松岡洋右

概要

 松岡洋右(まつおかようすけ)明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月四日生誕 -昭和二十一(1946)年六月二十七日薨去(六十六歳)は、外交官、政治家。

経歴

明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月四日に山口県熊毛郡室積村(現、山口県光市室積)で廻船問屋の父の四男として誕生する。

 明治二十六年(1893年)に留学のため渡米する。アメリカでは周囲の人々からキリスト教の影響を受け入信する。伴新三郎商店で働きつつオレゴン大学法学部に入学して明治三十三年(1900年)に卒業する。明治三十五年(1902年)に帰国した。

 明治三十七(1904年)に外交官及び領事館試験に合格して外務省に入省する。外務省では領事館補して中華民国上海に赴任し、その後関東都督府に赴任する。その頃、満鉄総裁だった後藤新平や三井物産の山本条太郎の知遇を得る。

 大正十年(1921年)に外務省を退官する。退官後山本条太郎の引き抜きにより南満州鉄道(満鉄)に理事として着任する。昭和二年(1927年)に副総裁(総裁は山本)に就任する。

 昭和五年(1930年)に満鉄を退職する。同年二月の代7回衆議院総選挙で郷里の山口2区から政友会所属で立候補して衆議院議員に初当選する。昭和六(1931)年九月十八日に満州事変が勃発する。中国国民政府は日本の軍事行動について国際連盟提訴した。

 リットン報告書を受理するための国際連盟の理事会が昭和七(1932)年十一月二十一に開かれ日本政府全権の松岡と中国政府全権が演説する。同年十二月八日に国際連盟の総会が開かれ松岡は1時間20分にわたる原稿なしの大演説を行う。

 昭和八(1933)年二月二十日に日本政府は閣議を開きリットン報告書をベースにした「勧告」が連盟総会で採択された場合、連盟を脱退することを決定する。同年二月二十四日に総会において勧告案への採決がなされ、賛成42票、反対1票(日本)、棄権1票(シャム:現、タイ国)の圧倒的多数で勧告が採択された。同年三月八日に日本政府は国際連盟の脱退を決定(同27日連盟に通告)した。

 ジュネーブから帰国後は「国民精神作興、昭和維新」などを唱え、昭和八(1933)十二月に政友会を離党して「政党解消連盟」を結成し、議員を辞職する。このころからファシズム的な論調を展開する。昭和十(1935)年八月に満鉄総裁に着任する。

 昭和十五(1940)年七月二十二日に成立した第二次近衛文麿内閣で松岡は外務大臣に就任する。当時の大きな外交問題は泥沼となっていた日中戦争、険悪となっていた日米関係、そして陸軍が主張していたドイツ・イタリアとの三国同盟案であった。松岡は太平洋を挟んだ二大国が固く手を握り、世界の平和を確立すべきと唱えていた。

 松岡は世界をそれぞれ「指導国家」が指導する4つのブロック構造(西欧、東亜、アメリカ、ロシア)に分けるべきと考えていた。日本・中国・満州国を中核とする東亜ブロック、つまり大東亜共栄圏の完成を目指すことを唱えていた。

 日独伊三国軍事同盟は昭和十五(1940)年九月二十七日に成立する。しかし、その後の独ソ関係は急速に悪化し、その情報が日本にも伝えられ、四国連合はおろか、日ソ関係の改善の橋渡しをドイツに期待することもむずかしくなってしまう。これはソビエトが四国連合参加の条件として、多数の領土要求をドイツに出してドイツの怒りを買ったためである。

 昭和十六(1941)年三月に同盟成立慶祝を名目として松岡は独伊を歴訪した。往路と帰路の2度モスクワに立ち寄り、帰路の同年四月十三日に日ソ中立条約を電撃的に調印した。この時が松岡外交の全盛期であり、首相の座も狙っていたと言われている。

 昭和十六(1941)年六月二十二日に開戦した独ソ戦争によって、松岡のユーラシア枢軸構想・四国連合案は、その基盤から瓦解する。独ソ開戦とともに三国同盟の目的が有名無実になったとして、日独伊三国同盟の即時破棄を主張する閣僚もいた。松岡は締結したばかりの日ソ中立条約を破棄して対ソ宣戦し、ソビエトをドイツとともに挟撃することを閣内で主張して北進論を主張した。

 独ソ戦によってソビエトの脅威が消滅したことにより、南方に戦力を集中して進出すべきとする南進論が優勢となる。この頃の松岡はそのあまりの独断専行ぶりから、かつては協力関係にあった陸軍とも対立するようになる。閣内では平沼騏一郎ら反ドイツ的見解の閣僚と対立し孤立を深めている。

 松岡は日米交渉が継続不可能であるという見解を示すようになる。昭和天皇が松岡の解任を主張するようになり、近衛文麿首相は松岡に外相辞任を迫るが拒否され、近衛は昭和十六(1941)年七月十六日に内閣総辞職して松岡を外した上で、第三次近衛内閣を発足させる。この事実上の松岡更迭によって南部仏印進駐は実行されることとなり、アメリカ・イギリスとの対立はよりいっそう深まっていくことになる。

 松岡は常々からイギリスとの戦争は避け得ないと考えていたが、アメリカとの戦争は望んでいなかった。昭和十六(1941)年十二月八日に太平洋戦争が勃発する。松岡は「こんなことになってしまって、三国同盟は僕の一生の不覚であった」と無念の思いを周囲に漏らし号泣した。

 敗戦後はA級戦犯容疑者として、GHQ命令により逮捕される。その際の罪状認否で、無罪を全被告人中ただ一人英語で主張する。昭和二十一(1946)年六月二十七日に薨去。松岡洋右は六十六年の生涯を終えた。


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