吉野作造

概要

 吉野作造(よしのさくぞう)明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)一月二十九日生誕-昭和八(1933)年三月十八日逝去(五十五歳)は、政治学者、思想家。

経歴

 明治十一(1878)年戊寅(つちのえとら15)一月二十九日に、宮城県志田郡大柿村96番地(現・宮城県大崎市古河十日町)で木綿繊維の原料を扱う糸綿商吉野屋を営む父・年蔵と母・こうの長男として誕生。長子に跡目を継がせぬという宮城県北部の家督相続の風習により、家業を継がなかった。

 明治十七(1884)年三月に古川尋常小学校(現在の古川第一小学校)に入学する。初めて読んだ漢文の書物は『皇朝史略』だった。明治十九(1886)年七月に古川講習会に参加したことがあった。明治二十五(1892)年六月に宮城県尋常中学校(現、仙台一高)が開校し、古川から初めて吉野が推薦された。

 明治二十八(1895年)に林子平の百回忌にあたり、宮城県尋常中学校校長の大槻文彦が子平の伝記を講義した。作造は、その中から面白いと思ったことを書き留め、雑誌『青年文』(1895年2月号)に「林子平の逸事」という題で投稿した。中学校では、回覧雑誌発行に熱中する。

 明治三十(1897)年九月に第二高等学校法科に無試験合格する。尚絅女学校校長アニー・サイレーナ・ブゼルの聖書研究会に参加する。明治三十一(1898)年七月三日に浸礼を受ける。キリストネーム「ピリポ」。

 明治三十三(1900)年五月十四日に20歳のたまの、と婚姻届を出す。同年七月に第二高等学校を卒業する。同年九月に東京帝国大学法科大学に入学する。本郷教会で「新人」の編集に参加協力する。

 吉野の実家は大学に出す経済的余裕がなかった。妻たまのも仙台で小学校勤務を続けながら、十戸で長女・信を育てることとなった。明治三十六年(1903年)に英語雑誌からエスペラントを知り、ロンドンから教科書を取り寄せて勉強する。明治三十七年(1904年)に東京帝国大学法科大学政治学科卒業(銀時計受領)し、同大学院に進学する。同大工科大学講師に就任する。明治三十九年(1906年)に中国に渡り、袁世凱の長男・袁克定の家庭教師を務める。

 明治四十二年(1909年)に帰国し、同年二月五日に東京帝国大学法科大学助教授に就任する。明治四十三(1910)年四月に欧米留学する。大正三(1913)年七月に3年間の留学を終えて帰国後、東京帝国大学で政治史講座を担当する。初めての講義は、「現代政治的進化の外観」と題し、主に「社会主義」の過去・現在より各国における回答の情勢を詳述する。

 大正四年(1915年)に法学博士号を授与される。大正五年(1916年)に『中央公論』誌1月号に代表作となった評論「憲政の本義を説いて其有終の美を済すの途を論ず」を発表する。吉野は大正デモクラシーの代表的な論客となる。

 大正十三(1924)年二月七日に東京帝国大学教授を辞任して朝日新聞社に入社する。筆禍事件で五月二十九日に退社する。東京帝国大学講師に就任する。昭和二年(1927年)に女子経済専門学校(現、東京文化学園)理事・教授に就任する。昭和八(1933)年三月十八日に吉野作造は逝去。五十五年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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