鈴木貫太郎

概要

鈴木貫太郎(すずきかんたろう)慶応三年丁卯(ひのとう4)十二月十四日(1868年1月18日)生誕-昭和二十三(1948)年四月十七日薨去(八十歳)は、海軍軍人、政治家。最終階級は海軍大将。栄典勲等功級爵位は従一位勲一等功三級男爵。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)十二月十四日(1868年1月18日)に和泉国大鳥郡伏尾新田(現在の大阪府堺市中区伏尾で、当時は下総関宿藩の飛地)で関宿藩士で代官の父・鈴木由哲と母・きよの長男として誕生。明治四年(1871年)に本籍地である千葉県東葛飾郡関宿町(現・千葉県野田市)に居を移す。

 明治十年(1877年)に群馬県前橋市に転居し、厨橋学校、前橋中学、攻玉社を経て、明治十七年(1884年)に海軍兵学校に入学(14期)。明治二十八年(1895年)に日清戦争に従軍。第三水雷艇隊所属の第五号型水雷艇第6号艇艇長として威海衛の戦い(いかいえいのたたかい)に参戦。その後、海門航海長として台湾平定に参加、比叡、金剛を経て、明治三十年(1897年)に海軍大学校入学、砲術を学んだ後、明治三十一年(1898年)に甲種学生として卒業する。

 明治三十七(1904)年二月に日露戦争が勃発。ドイツ駐在から帰国した鈴木はそのまま「春日」の副長に任命された。第五駆逐隊司令を経て、明治三十八(1905)年一月に第四駆逐隊司令に転じた。日本海海戦では魚雷を命中させるなどの戦果を挙げ勝利に貢献した。日露戦争後の海軍大学校教官時代には駆逐艦、水雷艇射法について誤差猶予論、また軍艦射法について射界論を説き、海軍水雷術の発展に理論的にも貢献した。

 昭和四(1929年)に昭和天皇と皇太后・節子(貞明皇后)の希望で、予備役となり侍従長に就任した。宮中では経験豊富な侍従に大半を委ねつつ、いざという時の差配や昭和天皇の話し相手に徹し、「大侍従長」と呼ばれた。昭和天皇の信任が厚かった反面、国家主義者・青年将校たちからは牧野伸顕と並ぶ「君側の奸」と見なされ、このあと命を狙われることになった。

 昭和十一(1936)年二月二十六日に二・二六事件が発生した。鈴木は四発を肩、左脚付根、左胸、脇腹に被弾し倒れ伏した。反乱部隊が去った後、鈴木は自分で起き上がり「もう賊は逃げたかい」と尋ねた。出血多量で意識を喪失、心臓も停止したが、奇跡的に息を吹き返した。

昭和二十(1945)年四月七日に鈴木は内閣総理大臣に就任。非国会議員、江戸時代生まれという二つの点で、内閣総理大臣を務めた人物の中で、最後の人物である(但し鈴木が亡くなった時点で平沼のほか、岡田や若槻も存命していたため江戸時代生まれの首相経験者で最後の生き残りではない)。また満77歳2ヶ月での就任は、日本の内閣総理大臣の就任年齢では、最高齢の記録である(令和二(2020)年八月現在)。

昭和二十三(1948)年四月十七日に鈴木貫太郎は薨去。八十年の生涯を終えました。


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