北大路魯山人

概要

 北大路魯山人(きたおおじろさんじん)明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月二十三日生誕 – 昭和三十四(1959)年十二月二十一日逝去(七十六歳)篆刻家、画家、陶芸家、書道家、料理家。本名は北大路房次郎(きたおおじふさじろう)。

経歴

 明治十六(1883)年癸未(みずのとひつじ20)三月二十三日には京都府愛宕郡上賀茂村(現:京都市北区)上賀茂で上賀茂の社家の父・北大路清操と母・登女の次男として誕生する。

 魯山人は母の不貞によりできた子で、それを忌んだ父は房次郎(魯山人)が生まれる4ヶ月前に割腹自殺を遂げる。生後すぐ里子に出され6歳で福田家に落ち着くまで養家を転々とする。この出自にまつわる鬱屈は終生払われることはなく、また魯山人の人格形成に深甚な影響を及ぼす。

 10歳の時に梅屋尋常小学校(現・御所南小学校、新町小学校)を卒業する。京都・烏丸二条の千坂和薬屋(現・わやくや千坂漢方薬局)に丁稚奉公へ住み込みで出される。ある日奉公先の使い走りの最中、御池油小路西入ル森ノ木町にある仕出し料理屋「亀政」のあんどん看板を見て、そこに描かれた一筆書きの亀の絵と書かれた字に心を奪われる。その絵を描いたのは亀政の主人の長男でのちに京都画壇総帥として帝展文展に君臨することになる竹内栖鳳(たけうちせいほう)だった。

 明治二十九(1896)年一月に奉公を辞め、養父の木版の手伝いを始める。扁額や篆刻などの分野の基礎的な感覚を身に着けていく。書道コンクールで初の応募ながら何万の出展作品の中から天の位1枚・地の位1枚・佳作1枚受賞する。以後、応募を続け次々と受賞していく。

 明治三十七年(1904年)に日本美術協会主催の美術展覧会に出品した「千字文」が褒状一等二席を受賞し頭角を現す。明治三十八年(1905年)に町書家・岡本可亭(漫画家・岡本一平の父、洋画家・岡本太郎の祖父)の内弟子となりその後3年間住み込む。

 明治四十年(1907年)に福田鴨亭(おうてい)を名乗って可亭の門から独立する。仕事は繁盛して稼いだ収入を書道具・骨董品・外食に注ぎ込むようになる。合間に書肆(しょし)に出掛けて畫帖(がちょう)や拓本などの典籍(てんせき)を求め、夜は読書と研究に没頭する。

 明治四十三(1910)年十二月に実母と共に朝鮮に旅立つ。朝鮮総督府京龍印刷局に書記として勤める。明治四十五年(1912年)に帰国して書道教室を開く。その後、長浜の素封家・河路豊吉に食客として招かれ、書や篆刻の制作に打ち込む環境を提供される。ここで房次郎は福田大観(たいかん)の号で天井画や襖絵、篆刻など数々の傑作を当地に残している。

 竹内栖鳳がしばしば訪れる柴田家の食客になることが叶い、訪れた栖鳳に款印を彫らせてもらうよう願い出る。その款印を気に入った栖鳳が門下らに紹介したことで日本画壇の巨匠らとの交わりが始まる。大正四年(1915年)に金沢の細野燕台(ほそのえんたい)のもとに寄留して美食や陶芸への関心を啓発される。

 大正五年(1916年)に母の登女から家督相続を請われ、北大路姓を継いで北大路魯卿(ろけい)と名乗り、北大路魯山人の号を使いはじめる。長浜をはじめ京都・金沢の素封家の食客として転々と生活することで食器と美食に対する見識を深めていく。

 大正六年(1917年)に便利堂の中村竹四郎と知り合い交友を深め、その後、古美術店の大雅堂を共同経営する。大雅堂では、古美術品の陶器に高級食材を使った料理を常連客に出すようになる。大正十年(1921年)に会員制食堂「美食倶楽部」を発足する。自ら厨房に立ち料理を振舞う一方、使用する食器を自ら創作する。大正十四(1925)年三月二十日に東京・永田町の「星岡茶寮(ほしがおかさりょう)」を中村とともに借り受け、中村が社長、魯山人が顧問となり、会員制高級料亭を始める。

 昭和十一年(1936年)に星岡茶寮の経営者・中村竹四郎からの内容証明郵便で解雇通知を言い渡され、魯山人は星岡茶寮を追放される。昭和二十一年(1946年)に銀座で自作の直売店「火土火土美房(かどかどびぼう)」を開 店して在日欧米人からも好評を博す。昭和三十四(1959)年十二月二十一日に北大路魯山人は逝去。七十六年の生涯を終えた。


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