チャールズ・チャップリン

概要

 サー・チャールズ・スペンサー・チャップリン( Sir Charles Spencer Chaplin)明治二十二(1889)年己丑(つちのとうし26)4月14日生誕 -昭和五十二(1977)年12月25日逝去(88歳)は映画俳優、映画監督、脚本家、映画プロデューサー、作曲家。

経歴

 明治二十二(1889)年己丑(つちのとうし26)4月14日にチャールズ・チャップリンはロンドン南部のウォルワースのイースト・ストリートで父・チャールズ・チャップリン・シニアと母・ハンナ・チャップリンの子として誕生する。

 チャップリンの子供時代は貧困と苦難に満ちており、救貧院に何度も収容される生活を送る。1905年10月から12月にかけてジレット主演の『シャーロック・ホームズ』でビリー役を演じる。

 明治四十一(1908)年2月21日にフレッド・カーノー劇団と契約を交わした。明治四十二(1909年)に主役級を演じるようになる。明治四十三(1910)年4月に新作寸劇『恐れ知らずのジミー』の主役で成功を収める。

 大正二(1913)年9月25日にニューヨーク映画社の傘下のキーストン社と契約する。大正三(1914)年2月2日公開の『成功争ひ』でチャップリンは映画デビューする。同年12月にキーストン社と契約満了をもって退社が確定して、シカゴのエッサネイ社に移籍する。

 大正五(1916)年2月に年収67万ドルでミューチュアル社と契約を結び、世界で最も給料が高い人物のひとりとなる。社長のジョーン・R・フロイラーは「私たちがチャップリンにこれだけ巨額の金が払えるのは、大衆がチャップリンを求めており、そのために金を払うからである」と説明した。

大正六(1917)年6月17日にチャップリンは新しく設立されたファースト・ナショナル社と「100万ドル契約」と広く呼ばれた配給契約を結ぶ。この契約ではチャップリン自らがプロデューサーとなり、会社のために8本の映画を完成させる代わりに、作品1本あたり12万5000ドルの前金を受け取ることが決定した。大正七(1918)年1月にハリウッドにチャップリン・スタジオが完成する。

 大正十二年(1923年)にファースト・ナショナル社との契約を終えたチャップリンは、独立したプロデューサーとして自前のスタジオで映画を作り、自分の会社で配給するというワンマン体制を手に入れ、完全に自由な映画作りを行うことができるようになる。

 昭和六年(1931年)にチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かける。チャップリンは至る所で大歓迎され、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンではジョージ・バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンディー、ジョン・メイナード・ケインズと会談した。ドイツを訪問した時はアルベルト・アインシュタインの自宅に招待される。

 昭和七(1932)年5月に日本を訪問して、同年6月に帰国する。ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさすようになる。チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになる。チャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆する。

 昭和九(1934)年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了する。小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露する。

 チャップリンは1930年代の世界の政治的緊張とファシズムの台頭に不安を感じ、これらの問題を自分の仕事から遠ざけることはできないと考えていた。ヒトラーを直接的に風刺し、ファシズムを攻撃した『独裁者』の脚本執筆に取り掛かった。昭和十五(1940)年10月に『独裁者』は公開され、チャップリン映画で最高の興行収入を記録した。

 チャップリンの政治的姿勢が共産主義的であると公に非難され、昭和二十二年(1947年)にFBIはチャップリンの国外追放を考えて公式な調査を開始した。チャップリンは共産主義者であることを否定して代わりに自分を「平和主義者」と呼んた。

 昭和二十七(1952)年9月17日にチャップリンは家族とクイーン・エリザベスに乗船し、イギリスへ向けてニューヨークを出航した。アメリカ合衆国司法長官はチャップリンの再入国許可を取り消し、アメリカに戻るには政治的問題と道徳的行動に関する審問を受けなければならないと述べた。

 チャップリンは再入国許可が取り消されたあと、財産をヨーロッパに持ち出すという問題を解決させた。昭和二十八(1953)年1月にチャップリン一家はスイスのレマン湖近くにある村にある、広さ14ヘクタールの邸宅に住居を定めた。

 昭和三十二年(1957年)のインタビューで、チャップリンは自身の政治的姿勢について「政治に関しては、私はアナーキストだよ。政府や規則、束縛は嫌いだ…人間は自由であるべきだ」と発言した。

 1970年代、チャップリンはカンヌ国際映画祭特別賞やレジオンドヌール勲章など、その業績に対してさまざまな栄誉を受けるようになる。昭和四十七(1972年)にチャップリンにアカデミー名誉賞を授与することに決めた。最初チャップリンはアカデミー名誉賞を受けるのをためらったが、20年ぶりにアメリカに戻ることを決心した。授賞式では、同賞の歴史の中で最長となる12分間のスタンディングオベーションを受けた。

 昭和五十二(1977)年12月25日チャールズ・チャップリンは逝去。88年の生涯を終えた。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA