石橋湛山

概要

 石橋湛山(いしばしたんざん)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月二十五日生誕 -昭和四十八(1973)年四月二十五日薨去(八十八歳)は、ジャーナリスト、政治家、教育者。位階勲等は従二位勲一等。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)九月二十五日に石橋湛山は東京市麻布区芝二本榎(現在の東京都港区)で日蓮宗僧侶の父・杉田湛誓と畳問屋・石橋藤左衛門の次女の母・きんの長男として誕生する。湛山は故あって母方の石橋姓を名乗る。

 明治十八(1885)年三月に父・湛誓が郷里の山梨県巨摩郡増穂村(現・山梨県巨摩郡藤川町)にある昌福寺の住職へ転じるため、母・きんと共に甲府市稲門(現・甲府市伊勢2丁目)へと転居する。

 明治二十二年(1889年)に甲府市立稲門尋常小学校に入学する。3年生の時に初めて父と同居することになり、稲門から約20km奥まっている増穂村の小学校に転校した。

 明治二十七年(1894年)に湛誓が静岡市の日蓮宗本山・青龍山本覚寺の住職に転じることになり、山梨県中巨摩郡鏡中条村(旧・山梨県中巨摩郡若草村 から若草町、のち南アルプス市に編入)にある長遠寺の住職である望月日謙(後に九遠寺83世法主)に預けられる。以来、実質的な親子の関係は絶たれ、幾度となく手紙を出すが父母からの返事はもらえなかった。

 明治二十八年(1895年)に日謙に勧められ山梨県立尋常中学校(後の甲府中学、現在の山梨県立第一高等学校)へ進学する。明治三十四(1901)年三月に札幌農学校一期生の大島正健が甲府中学校長に就任する。湛山は大島正健から1年間の薫陶を受ける。

 明治三十五(1902)年三月に山梨県立第一中学校を卒業する。中学を卒業する頃に、湛山と改名している。同年四月に第一高等学校の受験のため上京する。しかし同年七月の試験は不合格だった。翌年に再度受験するがまたもや失敗する。早稲田大学高等予科の編入試験を受けて合格して明治三十六(1903)年九月に入学する。

 明治四十(1907)年七月に早稲田大学大学部文学科を首席で卒業する。特待研究生として宗教研究科へ進級する。明治四十一(1908)年七月に宗教研究科を修了して、島村抱月の紹介で毎日新聞社に入社する。

 明治四十二(1909)年八月に毎日新聞社を退社する。同年十二月に東京麻布の歩兵第3連隊に入営する。明治四十三(1910)年十一月に除隊する。明治四十四(1911)年一月に東洋経済新報社に入社して、『東洋時論』の編集を担当する。

 明治四十四(1911)年九月に見習い士官として、3ヶ月の召集を受ける。大正二年(1912年)に陸軍歩兵少尉となる。大正十三(1924)年十二月に 東洋経済新報社第五代主幹に就任する。

 大正十四(1925)年一月に東洋経済新報社代表取締役・専務取締役に就任する。 昭和十五(1940)年十一月に東洋経済研究所を設立して、所長および理事に就任する。昭和十六(1941)年二月に東洋経済新報社の社長制新設に伴い、代表取締役社長に就任する。

 昭和二十一(1946)年四月に戦後初の衆議院総選挙に立候補して落選する。同年五月に第1次吉田内閣の大蔵大臣に就任する。昭和二十二(1947)年四月に静岡県2区より総選挙に立候補して初当選する。同年五月にGHQにより公職追放となる。

 昭和二十六(1951)年六月に公職追放が解除されて、自由党に復党する。昭和二十七(1952)年十二月に立正大学学長に就任する。昭和二十九(1954)年十一月に岸信介と共に、自由党より除名処分を受ける。同年十二月に第1次鳩山内閣の通商産業大臣に就任する。

 昭和三十一(1956)年十二月に自由民主党第2代総裁に当選して、国会の指名により内閣総理大臣に就任する。昭和三十二(1957)年一月二十五日に帰京した直後に自宅の風呂場で軽い脳梗塞で倒れた。副総理格の外相として閣内に迎えられていた岸信介がただちに総理臨時代理となる。2か月の絶対安静が必要との医師の診断を受けて、石橋は「私の政治的良心に従う」と潔く退陣した。

 昭和三十八(1963)年十一月の総選挙で落選して石橋は政界を引退する。昭和四十一(1966)年二月に手足に麻痺を感じ聖路加国際病院に入院する。主治医は日野原重明が務めた。昭和四十八(1973)年四月二十五日に石橋湛山は薨去。八十八年の生涯を終えた。


三国志演義 第一巻
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三国志演義 Ⅰ

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