チャールズ・ダーウィン

チャールズ・ダーウィン

概要

 チャールズ・ロバート・ダーウィンCharles Robert Darwin ,1809(文化6)年己巳(つちのとみ6)2月12日生誕-1882(明治15)年壬午(みずのえうま19)4月19日逝去。(73歳)は、イギリスの自然科学者、地質学者、生物学者として、「種の形成理論」を確立しました。一般的に「進化論」と呼称されております。「進化論」の提唱の功績から今日では生物学者と一般的に見なされる傾向にありますが、ダーウィン自身は存命中に地質学者を名乗っております。

経歴

 1809年2月12日にイングランド、シュロップシャー州シュルーズベリーで医師の父ロバート・ダーウィンとと母スザンナ・ダーウィンの間に、6人兄弟の5番目の子供(次男)として生まれました。父方の祖父は高名な医師・博物学者であるエラズマス・ダーウィンで、母方の祖父は陶芸家であるジュサイア・ウェッジウッドです。ダーウィンは幼少の頃から植物について興味を持ち、貝殻や鉱物を収集しておりました。

 1825年、エジンバラ大学で医学と地質学を学びました。外科手術になじめず、1827年にエジンバラ大学を退学します。父親は、ダーウィンを牧師にする為にケンブリッジ大学クライスト・カレッジの入学を勧めました。ダーウィンは父の提案を喜んで受け入れ入学しました。そして、必修外の博物学と昆虫採集に没頭しました。

エジンバラ大学
ケンブリッジ大学クライスト・カレッジ

 1827年夏に、ジョサイア2世と、その娘で将来の妻になるエマ・ウェッジウッドとヨーロッパ大陸を旅行し、パリに数週間滞在しました。

 1831年にケンブリッジ大学を卒業します。卒業後、イギリス海軍の測量船ビーグル号にロバート・フィッツロイ艦長の客人として航海に参加しました。ビーグル号は1831年12月27日にプリマス出航しました。南米に向かう途中のカーボブェルデに寄港し、ここで火山などを観察し、航海記録の執筆を始めました。

ビーグル号
ロバート・フィッツロイ艦長

 1835年12月30日にニュージーランドへ寄港。1836年1月にオーストラリアのシドニーへ到着しました。その後、インド洋を横断。モーリシャス島に寄港。6月にケープタウンに到着しました。ケープタウンに住んでいる天文学者のジョン・ハーシェルを訪ねました。ヘンズローからの手紙で、イギリスでダーウィンの博学的名声が高まっていることを知らされました。

 1836年10月2日にファルマス港に帰着しました。航海は当初3年の予定でしたが、ほぼ5年が経過しておりました。1837年3月にロンドンに移住しました。ロンドンで兄エラズマスと共に暮らしました。

ファルマス港

 1839年1月24日にダーウィンはロンドン王立協会の会員に選出されました。5日後の1月29日にエマとメアの英国国教会でユニテリアン式にアレンジされた結婚式が行われました。式が終わるとロンドンへ向かいました。12月に長男ウィリアムが誕生しました。

 ダーウィンはトマス・マルサスの『人口論』第六版を読んで、「種について」の発想を得ました。1838年9月28日にこの「種について」の洞察を書きました。1853年に王立協会からロイヤル・メダルを受賞。生物学者としての確固たる地位を得ました。1854年に再び種の理論の研究を始めました。1859年11月22日に発売された『種の起源』は初版1250冊以上の申し込みがあり、人気を博しました。『種の起源』により、ダーウィンの名声はさらに高まりました。1882年ダーウィンは73年の生涯を終えました。フィールドワークと発想で、『種の起源』が完成し、人類に大きな影響を与えた人物でした。

トマス・マルサス

人口論 (中公文庫)

出典 amazon.co.jp

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

著作

若い読者のための『種の起源』


三国志演義 第一巻
三国志演義 第二巻
三国志演義 第三巻
三国志演義 第四巻
三国志演義 第五巻
三国志演義 第六巻
三国志演義 第七巻
三国志演義 第八巻
三国志演義 第九巻
三国志演義 第十巻
三国志演義 Ⅰ

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