山本五十六

概要

 山本五十六(やまもといそろく)明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)四月四日生誕-昭和十八(1943)四月十八日薨去(五十九歳)は、海軍軍人。最終階級は元帥海軍大将。第26、27代連合艦隊司令長官。旧姓は高野。栄典は正三位大勲位功一級。

経歴

 明治十七(1884)年甲申(きのえさる21)四月四日に山本五十六は、新潟県古志郡長岡本町玉蔵院町(現在の長岡市坂之上町3丁目付近)で、旧越後長岡藩士の父・高野貞吉の六男として誕生する。

 長岡町立阪之上尋常小学校を卒業後、旧制新潟県立長岡中学校を卒業する。明治三十四年(1901年)に海軍兵学校32期に200名中2番で入校する。同期生に掘悌吉、塩沢幸一、嶋田繁太郎、吉田善吾がいた。明治三十七(1904)年十一月に海軍兵学校を192名中11番で卒業する。

 明治三十八(1905)年一月に少尉候補生のまま装甲巡洋艦「日進」に配属となり、同年五月二十七日の日本海海戦に参加する。この海戦において、左手の人差指と中指を欠損、左大腿部に重傷を負う。

 明治四十二年(1909年)にアメリカに駐在となる。明治四十四年(1911年)に海軍大学校乙種学生を卒業する。同年、海軍砲術学校と海軍経理学校の教官になり、同僚の米内光政と盟友になる。

大正二(1913)年十二月に海軍大学校に入学する。大正四年(1915年)年に旧越後長岡藩牧野家十五代・牧野忠篤の口添えで、旧長岡藩家老の家柄である山本家を相続する。大正五(1916)年十二月に海軍大学校を卒業する。

 大正八(1919)年四月五日にアメリカに駐在を受命する。ハーバード大学に留学した。大正十(1921)年七月十九日に帰国する。大正十四(1925)年十二月に駐米大使館付武官となり、再びアメリカに滞在する。昭和三(1928)年三月に帰国する。

 昭和八(1933)年十月に第一航空戦隊司令官となり、空母「赤城」に乗り組む。昭和十一(1936)年十二月に海軍次官に就任する。昭和十四(1939)年八月三十日に山本は第26代連合艦隊司令長官(兼第一艦隊司令長官)に就任する。昭和十五(1940)年九月二十七日に調印された日独伊三国間条約に、山本は米内光政、井上成美らと共に最後まで反対した。

 昭和十六(1941)年八月十一日に第27代連合艦隊司令長官に再任される。昭和十六(1941)年十二月八日の真珠湾攻撃では戦艦4隻が大破着底]、戦艦2隻が大・中破するなど、アメリカ海軍の太平洋艦隊を行動不能する大戦果をあげた。

 昭和十七(1942)年六月五日のミッドウェー海戦において、日本軍はミッドウェー島攻撃中に敵機動部隊から攻撃を受け、南雲艦隊の主力空母4隻他を喪失する大敗北を喫する。日本へ帰還後の作戦研究会でも山本は「屍に鞭打つ必要なし」として、大敗北の責任の追及や敗因研究が行われることはなかった。

 昭和十八(1943)四月十八日に午前6時に山本を含めた連合艦隊司令部は第七〇五航空隊の一式陸上攻撃機2機に分乗してラバウル基地を発進した。ブイン基地へ移動中、ブーゲンビル島上空で、アメリカ陸軍航空隊のP-38ライトニング16機に襲撃・撃墜され山本五十六は薨去。五十九年の生涯を終えた。


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