幸徳秋水

概要

 幸徳秋水(こうとくしゅうすい)明治四年辛未(かのとひつじ8)九月二十三日(1871年11月5日)生誕 -明治四十四(1911)年1月24日逝去(三十九歳)は、明治時代のジャーナリスト、思想家、社会主義者、無政府主義者。幸徳傳次郎(こうとくでんじろう)。

経歴

 明治四年辛未(かのとひつじ8)九月二十三日(1871年11月5日)に高知県幡多郡中村町(現、高知県四万十市)で誕生。幸徳家は、酒造業と薬種業を営んでいた。

 九歳の時、儒学者・木戸明の修明舎入り、四書五経等を学ぶ。十一歳で旧制中村中学校(現、高知県立中村中学校・高等学校)に進学するも、台風で校舎が全壊しなかなか再建されず退学する。

 明治二十年(1887年)に上京し、明治二十一(1888年)十一月ころから同郷の中江兆民の家に学僕として住み込み、その門弟となる。新聞記者を目指し、『自由新聞』(板垣退助社長)等に勤める。

 明治三十一(1898)年二月に中央新聞を去り黒岩涙香(くろいわるいこう)の創刊した『萬朝報』の記者となる。『萬朝報』は日本に於けるゴシップ報道の先駆者として知られ、権力者のスキャンダルを追及、「蓄妾実例」といったプライバシーを暴露する醜聞記事で売り出した新聞である。

 明治三十六(1903年)に日露戦争開戦以前は戦争反対の論調の新聞もあったが、ロシアとの開戦へと世論の空気が押されていくなかで、『萬朝報』も社論を非戦論から開戦論へと転換させた為、堺利彦、内村鑑三、石川三四郎とともに萬朝報社を退社する。

 秋水と堺は非戦論を訴え続ける為に平民社を開業し、週刊『平民新聞』を創刊した。明治三十七(1904年)に「与露国社会党書」を発表する。堺と「共産党宣言」を翻訳発表したが即日発禁となる。

 明治三十八(1905年)に新聞紙条例で入獄して、獄中でクロポトキンを知り、無政府主義に傾く。出獄後同年十一月十四日に渡米してサンフランシスコに着く。明治三十九(1906)年四月十八日にサンフランシスコ地震を体験する。その復興としての市民による自助努力に無政府共産制の状態を見る。

 明治四十三(1910)年六月一日に幸徳事件(大逆事件)において逮捕される。獄中で、歴史的存在としてのイエス・キリストを否定する『基督抹殺論』を脱稿(明治四十三(1910)年十一月二十一日)。

 明治四十四(1911)年一月十八日に大審院の有罪・死刑判決を受け、他の死刑囚11人とともに同年一月二十四日に処刑された。幸徳秋水は三十九年の生涯を終えました。


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