大川周明

概要

 大川周明(おおかわしゅうめい)明治十九(1886)年丙戌(ひのえいぬ23)十二月六日生誕 -昭和三十二(1957)年十二月二十四日逝去(七十一歳)は、思想家。

経歴

 明治十九(1886)年丙戌(ひのえいぬ23)十二月六日に大川周明は山形県酒田市で誕生する。

 荘内中学(現、山形県立鶴岡南高等学校)、第五高等学校を卒業して、東京帝国大学文科大学印度哲学専攻を卒業する。プラトンの国家理想を知り、「キリストもマルクスも最早吾師に非ずと思った」と発言する。エマソン、ダンテ、ヘーゲルなど西洋古典哲学の遍歴からインド哲学に回帰没頭する。大学卒業後、インドの独立運動を支援する。

 初代満鉄総裁の後藤新平に、植民地インドに関する研究論文が評価されたことにより、大正七年(1918年)に南満州鉄道に入社する。満鉄東亜経済調査局の編輯(へんしゅう)課長を務める。

 大正十三年(1924年)に日本精神復興を唱えて佐藤信淵、源頼朝、上杉謙信、横井小楠らの評伝をまとめた『日本精神研究』を著わす。昭和十四年(1939年)に『日本二千六百年史』を著わす。同書は大ベストセラーとなるが、当時賊徒とみなされていた北条義時、北条泰時、足利尊氏・直義兄弟を称賛するなどの内容があったため批判された。

 貴族院議員の徳川義親侯爵と親交が深く、徳川から金銭的援助を受けていた。三月事件・十月事件・血盟団事件など殆どの昭和維新に関与して、五・一五事件では禁錮5年の有罪判決を受けて服役する。

 満州事変に際しては首謀者の一人の板垣征四郎と親しく、満州国の建国を支持する。「新国家が成立し、その国家と日本との間に、国防同盟ならびに経済同盟が結ばれることによって、国家は満州を救うとともに日本を救い、かつ支那をも救うことによって、東洋平和の実現に甚大なる貢献をなすであろう」と主張した(文藝春秋昭和7年3月号『満州新国家の建設』)。

 戦後、民間人としては唯一A級戦犯の容疑で起訴された。東京裁判では大川は水色のパジャマ着用し、素足に下駄を履いて出廷した。休廷中に前に座っている東条英機の頭を後ろから音がするほどの力で叩いた。(この場面を記録した映像が現存している。東條は叩かれようとも激怒したりせず微笑んでいた。)

 昭和三十二(1957)年十二月二十四日に大川周明は逝去。七十一年の生涯を終えた。


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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