南方熊楠

概要

 南方熊楠(みなかたくまぐす)慶応三年丁卯(ひのとう4)四月十五日(1867年5月18日)生誕- 昭和十六(1941)年十二月二十九日逝去(七十四歳)は、博物学者、生物学者、民俗学者。

経歴

 慶応三年丁卯(ひのとう4)四月十五日(1867年5月18日)に 和歌山城下(現、和歌山市)に金物商・雑賀屋を営む父・南方弥兵衛(後に弥右衛門と改名)と母・すみの次男として誕生。

 父弥兵衛は熊楠の様子を見て、学問を奨励した。そのため熊楠は就学前に寺子屋に通った。他にも漢学塾、心学塾で学ぶ。明治六年(1873年)に 雄(おの)小学校(現、和歌山市立雄湊小学校)が創設され同校に入学。明治十二年(1879年)に 和歌山中学校(現、和歌山県立桐蔭高校)が創設され同校に入学。

 明治十六年(1883年)に 和歌山中学校を卒業し上京。神田の協立学校(現、開成高校)に入学。当時の共立学校は大学予備門入学を目指して主として英語によって教授する受験予備校の一校で、高橋是清から英語を習った。

 明治十七(1884)年九月に大学予備門(現・東京大学)に入学。同窓生には塩原金之助(夏目漱石)、正岡常規(正岡子規)、秋山真之、本多光太郎などがいた。明治十八(1885)年十二月二十九日に大学予備門を中退。

 明治十九(1886)年十二月二十二日に横浜港より渡米。明治二十(1887)年一月八日にサンフランシスコに到着。パシフィック・ビジネス・カレッジに入学。同年八月に ミシガン州農業大学(現・ミシガン州立大学)に入学。大学に行かず、自分で書籍を買い標本を集め、もっぱら図書館にゆき、曠野林中に遊びて自然を観察するという生活を送る。

 明治二十一年(1888年)に 寄宿舎での飲酒を禁ずる校則に違反して自主退学。動植物の観察と読書にいそしむ。採集→整理記載→標本作りという生活をする。明治二十五(1892)年九月にイギリスへ渡る。

 明治二十六(1893)年10月5日号に 科学雑誌『ネイチャー』に初めて論文「極東の星座」を寄稿。同10月12日号に論文「動物の保護色に関する中国人の先駆的観察」を寄稿。大英博物館に出入りするようになり、考古学、人類学、宗教学などの蔵書を読みふける日々が続く。

 明治二十六(1893)年十月三十日に自らの生涯にかけがいのない存在となる人物、土宜法龍(どきほうりゅう)と巡り合う。仏教を中心とした宗教論、哲学論で熱論を交わす。同年十二月に土宜法龍に対して「事の学」の構想に関する長文の手紙を送る。

明治三十三(1900)年十月十五日に14年ぶりに日本に帰国。和歌山市の円珠院に居住する。明治三十四年(1901年)に 孫文が和歌山に来訪し、熊楠と再会して旧交を温める。明治三十五年(1902年)に 熊野にて植物採集。採集中に小畔四郎と知り合う。田辺を永住の地と定める。

 明治三十九(1906)年七月に 田辺の鬪雞神社(とうけいじんじゃ)宮司田村宗造の四女松枝と結婚する。明治四十四年(1911年)に 柳田國男との文通が始まる。大正二年(1913年)に 柳田國男が田辺に来て熊楠と面会する。この時、熊楠は緊張のあまり酒を痛飲し、泥酔状態で面会したという。

昭和四(1929)年六月一日に 紀南行幸の昭和天皇に田辺湾神島沖の戦艦長門艦上で進講する。粘菌標本を天皇に献上した。進講の予定は25分間であったが、天皇の希望で5分延長された。献上物は桐の箱など最高級のものに納められるのが常識だったが、開けやすくするため熊楠はキャラメルの大きな空箱に入れて献上した。

 昭和十六(1941)年十二月二十九日に南方熊楠は逝去。七十四年の生涯を終えました。


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