松永安左エ門

概要

 松永安左エ門松永安左衞門、まつながやすざえもん)明治八(1875)年乙亥(きのとい12)十二月一日生誕 -昭和四十六(1971)年六月十六日逝去(九十五歳)は、電力業界で活躍した実業家。

経歴

 明治八(1875)年乙亥(きのとい12)十二月一日に長崎県壱岐の商家の父・二代目安左エ門の長男として誕生。幼名は亀之助。

 福沢諭吉の『学問のすすめ』に感奮興起し、福澤門に進むことを決めていた。明治二十二年(1889年)に東京へ上京して慶應義塾大学に入学する。明治二十六年(1893年)に父・二代目安左エ門の逝去で帰郷する。家督を相続し、三代目安左エ門を襲名する。

 21歳の秋再び慶應義塾に戻り、福沢諭吉の朝の散歩にお供をするようになり、諭吉の謦咳(けいがい)に接すると共に、福沢桃介の知遇を得た。卒業まであと一年という明治三十一年(1898年)に学問に興味が湧かなくなったことを福澤諭吉に告白すると、「卒業など大した意義はない。そんな気持ちなら社会に出て働くがよかろうと勧められて退学する。

 慶應義塾大学中退後、福澤桃介の紹介で日本銀行に入行した。日銀幹部ストライキ事件が起こり、東大出身幹部らが一掃され、慶應出身者が用務員から一般職員、幹部人事までを占めた時期にあたるが1年で辞職する。その後は福澤と共同で神戸や大阪で材木商や石炭業を営む。

 明治四十二年(1909年)に福博電気軌道の設立に関わり、松永が電力事業に携わる第一歩となった。その後いくつかの電力会社を合併し、九州電灯鉄道となる。大正十一年(1922年)に関西電気と合併して、東邦電力を設立し副社長になった。昭和三年(1928年)に社長に就任し、一都十一県に電力を供給するまでになる。

 戦争の激化に伴い、国家総動員法と合わせて電気事業を国家管理下に置く政策が取られ、特殊法人の日本発送電会社が設立され、9の会社が配電事業を行うことになった(一発電九配電体制)。これに伴う東邦電力の解散により、松永は引退する。

 戦後、GHQによる占領政策上、日本発送電会社の民営化が課題になると、吉田茂に電気事業再編成審議会会長に抜擢される。松永らは9電力会社への事業再編による分割民営化(九電力体制)を実現する。さらに電力事業の今後の発展を予測して電気料金の値上げを実施したため、消費者からも多くの非難を浴びた。こうした強引さから「電力の鬼」と呼ばれるようになる。

 昭和四十六(1971)年六月十六日に松永安左エ門は逝去。九十五年の生涯を終えました。


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