永井荷風

概要

 永井荷風(ながいかふう)明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)十二月三日生誕- 昭和三十四(1959)年四月三十日逝去(七十九歳)は、小説家。本名は永井壮吉(ながいそうきち、旧字体:壯吉)。

経歴

 明治十二(1879)年己卯(つちのとう16)十二月三日に東京市小石川区金富町四十五番地(現、東京都文京区春日二丁目)で父・永井久一郎と母・恒(つね)の長男として誕生する。

 東京女子師範学校附属幼稚園(現・お茶の水女子大学附属幼稚園)、黒田小学校初等科、東京府尋常師範学校附属小学校高等科(現・東京学芸大学附属竹早小学校)と進み、明治二十四年(1891年)に高等師範学校附属尋常中学校(現・筑波大学附属中学校・高等学校)2年に編入学する。

明治三十年(1897年)に官立高等商業学校附属外国語学校清語科(現、東京外国語大学)に入学し、明治三十二年(1899年)に中退する。明治三十四年(1901年)に暁星中学校(ぎょうせいちゅうがっこう)の夜学でフランス語を習い始め、エミール・ゾラの『大地』ほかの英訳を読んで傾倒した。

 明治三十六(1903)九月二十二日に父の意向で実業を学ぶべく渡米する。フランス語を修める傍ら、日本大使館や横浜正金銀行に勤める。明治四十(1907)年七月からフランスに滞在して明治四十一年(1908)年七月に帰国する。

 明治四十一年(1908年)に『あめりか物語』を発表。明治四十二年(1909年)に『ふらんす物語』を発表する。荷風は新進作家として注目され、森鴎外、夏目漱石や小山内薫、二代目市川左團次など文化人演劇関係者たちと交友を持つ。

 明治四十三年(1910年)に森鷗外と上田敏の推薦で慶應義塾大学文学部の主任教授となる。教育者としての荷風はハイカラーにボヘミアンネクタイという洒脱な服装で講義に臨んだ。内容は仏語、仏文学評論が主なもので、時間にはきわめて厳格だった。関係者には「講義は面白かった。しかし雑談はそれ以上に面白かった」と佐藤春夫が評した。

 華やかな教授職の一方で芸妓との交情を続けたため、私生活は必ずしも安泰でなく周囲との軋轢を繰り返した。明治四十五年(1912年)に商家の娘と結婚させられたが、大正二年(1913年)に父が没して家督を継いで間もなく離縁している。大正三年(1914年)に新橋の芸妓・八重次を入籍して、末弟威三郎や親戚との折り合いを悪くした。しかも八重次との生活も、翌年には早くも別居、荷風は京橋区築地(現、中央区築地)の借家へ移り、以降妻帯することはなかった。

 大正五年(1916年)に『三田文学』の運営をめぐって慶應義塾側との間に意見の対立が深刻化し、荷風は大学教授職を辞している。その後は創作に専念する。慶應大を辞して間もなく、余丁町の邸内の一隅に戻り住んで「断腸亭」と名付け、大正六(1917)年九月十六日から『断腸亭日乗』を綴り始めた。

 大正七年(1918年)に余丁町の屋敷を売り、大正八年(1919年)に麻布市兵衛町一丁目(現、港区六本木一丁目)に新築した『偏奇館』へ移る。この頃、中期の名作『腕くらべ』、『おかめ笹』などを発表するなど旺盛な創作活動の傍ら、左團次、小山内のほか川尻清潭らと交流をもち、南北物の復活狂言の演出や江戸期の文人墨客の研究を行っている。

 大正十五年(1926年)頃から、銀座のカフェーに出入りする。昭和九年(1934年)に『ひかげの花』など新境地の作品を作り出す。この頃に各出版社から荷風の全集本が発売されたことにより多額の印税が入り、生活に余裕が生まれ、さらなる創作活動を迎える。昭和十二年(1937年)に『濹東綺譚(ぼくとうきたん)』を朝日新聞に連載した。

 昭和二十(1945)年三月十日の東京大空襲で偏奇館は焼亡、荷風は草稿を抱えて避難したがおびただしい蔵書は灰燼に帰した。同年七月三日に岡山市巌井三門町(現、岡山市北区三門東町)の民家に落ち着く。すでに66歳となっていた荷風は、散策と日記を怠っていないが、度重なる空襲と避難の連続で下痢に悩まされたり、不安神経症の症状が見られなど身体に変調をきたす。

 昭和二十(1945)年八月十四日の夜、谷崎潤一郎が牛肉を準備し、宿泊していた赤岩旅館で牛鍋を食べた。 翌日岡山へ戻って「休戦」を知る。荷風は同年八月三十日に上り列車に乗り翌三十一日に帰京した。

 戦後は厳しい住宅事情とインフレによる預貯金封鎖のため、荷風は従弟大島一雄(杵屋五叟)やフランス文学者小西茂也など知人の家に同居を余儀なくされた。

 昭和二十三年(1948年)に千葉県市川市菅野(現、東菅野二丁目)に家を買いようやく落ち着いた環境で生活できるようになる。荷風自身も心身ともに余裕ができ、背広に下駄履きで浅草や葛飾の旧跡を散策するようになる。 

 昭和二十七年(1952年)に「温雅な詩情と高邁な文明批評と透徹した現実観照の三面が備わる多くの優れた創作を出した他、江戸文学の研究、外国文学の移植に業績を上げ、わが国近代文学史上に独自の巨歩を印した」との理由 で文化勲章を受章する。昭和三十二年(1957年)に千葉県市川市八幡町四丁目(現、八幡三丁目)に転居する。これが荷風の終の棲家となる。昭和三十四(1959)年四月三十日に永井荷風は逝去。七十九年の生涯を終えました。


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