諸国産物帳集成)

伊藤圭介日記 [1] (国会図書館コレクション)

伊藤圭介遺言状 (国会図書館コレクション)

伝記・評伝

伊藤圭介 (人物叢書)


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江川英龍

江川英龍

概要

 江川英龍(えがわひでたつ)享和元年辛酉(かのととり58)五月十三日(1801年6月23日)生誕-安政二年一月十六日(1855年3月4日)逝去(五十三歳)は、江戸時代後期の幕臣。伊豆韮山代官。通称、太郎左衛門(たろうざえもん)。号は坦庵(たんあん)。

経歴

 享和元年辛酉(かのととり58)五月十三日(1801年6月23日)に江川英毅の次男として韮山で誕生する。江川家は伊豆韮山代官として天領の民政に従事する。英龍が代官職を継いだのは天保六年(1835年)の時だった。父・英毅は民治に力を尽くし、商品作物の栽培による増収などを目指した人物として知られていた。英龍も施政の公正に勤め、二宮尊徳を招聘して農地の改良などを行う。嘉永年間に種痘の技術が伝わると、領民への接種を積極的に推進する。領民を思った英龍の姿勢に領民は彼を「世直し江川大明神」と呼んで敬愛した。

韮山
二宮尊徳

 寛政十二年(1800年)以降、日本近海に外国船がしばしば現れた。幕府は異国船打払令を制定、日本近海から異国船を駆逐する方針を採っていた。天保八年(1837年)にモリソン号事件が起こる。幕府は方針に従ってモリソン号に砲撃を行う。英龍は代官として管轄区域に海防上重要な地域が含まれており、海防問題に危機感を持った。

モリソン号

 こうした時期に英龍は川路聖謨と羽倉簡堂の紹介で渡辺崋山と高野長英に出会う。英龍は彼らに積極的に洋学知識を学ぶ。田原藩に海防問題を抱える崋山は長崎で洋式砲術を学んだという高島秋帆の存在を知り、彼の知識を海防問題に生かす道を模索した。しかし、幕府内の蘭学を嫌う目付、鳥居耀蔵ら保守勢力がこの動きを不服とした。

渡辺崋山
高野長英
高島秋帆

 英龍は長崎へと赴いて高島秋帆に弟子入りし、近代砲術を学ぶと共に幕府に高島流砲術を取り入れ、江戸で演習を行うよう働きかけた。英龍は水野忠邦より正式な幕命として高島秋帆への弟子入りを認められる。以後は高島流砲術をさらに改良した西洋砲術の普及に努め、「江川塾」を江戸に開き、全国の藩士にこれを教育した。佐久間象山、大鳥圭介、橋本左内、桂小五郎(木戸孝允)などが英龍の門下で学んだ。

水野忠邦
佐久間象山
大鳥圭介
橋本左内
桂小五郎(木戸孝允)

 天保十四年(1843年)に水野忠邦が失脚した後に老中となった阿部正弘に評価され、嘉永六年(1853年)にペリー来航直後に勘定吟味役格に登用される。品川台場(お台場)を築造した。銃砲製作のため湯島大小砲鋳立て場を設立した。鉄鋼を得るため反射炉の建造に取り組む(韮山反射炉)。

阿部正弘
品川台場跡

 英龍は造船技術の向上にも力を注ぎ、爆裂砲弾の研究開発を始めとする近代的装備による農兵軍の組織までも企図したが、激務に体調を崩し、安政二年一月十六日(1855年3月4日)に本所南割下水(現、東京と墨田区亀沢1丁目)の江戸屋敷で逝去した。江川英龍は五十三年の生涯を終えた。

伝記・評伝

英龍伝

勝海舟が絶賛し、福沢諭吉も憧れた 幕末の知られざる巨人 江川英龍 (角川SSC新書)

評伝江川太郎左衛門―幕末・海防に奔走した韮山代官の軌跡

江川太郎佐衛門の生涯―日本の国防に一生を捧げた韮山代官

しずおかの文化新書17 幕末の産業革命 韮山反射炉〜伊豆韮山代官 江川太郎左衛門の挑戦〜 (しずおかの文化新書 17 地域をめぐる知の冒険)

幕臣たちと技術立国 ―江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢 (集英社新書)

幕臣たちと技術立国 ―江川英龍・中島三郎助・榎本武揚が追った夢 (集英社新書)

江川坦庵 (人物叢書 新装版)

明治日本の産業革命遺産 ラストサムライの挑戦! 技術立国ニッポンはここから始まった! (集英社ビジネス書)


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川路聖謨

川路聖謨

概要

 川路聖謨(かわじとしあきら)享和元年辛酉(かのととり58)四月二十五日(1801年6月6日)生誕-慶応四年三月十五日(1868年4月7日)逝去(六十六歳)は、江戸時代末期の旗本。号は敬斎。

経歴

 享和元年辛酉(かのととり58)四月二十五日(1801年6月6日)に川路聖謨は豊後国日田(現、大分県日田市)で日田代官所属吏の父・内藤吉兵衛歳由と日田代官所手付の高橋誠種の娘の母の長男として誕生する。幼名は弥吉。

 文化九年(1812年)に弥吉は十二歳で小普請組の川路三左衛門光房の養子となる。文化十年(1813年)に元服する。弥吉から萬福(かずとみ)と名乗り、小普請組に入る。文化十四年(1817年)に勘定奉行所の下級吏員資格試験である筆算吟味に合格する。文政元年(1818年)に勘定奉行所支配勘定出役という下級幕吏に採用された。支配勘定を経て御勘定に昇進して旗本となる。その後、佐渡奉行を経て、老中の水野忠邦の下、普請奉行として天保の改革に取り組む。この頃、名を萬福から聖謨に改める。

水野忠邦

 水野忠邦が天保の改革で失脚する。聖謨は奈良奉行に左遷される。民政にも尽くし、乱伐された多聞城跡に約50万本を植樹した。佐保川には「川路桜」と呼ばれる桜の樹を植林した。賭博を取り締まり、貧民救済に取り組む。

川路桜

 嘉永五年(1852年)に聖謨は公事方勘定奉行に就任する。嘉永六年(1853年)に老中首座の阿部正弘に海岸防禦御用掛(かいがんぼうぎょごようがかり)を任命される。同年、長崎に来航したロシア使節との交渉を担当する。安政五年(1858年)に老中首座の堀田正睦に同行して上洛する。朝廷に日米修好通商条約の承認を得ようとするが却下される。

阿部正弘
堀田正睦

 安政五年四月二十三日(1858年)に井伊直弼が大老に就任すると一橋派である川路聖謨は西丸留守居役に左遷される。更に翌年安政六年八月二十七日(1859年)に罷免されて隠居差控を命じられる。万延元年三月三日(1860年)に大老の井伊直弼が桜田門外の杵築藩邸の門前で水戸脱藩浪士17名と薩摩藩士1名により暗殺される。この事件により聖謨は文久三年(1863年)に勘定奉行格外国奉行に復帰する。しかし役回りに不満があり、病気を理由としてこの職を辞任する。

井伊直弼

 引退後、聖謨は中風によって半身不随になり、弟の井上清直の逝去など不幸が重なる。慶応四年三月十五日(1868年4月7日)に新政府軍の江戸城総攻撃の予定日に割腹の上ピストルで喉を撃ち抜いて自殺した。川路聖謨は六十六年の生涯を終えた。

伝記・評伝

川路聖謨 (人物叢書)

新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨(上) (講談社文庫)

新装版 落日の宴 勘定奉行川路聖謨(下) (講談社文庫)

桜奉行 幕末奈良を再生した男 川路聖謨

官僚川路聖謨の生涯 (文春文庫)


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伊東玄朴

伊東玄朴

概要

伊東玄朴(いとうげんぼく)寛政十二年辛酉(かのととり58)十二月二十八日(1801年2月11日)生誕 -明治四年一月二日(1871年2月20日)逝去(七十歳)は、江戸時代末期から明治にかけての蘭方医。徳川幕府の奥医師。名は淵。近代医学の祖。

経歴

 寛政十二年辛酉(かのととり58)十二月二十八日(1801年2月11日)に伊東玄朴は肥前国(現、佐賀県神埼市神崎町的仁比山)で仁比山神社に仕えた執行重助の子として誕生する。後に佐賀藩士、伊東家の養子となる。

仁比山神社

 玄朴は長崎の鳴滝塾で、フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトからオランダ医学を学ぶ。文政九年四月(1826年5月)にオランダ商館長(カピタン)の江戸参府にシーボルトと一緒に玄朴も随行した。玄朴は佐賀藩医の身分で江戸に留まる。

鳴滝塾 シーボルト像

 嘉永二年七月二十日(1849年)に玄朴は佐賀藩に牛痘種痘苗の入手を進言し、オランダ商館を通して種痘苗の入手に成功する。安政五年五月七日(1858年)に江戸幕府第十三代将軍、徳川家定が病気の際に蘭方医の戸塚静海とともに幕府奥医師に登用される。

牛痘種痘
徳川家定

 文久元年(1861年)に種痘所が幕府の支配下となり大槻俊斎が所長となる。種痘所は「西洋医学所」と名を改め、教授、解剖、種痘の三科に分かれて西洋医学校と付属診療所として開業する。玄朴は翌年の文久二年(1862 年)に林洞海や竹内玄同と共に、西洋医学所の取締役を命じられる。

 文久三年一月二十五日(1863年)に西洋医学所の頭取、松本良順の弾劾により玄朴は失脚する。以後奥医師に返り咲くことがなかった。明治四年辛未一月二日(1871年2月20日)に伊東玄朴は七十年の生涯を終えた。

伝記

伊東玄朴 (佐賀偉人伝)

天然痘に立ち向かった人類の闘い―江戸における伊東玄朴の功績

玄朴と長英 他三篇 (岩波文庫)


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