横山大観

概要

 横山大観(よこやまたいかん:正字体:大觀)慶応四年戊辰(つちのえたつ5)八月十三日(1868年10月3日)生誕 -昭和三十三(1958)年二月二十六日薨去(八十九歳)は、美術家、日本画家。本名は横山秀麿(よこやまひでまろ)。

概要

 慶応四年戊辰(つちのえたつ5)八月十三日(1868年10月3日)に、水戸藩士・酒井捨彦の長男として生まれる。府立一中、私立東京英語学校の学齢時代から絵画に興味を抱き、洋画家・渡辺文三郎に鉛筆画を学ぶ。明治二十一年(1888年)に母方の縁戚である横山家の養子となる。

 明治二十二年(1889年)に東京美術学校に第1期生として入学。岡倉天心らに学ぶ。同期生には下村観山、西郷孤月、第2期生に菱田春草らがいる。美術学校を卒業後、京都に移って仏画の研究を始め、同時に京都市立美術工芸学校予備科教員となった。またこの頃より雅号「大観」を使い始めるようになる。

 明治二十九年(1896年)に京都市立美術工芸学校予備科教員を辞すと、母校・東京美術学校の助教授に就任した。しかし2年後に当時校長だった岡倉天心への排斥運動が起こり、天心が失脚。天心を師と仰ぐ大観はこれに従って助教授職を辞し、同年の日本美術院創設に参加する。

 美術院の活動の中で、大観は菱田春草と共に西洋画の画法を取り入れた新たな画風の研究を重ね、やがて線描を大胆に抑えた没線描法の絵画を次々に発表する(朦朧体)。しかしその先進的な画風は当時の画壇の守旧派から猛烈な批判を浴びて、大観は春草と共に海外に渡たる。インドのカルカッタ、アメリカのニューヨーク、ボストンで展覧会を開き、高い評価を得る。その後ヨーロッパに渡り、ここでも高い評価を得る。大正二年(1913年)に、守旧派に押されて活動が途絶えていた日本美術院を、下村観山、木村武山らと共に再興する。

 昭和十年(1935年)に帝国美術院会員となる。昭和十二年(1937年)に、この年制定された第1回文化勲章の受章者となる。同年帝国芸術院会員となる。太平洋戦争時に日本文学報国会顧問となり、アドルフ・ヒトラーへの献呈画を描くなど、戦争協力を行った。

 戦後の昭和二十六年(1951年)に日本美術院会員を辞任、同年に文化功労者となる。昭和三十三(1958)年二月二十六日に横山大観は薨去。八十九年の生涯を終えました。


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