宮崎滔天

概要

 宮崎滔天(みやざきとうてん)明治三年庚午(かのえうま7)十二月三日(1871年1月23日)生誕 -大正十一(1922)年十二月六日逝去(五十一歳)は、孫文達を支援して、辛亥革命を支えた革命家。浪曲師。

経歴

 明治三年庚午(かのえうま7)十二月三日(1871年1月23日)に肥後国玉名郡荒尾村(現、熊本県荒尾市)で郷士の父・宮崎政賢と母・佐喜夫妻の末子として誕生。

 熊本で徳富蘇峰が主宰していた私塾「大江義塾」でキリスト教や自由主義思想を学び、閉鎖まで義塾で就学した。民権家には演説が付きものだが、このころの滔天は人前で話すのが苦手だった。

 明治十九年(1886年)に上京し、東京専門学校(現、早稲田大学)に入学したが、大江義塾との学風の違いからすぐに中退する。教会に通い、牧師の妻から英語を習う。

 明治二十二年(1889年)に長崎のミッションスクール「加伯里(カプリ)英和学校」在学中、前田下学のところで、下学の妹・槌を知り、婚約する。明治二十四年(1891年)に上海に渡航する。明治二十五年(1892年)に槌と結婚し、長男の龍介誕生。

 明治三十年(1897年)に孫文(孫逸仙)と知り合い、以後中国大陸における革命運動を援助する。池袋で亡命してきた孫文や蒋介石を援助する。明治三十五年(1902年)に『狂人譚』と共に、國光書房より出版した。この『三十三年の夢』が『孫逸仙』という題で中国で抄訳として紹介された事で、「革命家孫逸仙」(孫文)の名が一般に知られるようになり、革命を志す者が孫文の元に集まるようになる。

 一旦はアジア主義運動に挫折し、自分を見つめ直す意図で桃中軒雲右衛門(とうちゅうけんくもえもん)に弟子入りし、桃中軒牛右衛門の名で浪曲師となる。しかし革命の志を捨てたわけではなく、明治三十八年(1905年)に孫文らと東京で革命運動団体「中国同盟会」を結成する。

 滔天は辛亥革命の孫文のみならず朝鮮開化党の志士・金玉均(キム・オッキュン)の亡命も支援する。しかし金玉均が上海で暗殺された後に、遺髪と衣服の一部を持ち込み日本人有志で浅草本願寺で葬儀を営むという義理人情に溢れた人物であった。

 明治三十九年(1906年)に板垣退助の秘書である和田三郎らと革命評論社を設立。明治四十年(1907年)に『革命評論』を創刊して、孫文達を支援して、辛亥革命を支援する。

 大正十一(1922)年十二月六日に宮崎滔天は逝去。五十一年の生涯を終えました。


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