斎藤茂吉

概要

 斎藤茂吉(さいとうもきち)明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)五月十四日生誕 -昭和二十八(1953)年二月二十五日逝去(七十歳)歌人。精神科医。

経歴

 明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)五月十四日に山形県南村山郡金瓶(かなかめ)村(現在の山形県上山市金瓶)で守谷伝右衛門熊次郎の三男として誕生する。

 明治二十九年(1896年)に上山尋常高等小学校高等科を卒業する。恩師佐原窿応の紹介と東京浅草で開業していた親戚の医師斎藤紀一の勧めで医者を志す。同年八月父に連れられ上京し斎藤方に寄寓。同年九月に東京府開成中学校(現・開成高校)に編入する。

 明治三十四(1901)年三月に開成中学校を卒業する。同年七月に第一高等学校を受験して失敗する。開成中学校補習科、正則中学校(現・正則学園高校)に通学する。

 明治三十五年(1902年)に第一高等学校(現在の東京大学教養学部)第三部に入学する。明治三十八年(1905年)に第一高等学校を卒業する。東京帝国大学医科大学に入学する。明治三十九年(1906年)に伊藤左千夫の門下となる。

 明治四十二年(1909年)に森鴎外の観潮楼歌会に初めて出席する。与謝野鉄幹、北原白秋、石川啄木、上田敏、佐佐木信綱などの歌人を知る。チフスに罹り卒業を一年延期する。明治四十三年(1910年)に東京帝国大学医科大学医学科(現在の東京大学医学部)を卒業する。

 明治四十四年(1911年)に東京帝国大学医科大学副手となり、精神病学を学ぶかたわら付属病院に勤務する。同年七月より東京府巣鴨病院に勤務する。授業と診療の生活が始まる。

 大正二(1913)年五月に生母いくが死去する。連作「死にたまふ母」を発表。同年七月に師・伊藤左千夫が死去する。同年十月に処女歌集「赤光」を刊行する。歌壇のみならず文壇内外に大きな反響を巻き起こす。

 大正三(1914)年四月に斎藤紀一の長女、13歳年下の齋藤輝子(19歳)と結婚して斎藤家の婿養子となる。大正六(1917)年一月に東京帝国大学医科大学助手、付属病院、巣鴨病院をすべて辞職する。官立長崎医学専門学校(現在の長崎大学医学部)精神病科第2代教授に就任する。大正八年(1919年)に歌論集「童馬漫語」を刊行する。長崎を訪れた芥川龍之介、菊池寛と知り合う。

 大正十(1921)年十月に精神病学研究のため欧州留学に出発する。マルセイユ、パリを経て同年十二月二十日にベルリンに到着する。大正十三(1924)年十月に医学博士の学位を得て帰国の途に就く。同年十二月に青山脳病院全焼の電報を船上で受け取る。

 大正十四(1925)年一月に帰国する。青山脳病院の焼け跡に帰るとヨーロッパで買い集めて送った膨大な書物もすべて焼失していた。大正十五(1926)年四月に現・世田谷区松原に青山脳病院が復興する。同年五月に再び「アララギ」の編集発行人となる。

 昭和二(1927)年四月に養父紀一が引退し、青山脳病院院長の職を継ぐ。同年五月に次男宗吉(北杜夫)が誕生する。同年七月に芥川龍之介が茂吉にもらっていた睡眠薬を飲み自殺し、大きな衝撃を受ける。

 昭和三(1928)年十一月に養父紀一が死去する。以後病院経営はすべて茂吉が負うこととなる。昭和十二年(1937年)に帝国芸術院会員となる。日中戦争勃発以後数多くの愛国歌を詠むようになる。昭和十五(1940)年三月に歌集「寒雲」を刊行する。同年五月に『柿本人麿』の業績により帝国学士院賞を受賞する。

 昭和二十(1945)年五月に青山脳病院および東京の自宅が、アメリカ軍による東京大空襲により全焼する。昭和二十一(1946)年二月に山形県大石田町に移る。同年八月に歌集「つゆじも」を刊行する。昭和二十六(1951)年十一月に文化勲章を受章する。昭和二十八(1953)年二月二十五日に斎藤茂吉は逝去。七十年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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