野口雨情

概要

 野口雨情(のぐちうじょう)明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)五月二十九日生誕-昭和二十(1945)年一月二十七日逝去(六十二歳)は、詩人、童謡・民謡作詞家。

経歴

 明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)五月二十九日に茨城県多賀郡磯原町(現、茨城県北茨城市)で廻船問屋を営む父・量平と母・てるの長男として誕生する。

 高等小学校卒業後に上京する。東京専門学校(現・早稲田大学)に入学する。坪内逍遥に師事する。東京専門学校を1年余りで中退して詩作を始める。父の事業失敗と死により、明治三十七年(1904年)に故郷に帰り、家督を継ぐ。

 家の没落をふせぐために家族から、栃木県の資産家の娘との政略結婚をお膳立てされており、雨情は同い年の高塩ひろと結婚する。明治三十九年(1906年)に『小樽日報』に勤める。同僚に石川啄木がおり、交友を結ぶ。雨情は当時の主筆に対する排斥運動を起こしたが敗れて退社する。

 雨情は北海道で六つの新聞社を転々とした後、明治四十二年(1909年)に帰郷する。明治四十四年(1911年)に母の死を契機にふたたび郷里にもどり、家の植林や農地財産の管理などに従事するようになる。

 大正三年(1914年)に雨情は痔の湯治のためにいわき湯本温泉を訪れる。このとき置屋「柏屋」のおかみ、小すみ(本名明村まち)とそのまま3年半をここで暮らすようになる。大正四(1915)年五月に夫人との協議離婚が成立する。雨情は二児をひきとり育てることになる。

 大正七年(1918年)に雨情は水戸に行き、中里つると再婚する。この頃から詩の創作活動をはじめる。大正八年(1919年)に詩集『都会と田園』により詩壇に復帰する。斎藤佐次郎により創刊された『金の船』より童謡を次々と発表し、多くの名作を残した。

 昭和十年(1935年)に日本民謡協会を再興して理事長に就任する。日本各地を旅行し、その地の民謡を創作する。同年一月に仏教音楽協会が設立され、雨情は評議員に推薦される。仏教音楽の研究に加え、新仏教音楽の創作や発表、普及にも力を尽くした。昭和二十(1945)年一月二十七日に野口雨情は逝去。六十二年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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