ダグラス・マッカーサー

概要

 ダグラス・マッカーサ―(Douglas McArthur)1880(明治十三)庚辰(かのえたつ17)年一月二十六日生誕 -1964(昭和三十九)年四月五日逝去(八十四歳)は、アメリカの軍人。陸軍元帥。連合国最高司令官。国連軍司令官。

経歴

 1880(明治十三)庚辰(かのえたつ17)年一月二十六日にアメリカ合衆国アーカンソー州リトルロックの兵器庫の兵営で軍人の父・アーサー・マッカーサー・ジュニアと富裕な綿花業者の娘であった母・メアリー・ピンクニー・ハーディの三男として誕生する。

 1899年(明治三十二年)にウェストポイントのアメリカ陸軍士官学校を受験し、750点満点中700点の高得点でトップ入学する。1903年(明治三十六年)に在学期間中の2,470点満点のうち2,424.2点の得点率98.14%という成績を収め、ダグラス・マッカーサーは94名の生徒の首席で卒業する。卒業後は陸軍少尉で任官した。

 当時のアメリカ陸軍では工兵隊がエリート・グループとみなされていたので、マッカーサーは工兵隊を志願し、第3工兵大隊所属となり、アメリカの植民地であったフィリピンに配属された。

 1905(明治三十六)年10月に父が駐日アメリカ合衆国大使館付き武官となり、マッカーサーも副官として東京で勤務した、その後マッカーサーと家族は、中国や東南アジアを経由してインドまで8か月かけて、各国の軍事基地を視察旅行した。この時の経験がマッカーサーの後の軍歴に大きな影響を与えることになった。また、この旅行の際に日本で東郷平八郎、大山巌、乃木希典ら日露戦争で活躍した司令官たちと面談し、永久に消えることがない感銘を受けたとしている。

1906年(明治三十七年)にセオドア・ルーズベルトの要請で、大統領軍事顧問の補佐官に任じられた。ルーズベルトはマッカーサーの手際のよい仕事ぶりを高く評価した。

 1912年(明治四十五年)に父アーサーが逝去する。この時、アメリカ陸軍参謀総長はレオナルド・ウッドだった。ウッドはかつて父アーサーの部下として勤務した経験があり、アーサーに大きな恩義を感じていた。陸軍省に省庁間の調整という新しい部署を作ってマッカーサーを異動させた。ウッドはマッカーサーの勤務報告書を高く評価したため、この後、急速に出世街道を進んでいく。

 1919年(大正八年)から1922年(大正十一年)までマッカーサーは母校である陸軍士官学校の校長に就任する。1922年(大正十一年)にフィリピンのマニラ軍管区司令官に任命され着任した。1925年(大正十四年)にアメリカ陸軍史上最年少となる44歳での少将への昇進を果たし、米国本土へ転属となる。

 1930年(昭和五年)にアメリカ大統領ハーバード・フーヴァーにより、アメリカ陸軍最年少の50歳で参謀総長に任命される。1933年(昭和八年)から副官には、後の大統領ドワイト・デイヴィッド・アイゼンハワーが付き、マッカーサーとアイゼンハワーの今後長く続いていく関係が始まる。1935年(昭和十年)に参謀総長を退任して少将の階級に戻り、フィリピン軍の軍事顧問に就任する。

 1941(昭和十六)年七月にルーズベルトの要請を受け、中将として現役に復帰する。同年12月18日に大将に昇進する。それで在フィリピンのアメリカ軍とフィリピン軍を統合したアメリカ極東陸軍の司令官となる。

 1941(昭和十六)年12月8日に日本軍がイギリス領マラヤで開戦。次いでハワイ州の真珠湾どに対して攻撃をおこない太平洋戦争が勃発した。1942(昭和十七)年4月18日にマッカーサーは南西太平洋方面のアメリカ軍、オーストラリア軍、イギリス軍、オランダ軍を指揮する南西太平洋方面最高司令官に任命され、日本の降伏文書調印の日までその地位にあった。

 マッカーサーは連合軍の豊富な空・海戦力をうまく活用し、日本軍の守備が固いところを回避して包囲し補給路を断って、日本軍が飢餓で弱体化するのを待った。マッカーサーは陸海空の統合作戦を『三次元の戦略構想』、正面攻撃を避け日本軍の脆弱な所を攻撃する戦法を『蛙飛び作戦』と呼んでいた。ニューギニアの勝利はフィリピンの敗戦で損なわれていたマッカーサーの指揮能力に対する評価と名声を大いに高めた。

 1945(昭和二十)年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、連合国軍最高司令官に任命された。

 1945(昭和二十)年8月30日14時05分に予定よりも1時間早くマッカーサーが搭乗したバターン号は厚木に到着した。その後マッカーサー一行は日本側が準備した車両でホテルニューグランへ向かう。同年9月2日に東京湾上の戦艦ミズーリで降伏調印式を行う。

 1945(昭和二十)年9月27日に大使館公邸に訪れた昭和天皇とマッカーサーは会談した。マッカーサーは昭和天皇は日本の占領統治のために絶対に必要な存在であるという認識を深めた。

 第二次世界大戦後に南北(韓国と北朝鮮)に分割独立した朝鮮半島において、1950(昭和二十五)年6月25日に、ソ連のヨシフ・スターリンの許可を受けた金日成率いる朝鮮人民軍(北朝鮮軍)が韓国に侵攻を開始し、朝鮮戦争が勃発した。

 トルーマンは朝鮮問題解決の道を開くため停戦を呼びかけることとし、1951(昭和二十六)年3月20日に統合参謀本部を通じてマッカーサーにその内容が伝えられた。マッカーサーは、この停戦工作を妨害してトルーマンを足元からひっくり返そうと画策した。

 イギリスなどの同盟国は、マッカーサーが中国との全面戦争を望んでいるがトルーマンはマッカーサーをコントロールできていない、との懸念が寄せられ、「アメリカの政治的判断と指導者の質」に対するヨーロッパ同盟国の信頼は低下していた。マッカーサーを全く信頼していなかったトルーマンは、マッカーサーの解任を決意した。

 トルーマンは1951(昭和二十六)年4月11日深夜0時56分に異例の記者会見を行い、マッカーサー解任を発表した。同年4月16日にリッジウェイに業務を引継いでマッカーサーは帰国した。1964(昭和三十九)年四月五日にダグラス・マッカーサーは逝去。八十四年の生涯を終えました。


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