毛沢東

概要

毛沢東(もうたくとう・ 毛泽东・ 毛澤東・ Mao Zedong Mao Tse-Tung・マオ・ツォードン)光緒19年11月十九日・ 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30十二月二十六日生誕 -昭和五十一(1976)年九月九日逝去(八十二歳)は、中華人民共和国の政治家、軍事戦略家、思想家。

経歴

 明治二十六(1893)年癸巳(みずのとみ30)十二月二十六日に毛沢東は清国の湖南省湘潭県韶山市で父・毛貽昌と母・文素勤の5人兄弟の三男として誕生する。

従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けた毛沢東は、1910年秋に故郷の韶山を離れて湘郷県立東山高等小学校に入学する。1911年春に毛は長沙に赴き、湘郷駐省中学への入学を希望した。同年、辛亥革命が勃発すると、清中央政府に反旗を翻した湖南駐屯の第25混成協第50標第1営左隊に入隊する。清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻る。

 1918年夏に湖南省立第一師範学校を卒業する。1919年に帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となる。1920年に長沙師範学校付属小学校長となる。1921年7月23日に毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。1923年6月の第3回党大会で中央執行委員会(現在の中央委員会)の委員5人のうちの1人に選ばれる。

 1937年7月7日に始まった日中戦争(支那事変)では抗日戦線を展開する。国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。この時期、毛沢東は「力の70%は勢力拡大、20%は妥協、10%は日本と戦うこと」という指令を発している。

 1945年の第7回党大会で 毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、同年6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は党の最高職である中央委員会主席に就任する。1945年8月14日に日本はポツダム宣言諾を連合国側に通告して同年8月15日に終戦を迎える。

 1946年6月26日に蔣介石は国民革命軍(中華民国の正規軍。実質的には国民党軍)に対して共産党支配地区への全面侵攻を命令して国共内戦が始まる。国共内戦が起きると、毛沢東は、地主の土地を没収し農民に分配する「土地革命」を再開し、農民の支持を獲得する。

 国共内戦では「全面侵攻」を進める蔣介石に対して毛沢東はゲリラ戦を展開する。人民解放軍は勝利を重ね、国民党軍に大打撃を与える。1949年1月に人民解放軍は北平(北京)に入城して同年4月23日に国民政府の根拠地・首都南京を制圧する。

 1949年10月1日に毛沢東は北京の天安門壇上に立ち、中華人民共和国の建国を宣言する。蔣介石率いる国民党政府を台湾島に追いやったものの、1950年6月まで小規模な戦いが継続する。

  中華人民共和国の 建国当初、新民主主義社会の建設を目標に、「穏健で秩序ある」改革を進めていた毛沢東は、1952年9月24日に突如として社会主義への移行を表明する。この方針転換は、周恩来など多くの指導者を困惑させた。毛沢東は中華人民共和国を新民主主義国家から社会主義国家に変貌させるため、国家機構の改造に着手する。

 スターリン批判や対米政策をめぐって毛沢東はソ連共産党第一書記のフルシチョフと不仲となり、1950年代後半から中ソ対立が深刻化していく。1962年のキューバ危機は、中華人民共和国政府はソビエト政府の対応を公式に非難する。

 1959年4月27日に毛沢東は大躍進政策失敗の責任を取って国家主席の地位を劉少奇に譲る。暴力的大衆運動、「プロレタリア文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。文化大革命では大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇国家主席ら中央指導部、教師ら「知識人」、中国国民党と少しでも関わりのあった者まで及ぶ。

 毛沢東が世界に注目された事件は1972年2月18日に北京において行われたアメリカ合衆国大統領のニクソンとの会談である。日本の田中角栄首相もニクソンの後を追うように中国を訪問して首脳会談を行い、日中国交正常化を果たす。

 昭和五十一(1976)年九月九日に毛沢東は逝去。八十二年の生涯を終えた。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA