ルイ・パスツール

ルイ・パスツール

概要

 ルイ・パスツール( Louis Pasteur,1822(文政5)年壬午(みずのえうま19)12月27日生誕-1895(明治28)年乙未(きのとひつじ32)9月28日逝去。(72歳)は、フランスの生科学者・細菌学者です。「科学には国境はないが、科学者には祖国がある」という言葉で知られます。王立協会外国人会員。ロベルト・コッホと共に「近代細菌学の開祖」とされます。

 分子の光学異性体を発見。牛乳、ワイン、ビールの腐敗を防ぐ低温での殺菌法(パスチャライゼーション(Pasteurisation・低温殺菌法)を開発しました。またワクチンの予防接種という方法を開発し、狂犬病ワクチン、ニワトリコレラワクチンを発明しております。

経歴

 ルイ・パスツールは1822年にフランス、ジュラ地方のドールで皮なめし職人の息子として生まれました。1843年にパリの高等師範学校(エコール・ノルマル・シュペリウール)に入学し、1846年に博士号を取得しました。初期の、化学者時代の業績として、酒石酸の性質の解明(1849年)があります。パスツールはこの結晶学関する博士論文により、ストラスブール大学の化学の教授の地位を得ました。

フランス、ジュラ地方のドール
パリの高等師範学校
ストラスブール大学

 1854年に、リールの新しい理科大学の学部長に指名されました。1857年に、高等師範学校の事務局長兼理学部長に就任しました。この時期に、アルコール製造業者から「ワインの腐敗原因を調べてほしい」という依頼を受け、これがパスツールを生物学、微生物学の研究に向かわせる契機となりました。

 1862年4月20日、パスツールとクロード・ベルナールは、低温殺菌法(パスチャライゼーション)(pasteurisation)として知られる最初の実験を行いました。

 1865年、微粒子病と呼ばれる病気により、多くの蚕が死んでいた事により、パスツールは養蚕業の救済に尽力しました。パスツールはそこから多くのヒントを得ましたが、研究の途中で脳卒中に倒れ、左半身不随になりましたが、微粒子病がカイコの卵へのノゼマ(Nosema apis)と呼ばれる原生生物(微胞子虫)の感染であることを発見し、微粒子病を防止に成功しました。

 1895年12月27日に、持病の合併症が原因となり、パリ近郊マルヌ=ラ=コケットで亡くなりました。近代細菌学の開祖の72年の生涯でした。

マルヌ=ラ=コケット

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著作

自然発生説の検討 (岩波文庫 青 951-1)

伝記

ルイ・パスツール―無限に小さい生命の秘境へ (オックスフォード 科学の肖像)

パスツール―人類を病原体から救った偉人 (講談社 火の鳥伝記文庫)

パスツールと微生物-伝染病の解明と治療につくした科学者- (ジュニアサイエンスシリーズ)

世界の伝記〈14〉微生物のかりゅうど―パスツール

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エドワード・ジェンナー

エドワード・ジェンナー

概要

 エドワード・ジェンナーEdward Jenner、1749(寛延2)年 己巳(つちのとみ6)5月17日生誕-1823(文政6)年 癸未(みずのとひつじ20)1月26日逝去。(73歳)は、イギリスの医学者。天然痘の予防において、従前の人痘接種より安全性の高い種痘(牛痘接種)法を開発しました。近代免疫学の父と呼ばれております。

経歴

 ジェンナーは1749年5月17日にグレートブリテン王国グロスターシャーに生まれました。 ジョン・ハンターを師として医学を学びました。

グロスターシャー
ジョン・ハンター

 この時代、イギリスでは天然痘がしばしば流行しておりました。天然痘に対する予防接種は、オスマン帝国駐在大使夫人だったメアリー・モンタギューが現地で、天然痘患者の膿疱から抽出した液を健康な人に接種する人痘法を知り、1721年に帰国すると自分の娘に種痘接種を施してイギリスの上流階級に広めました。しかし、この予防法では接種を受けた者の2パーセントは重症化して死亡するという、危険を伴うものでした。

メアリー・モンタギュー

 ジェンナーが医師として活動していた頃に、牛の乳搾りなどをして牛と接することによって自然に牛痘にかかった人間は、その後天然痘にかからないという農民の言い伝えがありました 。天然痘に比べると、牛痘は、はるかに安全な病気でありました。ジェンナーはこれが天然痘の予防に使えると考え、1778年から18年にわたって研究を続けました。1796年5月14日、ジェンナーの使用人の子であるジェームス・フィップスという8歳の少年に牛痘を接種しました。。少年は、深刻な症状がありませんでした。6週間後にジェンナーは少年に天然痘を接種しましたが、少年は天然痘にはかからず、牛痘による天然痘予防法が成功しました。

牛痘

 1789年、天然痘予防法を発表し、種痘法はエーロッパにひろまり1802年、イギリス議会から賞金が贈られました。しかしイギリス医学界はこの功績を認めませんでした。その後、天然痘の大流行を機にジェンナーの種痘法は急速に普及し、彼は「近代免疫学の父」と呼ばれるようになりました。天然痘ワクチンは改良されて、世界中で使われ始めました。ついに1980年、天然痘の根絶が宣言されました。 

 天然痘予防法から天然痘の根絶まで、実に191年を要しました。人類は現在、「新型コロナウイルス(COVID-19)」の感染症と戦っております。ジェンナーの種痘法の確立から224年を経た(2020年5月30日現在)、新型コロナウイルスのワクチン開発に至るまで数年かかると報道されております。本記事では、免疫の歴史を研究する事により、新型コロナウイルス感染症の早期解決のヒントになるのではと考え、「近代免疫学の父」と呼ばれたエドワード・ジェンナーを取り上げました。免疫学の歴史を通し、新型コロナウイルスの脅威から一日も早く解放される日を願っております。

新型コロナウイルス(COVID-19)

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参考文献

Newton ウイルスと感染症 続出する新たな感染症

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チャールズ・ダーウィン

チャールズ・ダーウィン

概要

 チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin ,1809(文化6)年己巳(つちのとみ6)2月12日生誕-1882(明治15)年壬午(みずのえうま19)4月19日逝去。(73歳)は、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者として、「種の形成理論」を確立しました。一般的に「進化論」と呼称されております。「進化論」の提唱の功績から今日では生物学者と一般的に見なされる傾向にありますが、ダーウィン自身は存命中に地質学者を名乗っております。

経歴

 1809年2月12日にイングランド、シュロップシャー州シュルーズベリーで医師の父ロバート・ダーウィンとと母スザンナ・ダーウィンの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれました。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンで、母方の祖父は陶芸家であるジュサイア・ウェッジウッドです。ダーウィンは幼少の頃から植物について興味を持ち、貝殻や鉱物を収集しておりました。

 1825年、エジンバラ大学で医学と地質学を学びました。外科手術になじめず、1827年にエジンバラ大学を退学します。父親は、ダーウィンを牧師にする為にケンブリッジ大学クライスト・カレッジの入学を勧めました。ダーウィンは父の提案を喜んで受け入れ入学しました。そして、必修外の博物学と昆虫採集に没頭しました。

エジンバラ大学
ケンブリッジ大学クライスト・カレッジ

 1827年夏に、ジョサイア2世と、その娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸を旅行し、パリに数週間滞在しました。

 1831年にケンブリッジ大学を卒業します。卒業後、イギリス海軍の測量船ビーグル号にロバート・フィッツロイ艦長の客人として航海に参加しました。ビーグル号は1831年12月27日にプリマス出航しました。南米に向かう途中のカーボブェルデに寄港し、ここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めました。

ビーグル号
ロバート・フィッツロイ艦長

 1835年12月30日にニュージーランドへ寄港。1836年1月にオーストラリアのシドニーへ到着しました。その後、インド洋を横断。モーリシャス島に寄港。6月にケープタウンに到着しました。ケープタウンに住んでいる天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねました。ヘンズローからの手紙で、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされました。

 1836年10月2日にファルマス港に帰着しました。航海は当初3年の予定でしたが、ほぼ5年が経過しておりました。1837年3月にロンドンに移住しました。ロンドンで兄エラズマスと共に暮らしました。

ファルマス港

 1839年1月24日にダーウィンはロンドン王立協会の会員に選出されました。5日後の1月29日にエマとメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われました。式が終わるとロンドンへ向かいました。12月に長男ウィリアムが誕生しました。

 ダーウィンはトマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで、「種について」の発想を得ました。1838年9月28日にこの「種について」の洞察を書きました。1853年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞。生物学者としての確固たる地位を得ました。1854年に再び種の理論の研究を始めました。1859年11月22日に発売された『種の起源』は初版1250冊以上の申し込みがあり、人気を博しました。『種の起源』により、ダーウィンの名声はさらに高まりました。1882年ダーウィンは73年の生涯を終えました。フィールドワークと発想で、『種の起源』が完成し、人類に大きな影響を与えた人物でした。

トマス・マルサス

人口論 (中公文庫)

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著作

若い読者のための『種の起源』


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ジョン・ケネス・ガルブレイス

ジョン・ケネス・ガルブレイスJohn Kenneth Galbraith

概要

 ジョン・ケネス・ガルブレイス(John Kenneth Galbraith、1908(明治41)年戊申(つちのえさる45)10月15日生誕-2006(平成28)年丙申(ひのえさる33)4月29日逝去。(97歳)は、カナダ出身の制度派経済学者です。ハーバード大学名誉教授。

経歴

 ガルブレイスはカナダ・オンタリオ州・アイオナ・ステーションに農家の子供として生まれました。1931(昭和6)年、オンタリオ農業大学(当時はトロント大学の系列校、現ゲルフ大学)にて学士取得、カルフォルニア大学バークレー校にて修士号(1933(昭和8)年を取得。1934(昭和9)年博士号を取得しました。1937(昭和12)年、米国市民権を取得しました。

ゲルフ大学
カルフォルニア大学バークレー校

 第二次世界大戦の時、ガルブレイスは物価局の副部長でした。インフレ抑制に活躍しました。終戦後、日本の戦後統治に関するアドバイスを務めました。1943(昭和18)年から1948(昭和23)年に「フォーチュン」誌の編集者を務め、1949(昭和24)年に、ハーバード大学経済学部教授に就任しました。

ハーバード大学

 1961(昭和36)年から1963(昭和38)年に、米国駐インド大使に就任。インド政府の経済開発の支援を試みました。1972(昭和47)年に、アメリカ経済学会の会長を務め、1997年に、カナダ勲章を(Officers of the Order of Canada)を受勲しました。

カナダ勲章

 2006(平成18)年4月29日、老衰のため米国マサチューセッツ州の病院で逝去されました。97歳の天寿を全うした経済学者でした。

著作

不確実性の時代 (講談社学術文庫)

大暴落1929 (日経BPクラシックス)

ゆたかな社会 決定版 (岩波現代文庫)

[新版] バブルの物語

満足の文化 (ちくま学芸文庫)

不平等――誰もが知っておくべきこと

アメリカの資本主義

経済学の歴史―いま時代と思想を見直す

ガルブレイスの大恐慌 (徳間文庫―教養シリーズ)

新しい産業国家 (上) (講談社文庫)

ガルブレイスわが人生を語る

日本経済への最後の警告


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レオン・ワルラス

概要

 マリ・エスプリ・レオン・ワルラス( Marie Esprit Léon Walras 、1834(天保5)年 甲午(きのえうま31)12月16日生誕-1910(明治43)年 庚戌(かのえいぬ47)1月5日逝去。(75歳)は、スイスのローザンヌ・アカデミー(後のローザンヌ大学)の経済学者です。ヨーゼフ・シュンペーターは「すべての経済学者の中で最も偉大」と評しました。経済学的分析に数学的手法を積極的に活用し、一般均衡論を最初に定式化しました。

ローザンヌ大学
ヨーゼフ・シュンペーター

経歴

 ワルラスは1834年、フランスのエヴルーに生まれました。パリ国立高等鉱業学校に入学しましたが、この学校の実学指向の強さを嫌い、文学に傾倒して二年留年し中退しました。その後、父の説得を受け入れて、経済学研究を始めました。経済雑誌記者、鉄道会社の事務員等職を転々とし、レオン・セイ(ジャン=バティスト・セイ(セイの法則)の孫、財務大臣などを務める)と、協同組合割引銀行を設立しその理事となりました。この事業は、ワルラスの反対にも拘わらず、消費協同組合に過剰融資を行い、行き詰まって倒産しました。事後処理のために管財人の銀行に雇われ、その間にローザンヌで開かれた租税会議の論文コンクールに応募し、4位に入選しました。

フランスのエヴルー
ジャン=バティスト・セイ

 36歳の時、租税会議で彼に注目していたルショネーに誘われ、スイス、ヴォー州に完成したローザンヌ・アカデミー(後のローザンヌ大学)の新設に際して募集された経済学教授採用試験に応募しました。ダメット教授、ルショネーの賛成を得て、合格しました。一年の仮採用の後、初代教授となりました。

 彼の理論は、数学の利用がよく理解されず、難解とされ、その重要性は長い間認められませんでした。その後、ワルラスの理論は、徐々に広がっていきました。ワルラスの最大の著作である『純粋経済学要論』(Eléments d’économie politique pure, ou théorie de la richesse sociale)は1874年に上巻が、1877年に下巻が出版されました。1892年に教授職を退き、1910年、モントレーの近くのクラレンスで逝去されました。経済学に一般均衡論という新理論を創設した75年の生涯でした。

著作

純粋経済学要論―社会的富の理論

純粋経済学要論 01 上巻


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小室直樹

概要

 小室 直樹(こむろ なおき)昭和七(1932)年壬申(みずのえさる9)九月九日生誕-平成二十二(2010)年庚寅(かのえとら27)九月四日逝去(七十七歳)は、日本の社会学者、法経済学者。学位は法学博士(東京大学・昭和四十九年(1974年)。東京工業大学世界文明センター特任教授、現代政治研究所(東京都千代田区)所長などを歴任。

経歴

 昭和七(1932)年壬申(みずのえさる9)九月九日に東京府荏原郡玉川村(現・東京都世田谷区奥沢)に誕生。昭和十二年(1937年)の五歳の時に父が死去し、母の故郷である福島県会津若松市に転居しました。福島県立会津高等学校に入学。数学、物理に優秀な成績を残しました。後に政治家となる渡部恒三と知り合い、生涯の友人となりました。

東京都世田谷区奥沢
会津若松市
渡部恒三

 昭和二十六年(1951年)に京都大学理学部に入学しました。京大では物理学科志望だったが成績上の理由で数学科に進学しました。位相幾何学を専攻しました。ジョン・ヒックス『価値と資本』の解説を執筆した、市村真一の論文を読んで「理論経済学」に興味をもちました。

京都大学

昭和三十年( 1955年)京都大学卒業。当時優秀な教授と学生を集めていた大阪大学大学院経済学研究科に進学しました。担当教官は市村真一でした。昭和三十三年( 1955年)に大阪大学大学院博士課程に進学しました。

大阪大学

 昭和三十四年(1959年)に大阪大学大学院博士課程退学。フルブライト留学生として、米国のミシガン大学大学院に進学しました。昭和三十五年(1960年)にマサチューセッツ工科大学で、戦後の主流経済学者であるポール・A・サミュエルソン、ロバート・ソローから、当時最先端の経済学を学びました。その後、ハーバード大学大学院では、ケネス・アローとチャリング・クループマンスから経済学を学びました。昭和三十六(1961年)にハーバード大学で、バラス・スキナー博士から行動主義心理学を学び、昭和三十七年(1962年)に帰国しました。

ミシガン大学
マサチューセッツ工科大学
ポール・A・サミュエルソン
ロバート・ソロー
ハーバード大学
ケネス・アロー
バラス・スキナー博士

 昭和三十八年(1963年)に東京大学大学院法学政治学研究科に進学。担当教官は丸山眞男教授でした。東京大学大学大学院では数々のゼミナールで学び、富永健一教授の紹介で、社会学の雑誌に論文を数多く発表しました。

東京大学安田講堂
丸山眞男

 昭和四十二年(1967年)から無償で、自主ゼミ(小室ゼミ)を開講し、経済学を筆頭に、法社会学、比較宗教学などを教えました。小室ゼミの門下生は現在著名人を多く輩出しております。昭和四十五年(1970年)に経済史学者の大塚久雄からマックス・ウエーバーを学びました。「社会科学における行動理論の展開」で城戸賞受賞。昭和四十七年(1972年)に東京大学から「衆議院選挙区の特性分析」で法学博士の学位を取得して、東京大学非常勤講師に就任しました。

マックス・ウエーバー

 昭和五十五年(1980年)に一般向け著作である『ソビエト帝国の崩壊  瀕死のクマが世界であがく』(光文社カッパ、のち文庫)が刊行されベストセラーになりました。これにより、小室直樹は一般に認知されて、評論家としての知名度が上がりました。小室の予測どおり、平成三年(1991年)にソビエト社会主義共和国連邦は崩壊しました。

 平成十八年(2006年)に東京工業大学世界文明センター特任教授に着任しました。平成二十二年(2010)年九月四日に心不全のため、東京大学医学部付属病院で逝去。「碩学」「学問の泰斗」「博覧強記」と形容された七十七年の人生でした。

東京工業大学世界文明センター

著作

日本人のための憲法原論

小室直樹 日本人のための経済原論

日本人のための宗教原論―あなたを宗教はどう助けてくれるのか

小室直樹の中国原論

三島由紀夫が復活する 新書版

日本人のためのイスラム原論

日本いまだ近代国家に非ず

天皇畏るべし

政治無知が日本を滅ぼす

憲法とは国家権力への国民からの命令である

危機の構造―日本社会崩壊のモデル (中公文庫)

国民のための戦争と平和

数学を使わない数学の講義 (WAC BUNKO 272)

日本国民に告ぐ 誇りなき国家は滅亡する (WAC BUNKO 282)

田中角栄 政治家の条件

数学嫌いな人のための数学―数学原論

信長

ソビエト帝国の崩壊―瀕死のクマが世界であがく (カッパ・ビジネス)

小室直樹の資本主義原論

悪の民主主義―民主主義原論

経済学のエッセンス―日本経済破局の論理 (講談社プラスアルファ文庫)

日本の敗因―歴史は勝つために学ぶ

新戦争論―“平和主義者”が戦争を起こす (光文社文庫)


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宇沢弘文

概要

 宇沢 弘文(うざわ ひろふみ)昭和三(1928)年戊辰(つちのえたつ5)七月二十一日生誕-平成二十六(2014)年甲午(きのえうま31)九月十八日薨去(八十六歳)は、日本の経済学者。専門は数理経済学。東京大学名誉教授。意思決定論、二部門成長モデル、不均衡動学理論などで功績を認められた。従三位。昭和五十八年(1983年)に文化功労者。平成九年(1997年)に文化勲章受章。

経歴

 昭和三(1928)年戊辰(つちのえたつ5)七月二十一日に鳥取県米子市で誕生。宇沢が三歳の時に、家族が東京に転居しました。

鳥取県米子市

 宇沢弘文は東京府立第一中学校(現、東京都立日比谷高等学校)卒業後、昭和二十三年(1948年)に旧制第一高等学校理科乙類卒業後、東京大学に入学。昭和二十六年(1951年)に東京大学理学部数学科を卒業。東京大学理学部数学科の特別研究生となりました。経済・社会問題への関心から経済学に転じました。

東京都立日比谷高等学校
旧制第一高等学校
東京大学赤門

 昭和三十一年(1956年)に宇沢は米国スタンフォード大学経済学部研究員となり、昭和三十三年(1958年)同助手、昭和三十四年(1959年)同助教授に就任しました。

スタンフォード大学

 昭和三十五(1960年)に宇沢はカルフォルニア大学バークレー校経済学部所教授就任。昭和三十七年(1962年)に経済学博士を博士論文『レオン・ワルラスの一般均衡理論に関する諸研究』で東北大学から授与されました。

カルフォルニア大学

 昭和三十九(1964年)に宇沢はシカゴ大学経済学部教授に就任。シカゴ大学で同僚だったミルトン・フリードマン教授と激しく対立し、フリードマンの「市場競争を優先させたほうが経済は効率的に成長するという主張」に対し、宇沢は「効率重視の過度な市場競争は、格差を拡大させ社会を不安定にする」と反論しました。

シカゴ大学

 昭和四十三(1968年)に宇沢は東京大学経済学部助教授に就任。昭和四十四(1969年)に同教授に就任。昭和五十五(1980年)に同経済学部長に就任。平成元年(1989年)に 東京大学を定年退官。東京大学名誉教授を授与される。同年、新潟大学経済学部教授に就任しました。

新潟大学

 平成六年(1994年)に 宇沢は新潟大学を退官。中央大学経済学部教授に就任しました。平成十一年(1999年)に 中央大学大学経済学部教授定年退職。国際連合大学高等研究所特任教授に就任。平成十五年(2003年)に同志社大学社会的共通資本研究センター所長に就任しました。宇沢弘文は平成二十六(2014)年九月十八日に逝去。経済学の泰斗の八十六年の生涯でした。

中央大学
国際連合大学
同志社大学

著作

 

現代思想 2015年3月臨時増刊号 総特集◎宇沢弘文 -人間のための経済-

経済学は人びとを幸福にできるか

社会的共通資本 (岩波新書)

社会的共通資本 (岩波新書)

経済と人間の旅 (日本経済新聞出版)

経済と人間の旅

宇沢弘文 傑作論文全ファイル

宇沢弘文 傑作論文全ファイル

宇沢弘文の経済学–社会的共通資本の論理 (日本経済新聞出版)

宇沢弘文の経済学 社会的共通資本の論理

自動車の社会的費用 (岩波新書)

自動車の社会的費用 (岩波新書 青版 B-47)

社会的共通資本としての森 (Social Common Capital)

追悼 孤高の大経済学者・宇沢弘文―週刊東洋経済eビジネス新書No.87


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森嶋通夫

概要

 森嶋 通夫(もりしま みちお)大正十二(1923)年癸亥(みずのとゐ60)七月三十日生誕-平成十六(2004)年甲申(きのえさる21)七月十三日逝去。(八十歳)は、経済学者。ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE)名誉教授・元LSE Sir John Hicks Professor。大阪大学名誉教授。イギリス学士院会員。

経歴

 大正十二(1923)年癸亥(みずのとゐ60)七月三十日に大阪市に誕生。幼少期は神戸に在住し、昭和十一年(1936年)に神戸市の本山第一小学校を卒業しました。七年制の旧制浪速高等学校を卒業後、昭和十七(1942)年十月に京都帝国大学経済学部に進学しました。大学在学中の昭和十八年(1943年)に学徒出陣により、二十歳で徴兵されました。昭和十八(1943)年十二月大日本帝国海軍に入隊し、通信学校を出た後、長崎の大村航空隊へ配属。暗号解読を担当する少尉として赴任しました。大村航空隊では、通信将校として、数多くの特攻隊との通信、沖縄に向かった戦艦大和との通信、沖縄戦の通信などを担当しました。

京都大学
戦艦大和

 昭和二十一年(1946年)に京都大学を卒業しました。その後は経済学部の助手を経て、昭和二十五年(1950年)に京都大学経済学部の助教授となりました。翌年、昭和二十六年(1951年)に大阪大学法経学部助教授に就任しました。昭和二十九(1954)年三月に大阪大学経済学部付属社会経済研究室の創設とともに、助教授として併任しました。昭和三十八年(1963年)に大阪大学教授に就任しました。昭和四十一(1966)年四月、大阪大学社会経済研究所に改組され、安井琢磨とともに日本における近代経済学研究の中心として世界に名を知られるようになりました。昭和四十三年(1968年)に渡英しエセックス大学客員教授、昭和四十五年(1970年)からロンドン・スクール・オブ・エコノミクス (LSE) の教授として、昭和六十三年(1988年)の定年まで在籍しました。

大阪大学
エセックス大学
ロンドン・スクール・オブ・エコノミクス(LSE)

 昭和四十年(1965年)に日本人として初めてエコノメトリック・ソサエティー(国際計量 経済学会)会長に就任しました。(宇沢弘文 が昭和五十一年(1976年)に会長に就任。平成六年(1994年)に根岸隆が会長に就任)。国際的な経済学者の八十年の生涯でした。

著作

なぜ日本は没落するか (岩波現代文庫)

日本の選択―新しい国造りにむけて (同時代ライブラリー (246))

学校・学歴・人生―私の教育提言 (岩波ジュニア新書 93)

サッチャー時代のイギリス―その政治、経済、教育 (岩波新書)

終わりよければすべてよし―ある人生の記録

血にコクリコの花咲けば―ある人生の記録 (朝日文庫 も 15-1)

なぜ日本は行き詰ったか

Marx’s Economics: A Dual Theory of Value and Growth

価値・搾取・成長―現代の経済理論からみたマルクス (1980年)

智にはたらけば角が立つ―ある人生の記録

イギリスと日本 その教育と経済 (岩波新書)

イギリスと日本 その教育と経済 (岩波新書)

自分流に考える―新・新軍備計画論 (1981年)

なぜ日本は「成功」したか?―先進技術と日本的心情


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蝦名賢造

概要

 蝦名 賢造(えびな けんぞう)大正七(1918)年戊午(つちのえうま55)一月二十二日生誕-平成二十一(2009)年己丑(つちのとうし26)一月三日逝去(九十一歳)は、日本の海軍軍人、経済学者、伝記作家、経済学博士。専門は財政学。獨協中学・高校第十六代校長。獨協大学名誉教授。

経歴

 大正七(1918)年戊午(つちのえうま55)一月二十二日に青森県東津軽郡小湊町で誕生。旧制巣鴨中学校卒。旧制浦和高等学校卒。昭和十六年(1941年)に東京帝国大学経済学部卒。海軍兵科予備学生(第一期)として海軍に入隊。連合艦隊司令部附となり、海軍甲事件で負傷した宇垣纒海軍中将の秘書を務め、戦艦武蔵でトラック島から日本に帰還中に『戦藻録』の一部を筆記しました。最終階級は海軍大尉。

東京帝国大学
宇垣纒
戦艦武蔵

 昭和二十年(1945年)に巣鴨経済専門学校教授(現、巣鴨学園)。昭和二十二年(1947年)に北海道大学法文学部予科選任講師。昭和二十五年(1950年)に北海道総合開発委員会事務局次長。昭和三十七年(1962年)に「北海道の総合開発に関する研究 」により北海道大学より経済学博士号を授与されました。昭和三十八年(1963年)に北海道立総合経済研究所所長。昭和三十九年(1964年)に北海学園大学経済学部教授。北海道都市学会会長。北海学園大学開発研究所第二代所長。昭和四十三年(1968年)に北海道学園大学経済学部長。

北海道庁
北海道大学
北海学園大学

 昭和四十六年(1971年)に獨協大学経済学部教授。同教務部長や、同図書館長を歴任。昭和五十七年(1982年)に第十六代獨協中学・高等学校校長。学校法人獨協学園理事。平成元年(1989年)に獨協大学定年退職。獨協大学名誉教授。巣鴨学園理事。川村学園女子文学部客員講師。

前列右端が蛯名賢造氏
獨協大学

 蝦名賢造は平成二十一(2009)年一月三日午後三時四十五分に腎不全のため神奈川県三浦市の診療所で逝去されました。太平洋戦争で宇垣纒海軍中将の秘書を務めた経済学者の九十一年の生涯でした。

神奈川県三浦市エデンの園

著作

最後の特攻機―覆面の総指揮官宇垣纒 (中公文庫) (日本語) 文庫 – 2000/7/1

蝦名 賢造  (著)

最後の特攻機―覆面の総指揮官宇垣纒 (中公文庫)

新渡戸稲造―日本の近代化と太平洋問題 (Shinhyoron selection (37)) (日本語) 単行本 – 2003/1/1

蝦名 賢造  (著)

新渡戸稲造―日本の近代化と太平洋問題 (Shinhyoron selection (37))

天野貞祐伝 (日本語) 単行本 – 1987/12/1

蝦名 賢造  (著)

天野貞祐伝

札幌農学校 日本近代精神の源流 (蝦名賢造北海道著作集)

稲葉秀三―激動の日本経済とともに60年

硬教育―巣鴨学園の教育精神

札幌市の都市形成と一極集中

札幌農学校・北海道大学百二十五年―クラーク精神の継承と北大中興の祖・杉野目晴貞 (蝦名賢造・北海道著作集 (第2期第1巻))

遠藤隆吉伝―巣園の父、その思想と生涯

北海道牛づくり百二十五年―町村敬貴と町村農場 (北海道著作集)

北海道大学の父佐藤昌介伝―その勇ましく高尚なる生涯


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都留重人

概要

 都留 重人(つる しげと)明治四十五(1912)年壬子(みずのえね49)三月六日生誕-平成十八(2006)年丙戌(ひのえいぬ23)二月五日逝去(93歳)は日本の経済学者、一橋大学名誉教授。公害の政治経済学を提唱し、雑誌『公害研究』(現『環境と公害』)を創刊しました。

 初代一橋大学経済研究所長、第六代一橋大学学長、ハーバード大学客員教授、イェール大学客員教授、国際経済学連合会長(日本人初)、日本学士院会員等を歴任しました。日本人として2人目のハーバード大学名誉学位保持者です。国民経済計算における三面等価の原則の考案・命名などをおこないました。

一橋大学
ハーバード大学
イェール大学

経歴

 明治四十五(1912)年壬子(みずのえね49)三月六日に東京都で誕生。名古屋市育ち。熱田中学校(現・愛知県立瑞陵高等学校第四学年修了を経て第八高等学校(現・名古屋大学)に入学したが、日本の中国侵入に反対し欠席届を出さずにストライキを起こしたため(反帝同盟事件)、宮崎辰雄(元神戸市長)、田中文雄(元王子製紙社長)、河本敏夫(元通産大臣)らとともに除籍されました。

 アメリカ合衆国ウィスコンシン州のローレンスカレッジに1年間留学しました。その後ハーバード大学の学部に入学し、昭和十年(1935年)に優等賞を取得し卒業、大学院に進学しました。大学院ではポール・サミュエルソンが同窓生でした。昭和十一年(1936年)、同大大学院で修士号取得。結婚後、昭和十五年(1940年)、同大大学院で博士号 (Ph.D) を取得して、ハーバード大学講師となりました。

 昭和十七年(1942年)に第二次世界大戦勃発(日米開戦)によりハーバード大学を辞職して帰国しました。妻の伯父である木戸幸一に頼み、外務省嘱託として就職しました。

 昭和十八年(1943年)に旧制東京商科大学東亜経済研究所(現一橋大学経済研究所)嘱託研究員となりました。二等兵として兵役後、外務省勤務となりました。

 終戦後、昭和二十二年(1947年)に片山内閣の下で経済安定本部総合調整委員会副委員長(次官級待遇)に就任、第1回経済白書『経済実相報告書』を執筆しました。

 昭和二十三年(1948年)に東京商科大学(現・一橋大学)教授に就任しました。その後、アメリカ留学当時、共産主義者であったことを告白しました。

客員教授昭和24)年、中山伊知郎の後任として、新制一橋大学経済研究所の初代所長に就任しました。昭和二十五年(1950年)に第二期日本学術会議会員。昭和三十一年(1956年)に一橋大学経済研究所長を退任。同年、ハーバード大学客員教授。昭和三十五年(1960年)にイェール大学客員教授に就任しました。

 一橋出身者以外からは初となる一橋大学学長を昭和四十七年(1972年)から昭和五十年(1975年)まで務めました。昭和五十年(1975年)から昭和六十年(1985年)まで朝日新聞社論説顧問。昭和六十一年(1986年)から平成二年(1990年)まで明治学院大学教授を務めました。

 平成十八(2006)年二月五日に都留重人は前立腺がんの為逝去。国際的な経済学者の九十三年の生涯でした。

著作

現代経済学の群像 (岩波現代文庫) (日本語) 文庫 – 2006/9/15

都留 重人  (著)

 

近代経済学の群像 (岩波現代文庫)

経済学はむずかしくない(第2版) (講談社現代新書) (日本語) 新書 – 1974/1/1

都留 重人 (著)

経済学はむずかしくない(第2版) (講談社現代新書)

サムエルソン 経済学〈上〉 (日本語) 単行本 – 1992/5/15

サムエルソン 経済学〈上〉

P.A. サムエルソン (著), W.D. ノードハウス (著), Paul A. Samuelson (原著), & 2 その他

いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝 (日本語) 単行本 – 2001/11/22

都留 重人  (著)

いくつもの岐路を回顧して―都留重人自伝


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