徳冨蘆花

概要

 徳冨蘆花(とくとみろか)明治元年戊辰(つちのえたつ5)十月二十五日(1868年12月8日)生誕 -昭和二( 1927)年九月十八日逝去(五十八歳)は、小説家。

経歴

 明治元年戊辰(つちのえたつ5)十月二十五日(1868年12月8日)に肥後国葦北郡水俣村(現、熊本県水俣市)で横井小楠門下の父・徳富一敬と母久子の四女三男の末子として誕生。

 明治十一年(1878年)に同志社英学校に入学。明治十三年(1880年)に父の設立した熊本共立学舎に入り、明治十五年(1882年)に兄・猪一郎(徳富蘇峰)の設立した大江義塾に入る。

 明治十七年(1885年)にキリスト教の洗礼を受け、今治教会で、従兄弟の横井時雄の元で伝道と英語教師に従事、この頃から蘆花の号を用いる。明治十八年(1886年)に同志社に再入学。明治十九年(1887年)に、小説家になる志を立て、明治二十年(1888年)に『同志社文学』に横井小楠の墓を訪ねた短文「孤墳の夕」が掲載され、初めて文章が活字になる。

 明治二十一年(1889年)に上京して兄・徳富蘇峰が社長の民友社社員となり、校正、翻訳などの仕事をしながら、蘇峰が主催する「文学会」にも参加する。翻訳の伝記『如温武雷士(ジョン・ブライト)』『理査士格武電(リチャード・コブデン)』を出版した。明治二十二年(1890年)に蘇峰の発刊した『国民新聞』に移り、外国電報や小説の翻訳をした。

 明治二十七年(1894年)に縁談により原田愛子と結婚。明治二十九年(1896年)に蘇峰がヨーロッパを歴訪しトルストイと会談した。蘆花はその記録に感銘を受け、トルストイの伝記を執筆する。明治三十年(1897年)に逗子に転居。明治三十一年(1898年)に紀行文や自然描写文を集めた『青山白雲』を刊行。明治三十一(1898)年十一月から明治三十二(1899)年五月まで『国民新聞』に、逗子の自宅で来客の婦人の語った噂話のエピソードを元にした小説『不如帰』(ほととぎす)を連載する。

 国家主義的傾向を強める蘇峰と次第に不仲となり、明治三十六年(1903年)に蘇峰への「告別の辞」を発表し、絶縁状態となる。民友社を離れて黒潮社を設立する。明治三十八年(1905年)に愛子と富士登山中に意識不明となり、生活の転換を目指して再び逗子に転居する。

 明治三十九(1906)年四月四日に横浜を出帆してヨーロッパ旅行をして、パレスチナを経て同年六月三十日にロシアでトルストイを訪問する。明治四十年(1907年)に東京府北多摩郡千歳村大字粕谷(現、東京都世田谷区谷)に転居してトルストイの影響による半農生活を送る。

 大正七年(1918年)に粕谷の自宅を「恒春園」と命名。この年からエルサレム礼と世界一周の旅行に出かけ、エルサレム滞在時にパリ講和会議に宛てて「所望」と題する、軍備全廃と世界政府に向けた構想を送付した。大正九年(1920年)から大正十年(1921年)にかけて愛子と世界一周旅行し、この経験をまとめた『日本から日本へ』を愛子と共著で出版する。

 昭和二( 1927)年九月十八日に徳冨蘆花は逝去。五十八年の生涯を終えました。


三国志演義 第一巻
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