米内光政

概要

 米内光政(よないみつまさ)明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月二日生誕 – 昭和二十三(1948)年四月二十日薨去(六十八歳)は、海軍軍人。政治家。最終階級は海軍大将。位階勲等功級は従二位勲一等功一級。

経歴

 明治十三(1880)年庚辰(かのえたつ17)三月二日に岩手県盛岡市で旧盛岡藩士の父・米内受政の長男として誕生する。

 明治十九年(1886年)に鍛冶町尋常小学校に入学する。明治二十三年(1890年)に盛岡高等小学校に入学する。明治二十七年(1894年)に岩手県尋常中学校に入学する。明治三十一年(1898年)に海軍兵学校29期に入校する。

 明治三十四年(1901年)に海軍兵学校29期を125人中68番の成績で卒業する。海軍少尉候補生となり練習艦「金剛」に乗り組む。明治三十六年(1903年)に海軍少尉に任ぜられる。

 明治三十八年(1905年)に日露戦争に従軍する。大正元年(1912年)に海軍少佐に任ぜられる。海軍大学校甲種学生12期に入校する。大正三年(1914年)に海軍大学校を卒業する。

 大正四(1915)年二月にロシア帝国サンクトペテルブルグ大使館付駐在武官補佐官に任命される。大正五年(1916年)に海軍中佐に任ぜられる。大正六(1917)年四月にロシア駐在を免ぜられる。大正九(1920)年六月よりベルリンに駐在する。同年十二月に海軍大佐に任ぜられる。

 大正十三年(1924年)に戦艦「扶桑」「陸奥」艦長に就任する。大正十四年(1925年)に海軍少将に任ぜられ、第二艦隊参謀長に就任する。昭和三年(1928年)に第一遣外艦隊(だいいちけんがいかんたい)司令官に就任する。昭和五年(1930年)に海軍中将に任ぜられる。

 昭和七年(1932年)に第三艦隊司令長官に就任する。 昭和九年(1934年)に第二艦隊司令長官に就任する。昭和十一年(1936年)に連合艦隊司令長官に親補される。昭和十二(1937)年二月二日に林内閣の海軍大臣に就任する。同年四月に海軍大将に進級する。

 昭和十五(1940)年一月十六日に第37代内閣総理大臣に就任する。まだ現役の大日本帝国海軍大将であったが、首相就任と同時に自ら予備役となる。就任直後の同年一月二十一日に千葉県房総半島沖合いの公海上でイギリス海軍巡洋艦が貨客船「浅間丸」を臨検し、乗客のドイツ人男性21名を戦時捕虜として連行する浅間丸事件が発生する。この事件で米内は陸軍と対立し、七月二十二日に米内内閣は総辞職する。

 昭和十六(1941)年十二月八日に真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)が勃発する。昭和十九(1944)年七月二十二日に東條内閣が倒れると、予備役から現役に復帰して小磯内閣で再び海軍大臣となる。

 昭和二十(1945)年八月九日の御前会議で、東郷茂徳、米内光政、平沼騏一郎は、「天皇の地位の保障のみ」を条件とするポツダム宣言受諾を主張。それに対し阿南惟幾、梅津美治郎、豊田副武は「受諾には多数の条件をつけるべきで、条件が拒否されたら本土決戦をするべきだ」と受諾反対を主張した。同年八月十四日に天皇は最高戦争指導会議および閣僚の面前で、ポツダム宣言の受諾を決定する。これにより終戦が決定した。

 昭和二十一年(1946年)に公職追放となる。米内が薨去後の昭和二十七年(1952年)に追放解除となる。元大臣秘書官の麻生孝雄に誘われて、北海道釧路町の達古武湖(たっこぶこ)付近で北海道牧場株式会社(通称:霞ヶ関牧場)の牧場経営に参加する。昭和二十三(1948)年四月二十日に米内光政は薨去。六十八年の生涯を終えました。 


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