五島慶太

概要

 五島慶太(ごとうけいた)明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)四月十八日生誕 -昭和三十四(1959)年八月十四日薨去(七十七歳)実業家。位階勲等は正三位勲一等。

経歴

 明治十五(1882)年壬午(みずのえうま19)四月十八日に長野県小県郡殿戸村(現・長野県小県郡青木村)に農業の父・小林菊右衛門と母・寿ゑの二男として誕生する。

 長野県尋常中学校松本本校卒業後、東京高等師範学校(現・筑波大学)に入学して英文科へ進学する。明治三十九年(1906年)に東京高等師範学校を卒業する。卒業後、英語教師として四日市市立商業学校(現:三重県立四日市商業高等学校)に赴任する。

 明治四十(1907)年九月に東京帝国大学政治学科の選科に入学する。同年十月に当時難関中の難関とされた旧制第一高等学校の卒業資格試験に合格し、法学部本科に転学する。

 明治四十四(1911年)に東京帝国大学を卒業する。卒業後高等文官試験に合格し、加藤高明の斡旋で農商務省に入省する。工場法施行に伴い、工場監督官に採用されるが、施行が3年延期になったため、鉄道院に移る。

 明治四十五(1912)年二月二十四日に工学博士の久米民之助の長女・万千代と結婚する。万千代は慶太と結婚して久米民之助の祖母の実家で旧沼田藩士の五島家を再興する。慶太は万千代と結婚した後に五島姓を名乗ることになる。

 大正九(1920)年五月十一日に鉄道院を退職し、武蔵電気鉄道常務に就任する。大正十一年(1922年)に目黒蒲田電鉄専務に就任する。大正十三年(1924年)に 武蔵電気鉄道は社名を(旧)東京横浜電鉄と変更する。

 昭和十七(1942)年八月三十一日に東京宝塚劇場取締役に就任する。昭和十九(1944)二月十一日に東条英機内閣の運輸通信大臣に就任する。名古屋駅の交通緩和や船員の待遇改善などに貢献した。

 終戦後の昭和二十二年(1947年)に東條内閣の閣僚だったということで連合国軍最高司令官総司令部 (GHQ) によって公職追放者指定を受ける。昭和二十六年(1951年)に追放解除となる。追放解除後は再び東京急行電鉄会長に就任する。

 定山渓鉄道など北海道各地の乗合バス会社を次々と買収し、北海道開発を推進した。伊豆の観光開発にも力を注ぎ、伊東 -下田間の鉄道敷設(現在の伊豆急行線)を計画した。箱根の観光事業では小田急側について、西武鉄道の堤康次郎と激しく対立した。

 昭和三十四(1959)年八月十四日に五島慶太は薨去。七十七年の生涯を終えた。


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