島津源蔵 (2代目)

概要

 二代目島津源蔵(しまづげんぞう)明治二年己巳(つちのとみ6)六月十七日(1869年7月25日)生誕-昭和二十六 (1951)年十月三日逝去(八十二歳)は、明治時代から昭和時代にかけての実業家、発明家。幼名は梅次郎。

経歴

 明治二年己巳(つちのとみ6)六月十七日(1869年7月25日)に、京都市で初代島津源蔵の長男として誕生。幼名は梅次郎。早くから科学知識に興味を持つ。

 明治二十七(1894)年十二月八日に初代島津源蔵が逝去したため、梅次郎は2代目源蔵を襲名して事業を継承した。。明治二十八年(1895年)に、ヴィルヘルム・コンラート・レントゲンがX線を発見したのを受け、ストラスブール大学でレントゲンと面識のあった第三高等学校教授の村岡範為馳(むらおかはんいち)とともにX線の研究に着手した。その結果、翌年には日本国内初のX線写真の撮影に成功し、明治三十年(1897年)に教育用X線装置を商品化した。

 源蔵は明治三十年(1897年)に京都帝国大学理工科大学から注文を受けて鉛蓄電池を作製し、これは後に改良され「GS蓄電池」(GSはGenzo Shimazu=島津源蔵の頭文字から)となった。この蓄電池は日露戦争で徴発されて軍艦和泉に使用され、明治三十八(1905)年五月二十七日の日本海海戦で信濃丸から「敵艦見ゆ」の第一報を受けて旗艦の三笠に送信する歴史的役割を支えた。

 第一次世界大戦が勃発するとドイツからの蓄電池輸入が途絶えたため、三菱財閥・大倉財閥や京都財界によって島津製作所の蓄電池工場は独立する事になり、大正六年(1917年)に日本電池株式会社(現・株式会社ジーエス・ユアサコーポレーションが設立された。

 「易反応性鉛粉製造法」では国内およびアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどで特許を取得し、これをはじめとする発明の業績により、源蔵は昭和五年(1930年)の宮中晩餐会で日本の十大発明家の一人として招待された。

昭和十四年(1939年)に源蔵は島津製作所の社長を退き会長となった。さらに昭和二十年(1945年)の太平洋戦争終結を機に会長職も引退し、京都市左京区北白川の山荘で発明に専念した。生涯の発明考案は178件に上る。昭和二十六 (1951)年十月三日に二代目島津源蔵は逝去。八十二年の生涯を終えました。


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