大西瀧治郎

概要

 大西瀧治郎(おおにしたきじろう)明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)六月二日生誕 -昭和二十(1945)年八月十六日逝去(五十四歳)は、海軍軍人。

経歴

 明治二十四(1891)年辛卯(かのとう28)六月二日に大西瀧治郎は兵庫県氷上郡芦田村(現、兵庫県丹波市青垣町)で地主の父・大西亀吉と母・ウタの次男として誕生する。

 明治四十五(1912)年七月十七日に海軍兵学校を150人中20番の成績で卒業する。大正二(1913)年十二月に海軍少尉に任官する。大正四(1915)年十二月に海軍中尉に進級する。水上機母艦「若宮」に乗組む。

 大正五(1916)年四月に横須賀航空隊付となる。大正七(1918)年十二月に海軍大尉に進級する。大正十(1921)年八月六日に横須賀航空隊付となる。センピル教育団の講習に参加する。

 大正十一(1922)年三月に横須賀航空隊戦隊長に就任する。大正十三(1924)年十月に霞ヶ浦航空隊付となる。同年十二月に海軍少佐に進級する。大正十四(1925)年一月に霞ヶ浦航空隊教官に就任する。

 大正十五(1926)年二月に佐世保航空隊飛行隊長に就任する。昭和四年(1929)年十一月に海軍中佐に進級する。航空本部員となる。昭和七年(1932)年十一月に空母「加賀」副長に就任する。昭和八年(1933)年十一月に海軍大佐に進級する。

 昭和十四年(1939)年十一月十五日に海軍少将に進級する。昭和十六年(1941)年一月十五日に第11航空艦隊参謀長に就任する。昭和十八年(1943)年五月一日に海軍中将に進級する。

 昭和十九年(1944)年十月十一日にフィリピンに到着する。同年十月二十日に第1航空艦隊司令長官に着任する。大西によって神風特別攻撃隊の隊名を付され、編成なども発表される。昭和二十(1945)年五月十九日に軍令部次長に着任する。

 昭和二十(1945)年八月十五日に玉音放送が流れる。大西は海軍省の中庭で、米内光政や豊田副武以下海軍中枢部と一緒に並んで玉音放送を聞いた。同年八月十六日に、大西瀧治郎は渋谷南平台町の官舎で遺書を残し、最も辛いとされる「介錯無し」で割腹自決して、五十四年の生涯を終えた。

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