天野貞祐

概要

 天野貞祐(あまのていゆう)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月三十日-昭和五十五(1980)三月六日薨去(九十五歳)、哲学者、教育者、文学博士。文部大臣。第一高等学校校長。獨協中学校・高等学校第十三代校長。獨協大学初代学長。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月三十日に天野貞祐は神奈川県津久井郡鳥屋村(現在の神奈川県相模原市)で村長・衆院議員を務めた父・天野藤三と母・種の四男として誕生する。

 明治二十三年(1890年)に鳥屋村小学校に入学する。明治二十九年(1890年)旧制獨逸学協会中学校(獨協学園の前身)に入学する。明治三十四(1901)年八月に母をチフスで亡くし、健康がすぐれず獨逸学協会中学校を退学する。

 明治三十八年(1905年)に天野は内村鑑三の『後世への最大遺物』を読み、自分の人生を見つめ直した結果、獨逸学協会中学校の5年生として復学して明治三十九年(1906年)に首席で卒業する。

 明治三十九(1906)年八月に第一高等学校に入学する。内村から直接教えを受け、九鬼周三や岩下壮一と親友になる。明治四十二(1909年)に第一高等学校を卒業する。同年に京都帝国大学文科大学に入学する。桑木厳翼教授らの下でカント哲学を専攻する。

 明治四十五年(1912年)に京都帝国大学文科大学を卒業する。同年に京都帝国大学大学院に進学する。大正二年(1913年)に「カント学者としてのフィヒテ」を発表する。同年に西田幾多郎の推挙で智山派勧学院大学林講師となる。大正三年(1914年)に第七高等学校のドイツ語教師として鹿児島へ赴任する。

 大正四年(1915年)に第七高等学校の教授に任ぜられる。大正八年(1919年)に西田幾多郎らの推挙を受けて学習院教授に就任する。大正十二年(1923年)にドイツのハイデルベルク大学に留学する。大正十三年(1924年)に病気のため留学期間を短縮して帰国する。

 大正十五(1926)年八月に京都帝国大学文学部助教授に就任する。昭和六年(1931年)に京都帝国大学文学部教授に就任する。同年六月に京都帝国大学で「『純粋理性批判』ノ形而上学的研究」で文学博士号を得る。

 昭和十九(1944)年九月三十日に京都帝国大学文学部教授を定年退職する。同年十月九日に甲南高等学校(現在の甲南大学)校長に就任する。昭和二十一(1944)年二月九日に甲南高等学校校長を辞任して第一高等学校校長に就任する。同年十月に第一高等学校と東京大学の併合を受けて第一高等学校校長の辞意を表明する。昭和二十二(1947)年二月に第一高等学校校長を辞任する。

 昭和二十五(1950)年五月六日に第二次吉田内閣の文部大臣に就任する。昭和二十七(1952)年八月十二日に第二次吉田内閣の文部大臣を辞任する。同年十二月二十七日に第十三代獨協中学校・高等学校長に就任する。

 昭和三十九(1964)年四月に獨協大学初代学長に就任する。昭和四十四(1969)年五月三十日に大学紛争により獨協大学学長辞任を表明する。昭和四十五(1970)年に獨協学園の学園長として学校運営に関わる。昭和五十五(1980)三月六日に天野貞祐は薨去。九十五年の生涯を終えた。


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