野口英世

野口英世

概要

 野口英世(のぐちひでよ)明治九(1879)年丙子(ひのえね13)十一月九日生誕 -昭和三(1928)年戊辰(つちのえたつ5)五月二十一日逝去(五十一歳)は、日本の医師、細菌学者、医学博士(京都大学)、理学博士(東京大学)。ブラウン大学名誉理学博士、イェール大学名誉理学博士、パリ大学名誉医学博士、サン・マルコス大学名誉教授・名誉医学博士、エクアドル共和国陸軍名誉軍医監・名誉大佐。

経歴

 明治九(1879)年丙子(ひのえね13)十一月九日に福島県耶麻郡三ッ和村(現、福島県耶麻郡猪苗代町)に、父・野口佐代助と母・シカの長男として生まれました(幼名、清作)。明治十一(1878)年四月清作は一歳の時に囲炉裏に落ち、左手に大火傷を負いました。

 明治十六年(1883年)三ッ和小学校に入学。左手の障害から農作業が難しく、学問の力で身を立てるよう母に諭されました。小学校の頃は、左手に大火傷をしていたので、「清ボッコ」と言われていじめられていました。

 明治二十五(1892)年十月左手の障害を嘆く清作の作文が小林栄教頭を始めとする教師や同級生らの同情を誘い、清作の左手を治すための手術費用を集める募金が行われ、会津若松で開業していたアメリカ帰りの医師・渡辺鼎の下で左手の手術を受けました。その結果、不自由ながらも左手の指が使えるようになりました。清作はこの手術の成功に感激したことがきっかけで医師を目指すこととなりました。

 明治二十六(1893)年三月、清作は猪苗代高等小学校を卒業後、自分を手術してくれた渡部の経営する会陽医院に書生として住み込みで働きながら、約三年半にわたって医学の基礎を学びました。細菌学を知ったのもこの頃でした。この間に、渡部の友人であった歯科医で東京都港区の高山高等歯科医学院(東京歯科大学の前身)の講師、六歳年長の血脇守之助と出会いました。

高山高等歯科医学院

 医師免許を取得するために必要な医術開業試験の前期試験(筆記試験)に合格。放蕩のために2か月で資金が尽きました。後期試験に合格するまでの間、血脇の勤める高山高等歯科医学院に書生として雇ってもらおうとするが院長に拒否されました。血脇の一存で非公式に寄宿舎に泊まり込むこととなりました。後期試験(臨床試験)は実際の患者を相手に診断をするもので、独学では合格不可能なため、医術開業試験予備校の済生学舎(日本医科大学前身)に入学しました。

済生学舎(日本医科大学前身)

 明治三十年(1897年)臨床試験で必須の打診が左手の火傷によって出来ないため、左手の無償再手術を受けました。その結果、打診が可能となり、十月、後期試験に合格しました。二十一歳で医師免許を取得しました。医師免許取得後、開業資金がなく、左手を患者に見られたくないという理由もあり、臨床医の道を断念し、基礎医学研究者の道を歩むことを決心しました。高山高等歯科医学院の講師を務める他、順天堂医院で助手として「順天堂医事研究会雑誌」の編集の仕事に携わりました。

順天堂医院(順天堂大学)

 明治三十一(1898)年十月に 順天堂(現在の順天堂大学医学部)の上司である編纂主任・菅野徹三に頼み、血清療法の開発などで世界的に名を知られていた北里柴三郎が所長を務める伝染病研究所(現、東京大学医学部)に勤務します。

 明治三十二(1899)年四月に 伝染病研究所渉外係の業務の一環として、アメリカから志賀潔の赤痢の研究を視察するために来日していたサイモン・フレクスナー博士の案内役を任された際、フレクスナーに自分の渡米留学の可能性を打診しました。

 明治三十二(1899)年五月に 伝染病研究所の蔵書が、野口経由で貸し出された後に売却されるという事件が発覚しました。野口はこの事件を理由に研究所内勤務から外されました。北里所長の計らいで横浜港検疫所検疫官補の職に移動しました。同年六月 、横浜港に入港した“亜米利加丸”の船内でペスト患者を発見、ペストと診断しました。同年十月 、 検疫官補の仕事ぶりが認められ国際防疫班に選ばれました。

 明治三十三(1900)年十二月五日に箱根の温泉地にて知り合った斉藤文雄の姪で医師を志す女学生・斉藤ます子と婚約を取り付け、その婚約持参金を渡航費に当て、アメリカへ渡航しました。北里の紹介状を頼りにフレクスナーのもとでペンシル大学医学部での助手の職を得て、蛇毒の研究というテーマを与えられ、研究の成果を論文にまとめました。明治三十四年(1901年)ロックフェラー医学研究所が設立されました。明治三十七年(1904年)にロックフェラー医学研究所研究員となり、細菌学の研究に従事しました。

ペンシルバニア大学
ロックフェラー医学研究所

 明治三十六(1903)年十月 にフレクスナーの指示によりデンマーク、コペンハーゲンの血清研究所に留学。血清学の研究を続け、トーバル・マッセンと連名でいくつかの論文を執筆しました。

 明治三十七(1904)年十月 にアメリカに戻り、ロックフェラー医学研究所に移籍。明治三十八年(1905年)に血脇が婚約持参金300円を斉藤家に返済し、斉藤ます子との婚約を破棄しました。

 明治四十四(1911)年四月十日、三十四歳の時アメリカ人女性のメリー・ダージスと結婚しました。同年八月に「病原性梅毒スピロヘータの純粋培養に成功」と発表し、世界の医学界に名を知られることとなりました(ただし継代培養された野口株は病原性を失い、また病原性梅毒スピロヘータの純粋培養は現在でも追試に成功した者がいない)。京都帝国大学理学教室に論文を提出し、医学博士の学位を授与されました。大正三(1914)年四月に 東京大学から理学博士の学位を授与されました。

メリー・ダージス
京都帝国大学
東京大学

 大正四(1915)年九月五日に野口は年老いた母との再会を果たすため、十五年振りに日本に帰国しました。そして帝国学士院より恩賜賞を授賞します。恩師の小林栄と血脇守之助、古くからの親友の八子弥壽平に、懐中時計を贈りました。十月に母と小林栄と共に講演で、三重、大阪、京都を旅行しました。

野口シカ

 大正七(1918)年六月に 野口はロックフェラー財団の意向を受けて、まだワクチンのなかった黄熱病の病原体発見のため、当時、黄熱病が大流行していたエクアドルへ派遣されました。その頃に開通したばかりのパナマ運河周辺で、船員が黄熱病に感染する恐れがあったため、事態は急を要しておりました。野口に黄熱の臨床経験はありませんでした。しかし患者の症状がワイル病に酷似していたことから試験的にワイル病病原体培養法を適用し、病原体を特定することに成功しました。これをレプトスピラ・イクテロイデスと命名。この結果をもとに開発された野口ワクチンにより、南米での黄熱病が収束したとされました。この成果により、野口はエクアドル軍の名誉大佐に任命されました。このとき、野口の母のシカがスペインかぜにより十一月十日に六十五歳で逝去しました。

エクアドル軍大佐の制服と徽章

 大正八(1919)年十二月に 黄熱病の研究と撲滅のための医師団としてロックフェラー医学研究所からメキシコへ派遣されました。大正九(1920)年四月にペルー訪問。国立サン・マルコス大学医学部より名誉博士号授与されました。大正十二(1923)年七月 に野口の父・佐代助が七十二歳で死去。同年十一月 に 日本の帝国学士院会員に任じられました。ジャマイカでの「熱帯病会議」で鞭毛虫研究、黄熱病研究の発表を行いました。キューバの研究医アグラモンテから黄熱病病原体とされているイクテロイデスはワイル病病原体と菌株が違うのみではないかと指摘を受け、会議後アグラモンテを招き、自らの研究結果を見せて説得を試みました。

サン・マルコス大学

 大正十三(1924)年七月 に アフリカ・セネガルにて黄熱病が発生。イギリス、フランスの研究施設より野口ワクチンが効果を見せずイクテロイデスが発見されない旨の報告を受けました。ロックフェラー国際衛生局がナイジェリアのラゴスに黄熱病対策組織として医学研究所本部を設置し、野口の部下であるイギリス出身の医学者エイドリアン・ストークス博士を派遣しましたが同様の研究結果となりました。

 昭和二年(1927年)にロックフェラー医学研究所ラゴス本部で黄熱病研究を継続していたストークス博士が黄熱病で九月に死去しました。同年十一月十六日に 英国領ゴールド・コースト(現、ガーナ)のアクラに到着。野口説に否定的見解を抱く研究者の多いロックフェラー医学研究所ラゴス本部での研究を望まない野口に対し、イギリス植民局医学研究所病理学者ウイリアム・A・ヤング博士が(ロックフェラーの組織外の)研究施設を貸与し研究を開始。現地で黄熱病が収束し、ラゴス本部からは病原体を含む血液を提供されず、病原体が入手できないため研究が進められない状況が続きました。同年十二月二十六日 にウエンチ村で黄熱病らしき疫病が発生したと報告を受け、血液を採取に行きました。

 昭和三(1928)年一月二日に 野口自身が軽い黄熱病と診断する症状を発症し入院しました。同年一月七日に 回復し退院して研究を再開しました。

 昭和三(1928)年三月末、フレクスナー宛にイクテロイデスとは異なる黄熱病病原体をほぼ特定できた旨の電報を出しました。秘書への手紙に濾過性微生物(ウイルス)が病原であると言及しそれまでの自説を否定しました。 

  昭和三(1928)年四月 にフレクスナー宛にアメリカで研究を継続したいため、同年五月十九日にアクラを発つと打電。同年五月十一日にラゴスのロックフェラー研究所本部に行った際、体調が悪化しました。同年五月十三日 に黄熱病と診断され、アクラのリッジ病院に入院した。見舞いに来たヤング博士に「君は大丈夫か?」と尋ねた後に、野口は(終生免疫が続くはずの黄熱病に再度罹患したのを不可思議に思いながら)「どうも私には分からない」と発言。この言葉が最後の言葉となりました。昭和三(1928)年五月二十一日 の昼頃病室で逝去。五十一年の生涯を終えました。

黄熱病ウイルス

伝記

野口英世 (おもしろくてやくにたつ子どもの伝記 (1))

野口英世


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